戦国-4

 天文21年。領地は更に栄え、織田家はとってもとっても裕福になった。美濃屋も尾張屋も拡大し、目立ち始めたので第三店舗、津田屋を始めた。表向きはライバルだが、裏はベタベタのガチガチにくっついている。この時代は談合なんて罪じゃ無いのでやり放題である。俺は例のセリフを言ってみたいが為に越後屋という名前を主張したが、縁もゆかりもないという事で却下された。

 直属親衛隊は3000を超えた。親父殿が体調を崩したというので、研究所の医師を連れて見舞う。戦の古傷に膿の溜まりが出来ており、敗血症の手前だという。口に布を噛ませて、押さえつけて無理やり切開して、排膿した。脂汗を流して、目が血走っている。とても痛そうである。

 そうだ、今度麻酔を作ろう。花岡清州がマンダラゲとか、トリカブトやらから作ったって何かで読んだ気がするから、嘉助いや、今では武士となり研究所の所長をしている津久井嘉之介に丸投げすればなんとかなるだろう。こんな短期間で、抗生物質をいくつか分離生産したようなやつなのだ。細菌と真菌、ウイルスと抗生物質の関係の基本的な事とマンガで読んだ、和紙を使ったペーパークロマトグラフィーを使って物質を分離する方法を教えただけなのに。

 あっと、親父殿だ。切開して排膿。生理食塩水でよく洗い、抗生物質を撒いて滅菌した細い竹の筒を差し込んで縫って終わり。

滲出液が出なくなったら抜いておしまい。

 どうやって作ったんだか、陶器の注射器や天敵器もある。これであと何日か抗生物質の投与をすれば多分大丈夫だと言う。ガラスがまだ作れないので、土に牛骨の灰を入れると滑らかな焼き物が出来るぞと教えたら作ったらしい。日本人は器用だなぁ。

 勿論、この技術で作った焼き物は織田の特産として売られていて、これもとんでもない利益をあげている。美濃屋に会社組織を作り、人を雇い、住居を用意し、はっきりした給与体系と病気をした時の補償や補助を付けると働きやすくて効率が良くなると教えたら、技術の漏洩の心配なく事業の拡張ができるようになった。

 他に行ったって、焼き物くらいならともかく、全体的な基礎技術の向上が無ければ直ぐには何もできないのだ。

 ましてや、基本分業制をとってる織田領では何かの技術を持ち出そうとしたら、何人かでまとまって抜けなければいけない。

 病気をしても美濃屋や尾張屋の系列なら、家族も含めて世界最高水準の医療の恩恵を受けられる。おそらく数年以内には結核の治療の糸口も見つかるだろう。自主的に逃げる奴なんていない。

 勿論、フリーランスの忍者なんかでなく、ちゃんとした国防のための諜報機関を組織した。

木の葉隠れの術とか水蜘蛛の術とかは要らない。情報の収集と評価が大事なのである。特殊技能は無くても、美濃屋や尾張屋経由で入ってくるの物や銭の流れだけと噂話だけでも敵国の状態はかなり把握できるのである。もちろん防諜にも力を入れている。この類の事は個人よりちゃんとした組織で系統だって行った方が遥かに効率が良い。


 幸い、術後に親父殿は調子良くなり、当分死ぬ気配は無さそうである。病が癒えた所で、俺に家督を譲って隠居すると言い出した。今までも、俺のやる事に反発する古参の家臣を抑えてくれていたのだが、今後は完全に俺の裏方をしてくれるらしい。

 家臣たちの後継連中もそれなりの数ご俺の仲間になってしまっているし、古参の家臣の奥方連中も、贈り物で完全に籠絡している。昔からのしきたりがどうのこうのとか言っても馬鹿にされて孤立するだけで、変わらなければ居場所が無くなりつつある。一部のやつは出て行ったが、大部分は残った。一部の特権階級だけでなく、みんなで生活が良くなるなら文句があるはずもない。

 武士の領地争いだって、経済活動なのだ。内需を増やすとかいう発想がないので、領地を増やして米の収穫を増やそうとする。領地が増えても、養わなければならない人も増えるので実はあまり効率が良くない。侍と軍は何も生産しないのだ。ましてや戦のたびに百姓衆から徴兵するなんてのは経済活動にとって何も良いことはないのである。


 天文22年。研究所も拡大し、かなり大所帯になったので、総合管理部の下、科学研究所、農業研究所、工業研究所、軍事研究所、情報管理部、学校管理部に分けた。

学校管理部というのは、領内に学校を作ったのだ。

8歳から2年間、子供に読み書きと算術、そろばんを教える。昼には握り飯を出す。将来の天下統一の後には大量の兵士が余る。その再就職先を用意するためには裾野の広い産業の育成が必要なのだ。それに、俺が未来知識で無双すると言っても、時間も無いし、その知識自体がかなりあやふやなのである。津久井嘉之介のようなやつを育てて研究させるのが一番手っ取り早い。そのためには教育と裾野を広げるためのに人工を増やすのは不可欠である。ダビンチは天才であったのだろうが、その天才的な発想を形にする技術が周りに無かった。俺の知識なんてそういう意味では夢想にもならない。ちょっと違うかもだけど、スパコンは作れないから、並列コンピューターで同じようなことをしよう的なかんがえである。

 学校も本当は5年くらいやりたいのだが、病気をなんとかして平均寿命を上げないと人生の15〜20%を学校で過ごす事になってしまう。それに今の世界では5年も学ぶものが無いのだ。とりあえず2年。更に2年間の間に才能のあるものを拾い上げ、その子供達を教育して次の世代の知識の普及の為に育てたい。

 強制力を持たせるために、通わせないものは税金を取ったのでかなりの子供が通うようになった。

 この時代の知識層代表の坊主が、反発して騒いだので、月に3回説教をする時間をくれてやった。ただし無給。子供相手に説話や経文の話をしても興味を持つわけがない。簡単な科学知識を持つだけで、世の中の鬼神の行いの半分は自然現象である事に気付いてしまう。案の定、バチが当たるとかほざいている坊主共は全く相手にされなかった。文字を書いて読むという事ができる事で自分達を特権階級だと思い込んでいた坊主達が、上から目線で子供に何か言っても無駄なのだ。

 ただ、一部の坊主は俺のやることを理解してくれて、道徳教育などや字を教える事を積極的に手伝ってくれた。腐ってない坊主もいるらしいのは新たな発見であった。


 兵農分離をさらに進め、領内の街道の整備、信号機と駅馬による情報伝達網を作った。

 武士階級にも領地経営でなく領地返納の上、相続可能な給与制を選ぶことを可能とした。流石に領地を与える代わりに金を与えても、権利を相続させないというのはまだこの時代では受け入れられない。領地経営の労力がかなり減るので実際には実入りが増えるし、豊作なら米の価格が下がり、実入が減る。不作なら価格は上がっても、総量が減るためやはり実入りが減る。

 可処分所得が増えるような設定にしたため、頭の良いやつの中から、変更するやつが出始めた。研究所の研究員や俺の周りを固めている直属親衛隊は最初から相続可能な給与制である。

 日本だけでなく、世は封建真っ盛り。我々が日本という国家に属していることを理解している者もほとんどいないだろう。人の意識も含めて急には変われない。俺があれこれ変えたい理由だって、小さな国がつまらない領土争いをしてると物流や文明の発達の邪魔となる。色々な物の風通しを良くしてゆけば、冷えたビールや酎ハイを再び味わう事も可能だろう。今にして思えば、平成世界の日本で庶民が普通に食べてたり飲んだりしていたものは、この時代と比較すればスーパーグルメ、神仙の味であった。

 もちろん、俺のやっている事はビールのためではない。天下統一が第一の理由である。イスパニアやポルトガルが植民地を世界に作っている時に国内で殺し合いをしていてどうするっていうはなしである。異世界であれば日本が殖民地なされない保証なんてないのである。鉄砲と共にやってきたキリシタンの宣教師は神の教えを広める愛の戦士ではない。植民地拡大の尖兵なのである。

 

 話は変わるが、ライターの着火部分だけ作って販売したら大いに売れて儲かった。つまみに枝豆を茹でてもらおうと城の台所に行ったら、火打石で火をつけてたので、製作して渡したところ、大いに喜ばれたので、美濃屋と相談、大量生産して津田屋ブランドで売ることにしたのだ。石油が無いので着火部分だけ。そうだ、上杉謙信と仲良くならねば。確か越後は石油が出たはず。小さくする必要は無いし、小さいと加工も面倒なので手のひらサイズでハンドルで回す。マッチも考えたが、他国に拡まった場合、黄燐の危険性も一緒に拡まるかどうかわからず、日本中で健康被害が生じても困るのでやめた。もう少し色々な知識が広まってからやるべきだろう。

 簡単な構造なので、どうせすぐ真似されると思い、最初に大量に作って売りまくった。まだ、特許とかいう概念は無い。


 農業研究所の努力により、ブドウの苗とサトウキビは根付いたようだが、ブドウの収穫はまだまだ先。でも、かすかにではあるが、ワインの背中が見えてきた。サトウキビはだいぶ増えたので、砂糖を作ってみる。絞るのと煮詰めるのは重労働で薩摩藩は奄美大島の住民を酷使しておおいに恨まれたらしいが、そこはちょっとひと工夫。水車を作り、水力を利用してカッターやシュレッダー、絞り機、分離機を動かして、煮詰める鍋も工夫した。

砂糖を造った後の糖蜜からはラム酒ができる。


 俺があまりに多忙になったため、領地の統治に関しては統合管理部を改編してしっかりした官僚機構を作り、それに補助をさせる事にした。もう、金と物の流れが専門職を置かないと把握できなくなっていた。作物も計画的に作る事にした。米は自分達で消費するだけの量として、換金可能な物を多く作る方向で。

 税も米の物納だけでなく、銭による納税も認め、領内の商人を始めとする、工人達にも課税。それなりの混乱はあったが、出てゆく者はほとんどいなかった。多少の税を払っても織田にいれば、他領より全然儲かるし生活も楽なのだ。

 領内の大商人、美濃屋と尾張屋、津田屋が率先して賛同した形にしたのも大きかった。

 

 できた砂糖で作った菓子を持って、最近忙しすぎて放置していた帰蝶のご機嫌を取っていた時、美濃に異変が起きたという連絡が来た。

 義龍が蝮親父を殺して美濃を奪おうとするのはわかっていたので、美濃に諜報員を配置しておいた。整備しておいた連絡網が機能して直ぐに情報が来たのだ。

 あと何年か先だと思っていたのだが、美濃でも織田と同じような改革をしょうとして、内紛が起きていたので、義龍の反乱が早まったのかもしれない。

 道三側であった弟の孫四郎と喜平次を既に殺し、長良川を越えた向こうの大桑城に向かっているという。道三が死ぬと帰蝶が悲しむ。


 俺は帰蝶に別れを告げ、側近と共に駅馬を使い美濃に向かう街道を疾走した。直属親衛隊は那古屋の本部の他に駿河と美濃の国境近くに駐屯地があり、800名の兵士と輜重隊が駐屯している。

 ちょっとした砦でしか無いので、どちらも全く警戒されてない。

 一般的なこの時代の兵は、戦となると領地の農民が徴発される。自前の武器を持って集まるのだ。よって、農繁期近くなると、停戦になったりする。武田信玄と上杉謙信の戦がだらだら続いた理由の一つでもある。冬になると雪が降るので尚更戦の時期が限定されたので決着がつかなかったのだ。

 農民にとっては迷惑な話である。勝ったところで税が減るわけではない。落武者狩りのような余録もあったりするのではあるが、命を賭けるほどの銭にはならない。

 

 駐屯地に飛び込んだ俺は隊長に出陣準備を告げ、準備が戦うまでの間に、わずかな休息と食事をとる。

 現在、親衛隊は輜重隊を別にして、総数3000強の鉄砲騎馬隊である。それを4隊に分けている。そして全員狙撃兵なのだ。

 つまり、ガッツリ鎧を着こんだ重装騎兵でなく軽騎兵である。馬に乗っているのは機動性のためであり、重装騎兵のように鎧を着て馬で密集隊形で突撃したりはしない。重装騎兵は現代の戦車と同じで、歩兵との連携なしでは破壊力は抜群でもすぐやられてしまう。それに日本の馬も、この時代の日本人も体が大きくないため、人と馬の両方に鉄の鎧を装着すると長距離の移動ができない。尾張一国とはいえ、那古野に3000全てを置き、何かあったら時に全部隊で出動というのでは間に合わない。そのため三河との国境に800、那古野に1600、美濃との国境に800を置いた駐屯地を置いている。更にそれぞれに肩当てと板バネをつけた改良馬車の輜重隊が配備されている。装備は最高であるが流石に800では数が少なすぎて、突撃して斬り合うような戦いでは、有効な打撃力にならない。さらに日本では騎馬隊が戦力として活躍するには場所を選ばねばならない。騎兵を持ってもあまり有有効に使えないというのは織田軍だけの話ではなく、日本には重装騎兵は存在しなかったりする。俺が知らないだけかも知らないが、後世有名な武田騎馬隊もそれ程の規模ではないと思う。何度も戦った越後の上杉に大規模な騎馬隊がいない以上、それを主敵の一つとした武田に金のかかる大騎馬隊があったとは思えない。

 で話は戻るが、俺の親衛隊。最初から騎兵にしようとしたわけではない。農民兵のように田植えや刈り取りの時は出動できない兵でなく、戦略上、通年出動できる精兵が欲しかった。また通常の旗本のように主人の周りを守る部隊でなく、少数で最大打撃力を持った部隊。騎兵にしたのは機動性が欲しかったから以外の何物でもない。騎馬による移動はするが、原則騎馬での戦いは行わない。全員狙撃兵としたのは、いくら高性能の鉄砲の効率的な生産体制を作ったとはいえ、後世のマスプロダクトみたいなことはできない。現状硝石も足らず、日々の訓練も考えると、万単位の鉄砲隊なんて夢のまた夢。総勢3000の親衛隊では1000も死傷すれば実質負け戦となってしまう。ましてや1000位の兵力では

武器を持っての直接戦闘では大した戦力にはならないのである。新兵器の鉄砲を活かして、味方の損傷を最低限にして、効率よく勝ちたいとなるとこれしかない。ということで狙撃隊となった。集団戦を行ってはいるが、日々訓練をしているわけではない農民兵主体の軍相手なら、士官以上、つまり兜首を集中して落としてしまうのが勝つためには一番効果的なのである。


 俺に従った親衛隊800は2人1組になり、精度の良い長射程の鉄砲を3丁。2連発の短銃2丁を持っている。基本的1人が射手。もう1人が弾込めと見張り。同じ技量を持っているため交代も可能。20組にひとり指揮官がいる。場合によっては2人同時に射撃もできる。現代銃より遥かに射程が短いのと、火縄銃は発砲煙が出るため、どこから撃たれたのかわからないとはならないが、改良銃と褐色火薬により、この時代では世界最高の銃を持った800の兵である。使い方次第ではかなりの打撃力になる。しかも10丁あまりではあるが、物干し竿と呼ばれる、遠眼鏡つまりスコープをつけた火薬量の多い大口径、超長砲身の銃を持った敵の総大将のみを狙う銃もあったりする。


 近づいてからは、偵察隊を出し、馬を降りて徒歩である。大桑城に着いた時は日も落ちかけていた。城を囲む軍団は2万弱。ほとんどの家臣が義龍に付いたらしい。蝮親父は人望が無いのか?

 急な襲撃だったらしいので、勝ち馬に乗ろうと考えたやつも多いのだろう。俺の手の合図で親衛隊は素早く展開する。完全に優勢で、蝮に援軍なんて考えてないらしく、全員が城の方を見て、見張りなんてろくに置いていない。炊飯の準備をしている者もいる。

 こちらは迷彩服と葉っぱや枝をつけたネットで偽装している。兜はヘルメット、軽い胸当てと脛当てを装備しているだけである。鉄砲以外は鎧通しという短刀しか持っていない。

 親衛隊では大将首をとっても手柄にならないので、名乗りをあげようとか正々堂々とかいうのは全く無い。

 俺の手の合図で全員が無音で散会。それぞれが位置に着いた頃を見計らって、手前の立派な鎧を着たやつを俺は狙撃する。

 音と共に頭の一部が吹っ飛び、そいつが倒れる。同時にあちこちから射撃が始まる。俺の発射音を合図に全員がほぼ同時に撃ったのですごい音だ。数瞬のうちに次の狙撃。倒れるのはまともな鎧をつけたやつだけだ。椎の実型の弾丸は通常の兜や胴丸など簡単に貫通する。わずかな間に行われた最初に800、次いで予備銃の400、再装填した400の3回の狙撃により、現代の軍でいう士官のほとんど死亡したか、行動不能になった。

 後は主に農民の徴発兵である。美濃ではまだ鉄砲もそれ程普及してないため、何が起こったのかわからないで固まっているものも多い。新たに弾込めした銃で今度は4回目の狙撃が行われる。今度は農民兵の頭が吹っ飛んだり、胸に穴が開く。

 誰かが武器を捨て走りだすと総崩れになった。城門が開き城兵が出てきて追撃戦を始める。俺達は城に入り、置いてきた馬を連れてきた輜重隊と共に城に入った。

 しばらくすると、道三が来た。

 「義理の親子とはいえ、命を助けたんじゃ、一つ貸しだぞ」

というと、

「なんの、腐っても斎藤道三、自分だけでなんとかなったわい」

 とかほざく。可愛げのないおやじだ。

義龍も狙撃で殺されていたらしい。首が俺たちの前に届けられた。自分を殺そうとした相手であっても、実の息子である。しかも殺したのが義理の息子だ。蝮の胸中は複雑だろう。


 次の日、俺を追ってきた那古野本部の親衛隊1600を加え、蝮親父を護衛して稲葉山城に戻る。

 抵抗をする者はいなかった。稲葉山城に残っていた義龍の残党は逃散したらしい。戦おうとしても主な武将は全て殺されているか負傷している。逃げ散った者も多い。旗印となる者もいない。日和見をしていた連中が味方するわけもなく、逃げるしか無かったのだ。城に火をかけたりしなかったのに免じて跡を追うことはやめた。

 領内が落ち着いたあと、残った家臣を集め、道三が宣言する。

 「この度、わしは隠居して娘婿の織田三郎信長に家督を譲り美濃の国主を任せたいと思う。

異論のある者はあるか」

 家臣たちは一言も無く平伏する。

 これは俺にとって、意外でもなんでも無い。

有力武将の殆どが死んでしまい、軍勢の力は大きく削ぎ落とされた。回復には10年はかかるだろう。俺がこのまま引き上げると、あっという間に美濃は周りから喰われてしまう。生き残るには圧倒的な戦力で勝った俺に降る以外の方法はないのだ。


 ところで美濃で面白い男を見つけた。竹中重治。竹中半兵衛の方が通りが良いかもしれない。将来は今孔明でも、まだ子供である。父の重元に頼んで、俺直属の配下として貰い受けた。こういう、将来、今孔明とか呼ばれるやつは漢文なんかを読ませておくより、しっかり勉強してもらって軍事研究所か、情報管理部の将来を担って貰いたい。

 それに、俺といれば結核にならないかもしれないし、なっても治療できるかもしれない。


 那古野に戻った俺は親父殿と相談、尾張を親父殿に任せて、俺は稲葉山城に拠点を移し、美濃の尾張化を進めることにした。美濃は大国だが、海も無く、流通の主動脈となるような街道もない。我が尾張以外に伊勢、近江、越前、飛騨、信濃、三河と接しているが、山も多く物流のハブにするには少し条件が悪い。結局、尾張と一緒にして一つのブロックとして発展させた方が楽だと判断したのだ。

 それに前にも言ったが、美濃の中心となっていた武将達を大量に喪失したため、単独で存在するのはかなり困難になっている。直属親衛隊を駐屯させるとかでは問題解決にならない。


 一つ良かったのは、美濃では古参の武将たちがいなくなったため、しかも俺に負けた国なので、改革をする時反対する勢力がいなかった事だ。他国の意向を受け暗躍しようとするものが、わずかにいたが、情報部が密かに処理した。 

 反対勢力と言えば、親父殿が元気なのと、俺が熱田大神の命を受けて動いているという噂を流しているせいか、信之の世界の過去のように織田一族からの反乱が全く起きてない。まぁ、俺を倒しても代わりになれる筈もないし、そんな事をして尾張の国が悪くなるような事をすれば、碌なことにならないくらいの事は分かっているのだろう。


 弘治元年。尾張は活気に満ちている。それを妬んだのか、欲しくなったのか、遠江と駿河の国主今川義元が、甲相駿三国同盟を締結、後顧の憂いを無くし、もともとの同盟者である三河の松平元信(後の家康)と共に尾張侵攻の準備をしているとの報告が情報部からもたらされた。

 この時代の中央とその周辺の大名の目標は、京の都に上洛して足利将軍家を利用して覇をとなえることである。意外と自分が将軍家になろうという意識は少なかったりする。現在は三好が内輪揉めをしながら幅を利かせている。とはいえ、現在将軍位にある足利義輝などもこの後三好軍を相手に討ち死にしたりするわけで、権威は利用しようとするものの、将軍家に忠誠心を持っている大名はいないに等しい。そんな中で現在家柄、圧倒的な武力、都他の位置関係全てにおいて頭ひとつ抜けているのが今川義元なのである。小大名の織田が美濃を併合し、あと5年もして美濃の経営が安定すると、家柄はともかく、今川の上洛にとって大きな障害となるのは子供にもわかることであるし、石高では優っていても経済力では既に相州と三河半分を支配する今川より織田の方が上なのである。これ以上力をつける前に叩こうというのは当然のことである。

 こうなる事は想定内である。当然こちらも準備はしてある。今川義元は信之の時代に言われているようなボンクラではなく、武名より、内政と外交手腕に優れた名君だと言われているし、松平元信も、勇猛果敢な戦上手でまわりを命知らずの三河武士が固めているという評判である。相手にとって不足は無い。この一戦をもって、俺の名前を天下に轟かせてみせよう。


 胸を張って、そりかえってワハハとやっていたら、帰蝶に心配された。時々独り言を言いながらニヤニヤしてる事もあるらしい。いやらしい目をして胸を見るのも嫌だそうである。

気をつけよう。

 

 信之の知っている歴史より概ね流れが速くなっているようだが、俺があれこれ変えているせいかもしれない。あまり変わると前世界の歴史の知識が役に立たなくなる気もするが、元々俺は理系なのである。日本史はとってないし、大河ドラマの知識くらいしか知らないのであまり役立つとも思えない。好きにさせてもらう。

 とりあえず今の目標は今川義元と松平元信の首チョンパである。何かと本で、本能寺の変の裏で家康や秀吉が糸を引いていたなんて事を読んだ気がする。俺の将来の安寧のためには、悪い芽は摘んでおいた方が良いだろう。

 

 今川・松平連合軍は3万5千。我が軍は美濃はまだ、まとまった兵力は出せない。国境を守るだけで精一杯なので、ゼロ。親衛隊3000と輜重隊が1000。それに親父殿の直轄する軍が5000。伊勢との国境にもそれなりの兵を配置しないといけないし、城に残さねばならない兵力もあるので尾張軍は1万である。

 街道整備もされてないこの時代、3万5千の軍が行軍できるルートはほぼ決まってしまう。ましてや、かなり変わったとはいえ、桶狭間の戦いが歴史のイベントから消える可能性は少ない。尾張軍が1万前後であることくらいは、

情報部なんて組織がなくても掴めるだろうし、あれこれ考えると桶狭間を通って、那古野城を攻めると言うのは割と理にかなっている。ここの歴史は大きく変わらないだろうとの考えで桶狭間周辺の測量は綿密におこなわれており、そこでの戦いのシュミレーションも様々なパターンが検討されている。桶狭間は名前の通り小高い丘がたくさんあり、その間が狭間となっている大軍が展開しにくい地形である。前の世界でも田楽狭間の戦いと書いてある本もあったが、実際の地形を見るに、大軍に奇襲をかけたと考えると田楽狭間で戦があったとみるほうが自然な感じである。ただ、有能な武将がここに陣を張ったというのは考えにくい。3万5000ともなると軍が伸びてしまうのである。松平元信が全くキャラが違う所を見ると、今川義元も全然違うキャラなのかもしれない。

 

 親父殿が元気なせいか、この世界では大高城や沓掛城は織田のものである。とは言え、大群の前に小城にこもったとて無駄に兵を殺すだけである。沓掛城や細々した砦は放棄して、

田楽狭間に親衛隊を布陣した。親父殿の5000と輜重隊の半分は後詰で田楽狭間の手前の桶狭間に布陣してもらい、のぼりを立てて織田軍の主力がそこで待ち受けているように思わせた。織田軍の数から言えば平地でぶつかるのは自殺行為で大軍を展開しにくい桶狭間のような場所で待ち受けるのは理にかなっている。奇襲や伏兵は疑われにくいであろう。というか、普通7〜8倍という大軍を相手に戦うような場合、多少の小細工や奇襲など全く無意味。数の暴力の前にすり潰されてしまう。

 親衛隊はいくつものグループに分かれ、田楽狭間に潜伏した。カモフラージュも完璧。そしてこの日のための新兵器。投石器50基が準備されている。これは輜重隊の半分が運用する。移動式の投石器を組み立て準備する。設置場所もあらかじめ用意されている。これで投げるのは石や油の壺ではなく、調理用のボウルの様な土器を2つを重ねて球形にした物。中身は鉄片や尖った石と火薬である。導火線が出ておりこれに火をつけて投石機で投げる。炸裂弾だ。

 全ての投石器は同じ大きさ、同じ強さで作ってあり、炸裂弾も同じ規格で作られているため重さも大きさもほぼ同じ。あらかじめ設定された目印に合わせて照準すれば、ほぼ狙った所に飛ぶ。導火線も実験を重ねて吟味されたもので、燃える速度も一定である。落ちる手間くらいでほぼ爆発する。風が無ければきちんと設計され作られた投石機なら炸裂弾を1キロ以上飛ばせるのだ。

 今川・松平連合軍が侵入してくる。一発の銃声を合図に狙撃開始。敵の武士達がバタバタと斃れる。間を置かず投石機から炸裂弾が飛ばされる。

 不発弾や、予定より早く爆発してしまった物もあるが、数があるため、相当数が敵陣の地面近くで爆発した。3回の爆裂弾の投射が終わると、戦場に立つものはほとんどいなくなっていた。動けるものは逃げている。銃を持った親衛隊が前進、生き残って、戦闘力のある敵兵を射殺してゆく。尾張軍では首をとっても手柄にはならないので、効率が良い。更に軍としての秩序を無くして逃げてゆく今川・松平軍に対して親父殿の軍が追撃戦を行う。半刻くらいで決着が着いた。


 今川義元はこの出陣で死亡したらしい。首実験はできなかった。ボロボロの豪華な鎧からの推察である。隊列の後ろの方にいた松平元信は逃げきれたらしい。後日恐怖のあまり、脱糞したという噂が流れてきた。結果、三河と遠江は俺のものとなった。今川の残党と駿河まで逃げた松平元信はそのまま駿河に居座った。というか、行き場が無いのだろう。ただ、敗残兵をまとめ上げて、どさくさ紛れに侵入してきた北条と武田を退けたのだから、戦上手だというのは本当のようである。


 

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