39. 津奈島上陸_3

 気がつくと、津奈島は夕闇に包まれていた。

 あと少しで日は完全に沈み、島は夜を迎える。


 山道を登った我々は息を切らしながら、ある窪地にたどり着いていた。

 もとは駐車場だったのだろうか。

 いまはまるで見る影もない。近くには錆びた看板が建っていた。


【津奈比売神社駐車場】


「あとはこの先の階段を昇るだけです。行きましょう」


 ミオはそう云って、先へ進んだ。

 私たちはミオのあとに続いた。こんな時だというのに、いや、こんな時だからこそなのだろうか。後ろにいる撮影スタッフはカメラで我々の背中を捉え続ける。

 

 いま、我々は神社の境内にあるつなら池へと向かっている。

 つなら池に眠るのは、代々のヒメコと繋がった神――ツナラ様。

 本当の津奈来命である。


 ミオの前に現れたヒメコは、かつてこんなことを云ったという。


 ――つなら池で祀られているツナラ様は、もともと“岩屋のツナラ”から分かたれた存在。“岩屋のツナラ”には失われた忌み名がある。その名前を呼びながら、ツナラ様と“岩屋のツナラ”がひとつになれば、すべてはあるべき姿に戻るはずです。


 あるべき姿とはいったいなんなのか。

 ヒメコはそれが、島の人々を救う唯一の方法だと語っていた。


 私にはまったく想像がつかない。ミオもそれはおなじようだった。


 我々にできるのは、ツナラ池にいるであろう津奈来命に呼び掛け、“岩屋のツナラ”――ワタツチノカミとひとつにすることだけである。


 どれだけ段差を歩いたのか。

 絞り出すような声で、ミオは云った。


「着きました。ここが、津奈比売神社です」


 神社の境内のはずなのに、鳥居はどこにも見当たらない。

 最上部の段差の両脇に、鳥居の名残と思われる折れた柱があるだけだ。


 拝殿も完全にへしゃげている。地震でもこんな崩れ方をするとは思えない。

 まるで何かの力で圧壊したかのようだ。


 この光景には、さすがのミオも応えたらしく、苦しそうに呼吸を繰り返す。

 私はなにも云わず、黙ってミオの背中をさすった。

 安達氏もミオに水の入ったペットボトルを渡す。


「……ありがとうございます。もう大丈夫です」


 水を飲み、気を持ち直したミオは境内の奥に向かって歩いた。

 ミオに着いていく前に、私は後ろを振り返る。


 境内からは、津奈島の様子を一望することができた。

 綿土湾は夕焼けによって、赤く染まっている。

 

 5年前、綿土湾の中心からワタツチノカミが現れ、津奈島災害を引き起こした。

 それは当時のヒメコであった千尋の尽力によって、一度は鎮められたが、いまだにワタツチノカミの呪いは津奈島に、日本じゅうを蝕み続けている。


 ワタツチノカミはなんのために外界への顕現を果たそうとしているのだろう。

 外界になにか大きな未練でもあるのだろうか。


 一瞬、そんなことを考えるが、すぐにそんなものに答えはないのだと気づく。

 生き物が生きようとする行為に理由などない。

 

 生きること。この世に在り続けること、それ自体が呪いなのだとすれば、ワタツチノカミもまた、我々に仕掛けられたこの呪いに従っている。それだけの話でしかないのだ。


 ミオはどんどん境内の奥へと進む。

 私もついていこうとした時、いきなり地面が揺れた。


 あの古井戸の時に発生した地震よりもずっと大きい。

 思わず、その場に伏せてしまう。

 伏せた地面からは、地下から沸き上がるような振動が感じられた。

 振動はどんどん大きくなっている。


 私はふと、境内の隣に目を向けた。

 立派な構えの旧い屋敷がある。豊田家の人間が住んでいた屋敷である。


 その屋敷の境内にあるはずの古井戸。

 ワタツチノカミと繋がっている古井戸が急に頭に浮かんだ。


 先ほどの宮川の顔をした化け物が古井戸から現れたように。

 

 地下から沸き上がってくる者が、屋敷の古井戸から現れようとしているのだとしたら――


「みんな、伏せろぉ!!」


 私は思わず叫んだ。次の瞬間である。


 地震の揺れは最高潮に達し、まるで噴火したかのように屋敷が吹っ飛んだ。

 屋敷の瓦が、柱が、家具が、あらゆるモノが宙を舞い、焼夷弾のように上空から神社の境内に向かって容赦なく降り注ぐ。


 その衝撃で、私は吹っ飛ばされてしまう。

 倒れゆく中、安達氏とスタッフの悲鳴も聞こえた。

 土煙と埃があたりを包むせいで、まわりが見えない。


 地面に転がりながらも、私はなんとか身を起こし、立ち上がろうとする。

 だが急に、自分のもとに落ちる影に気づいた。


 さっきまではなかったはずの影。

 突如として、巨大な塔がそびえたかのような影が境内に降りている。


 私はそっと、屋敷の跡のほうへ目を向けた。


 ワタツチノカミが屹立していた。


 白い塔のように大蛇の体を起こし、胴体の両側から人間のような白い腕を伸ばしている。細長い胴体はびっしりと白い鱗に覆われているが、それが鱗でないのはわかっていた。ツナラを食べて取り込まれた者たちの顔がそこに浮かんでいた。

 

 そしてワタツチノカミの顔には、お札が巻かれてはいなかった。

 代わりに、宮川の顔となっていた。


「こっちに来なよー。みんな、ここにいるよー」


 虚ろな声で、宮川の顔をしたワタツチノカミが我々に呼び掛ける。

 宮川の顔をしているが、その両目は窪んでおり、眼球は見当たらなかった。

 これまで何度も体験談に登場し、私自身も目撃してきた底無しの目である。


 自分のすぐわきに、圧倒的に巨大な何かが立っている。

 ただそれだけの状況が、震えるほど怖かった。


 この世には決して逆らえないものがあると、我々に思い出させるからだ。


 それでも私は引きずるようにして、足を動かした。

 境内には、屋敷の破片が散開している。私はさっき聞いた安達氏とスタッフの悲鳴を思い出した。彼らは下敷きになってしまったのだろうか。

 

 ミオは、どこに行ったのか。


 奥のほうから、呻き声が聴こえた。

 私は慌ててそちらに駆け寄る。


 ミオが倒れていた。彼女の足は落下して来た屋敷の柱の下敷きになっていた。


「待ってて、ミオさん! すぐに柱をどける!」

 

 私は柱を持ち上げようとする。だが、かなりの重量があり、なかなか容易には持ち上がってくれない。 

 それでもどうにか踏ん張り、柱をどけた私はミオを起こした。苦しそうだが、ミオはまだ意識があった。しかし足を動かすのは難しそうだ。


「肩を貸す。進めるか?」

「大丈夫です……。お願いします……」


 私はミオを肩で担ぎ、境内の奥にある門を通り抜けようとする。

 

 グワアアァーーーーーーーーン

 

 ワタツチノカミが片腕をあげながら、吼えた。

 腕を振り下ろすことなく、少しずつ少しずつ境内のほうへにじり寄ってくる。


「神社の境内は津奈来命の聖域です。ワタツチノカミも簡単には入ってこれません」

「簡単には……ってことは、入ってくる方法があるのか?」

「気を強く持ってください。そろそろ仕掛けてくるはずです」


 ミオがそう云った時だ

 聞き覚えのある声が天から響いてきた。


 ツナラとは、いったいなんなのでしょう。

 夫はなにを口にしてしまったのでしょう。


 椛島裕子の声だ。私は思わず声がしたほうに目を向けようとするが、「見ないで」とミオは叫んだ。


「あれは、ワタツチノカミに取り込まれた人々の声です。目を合わせたら、久住さんも取り込まれます」


 私は地面に視線を落としながら、つなら池へと進んだ。なおも頭上からは声が響き続ける。怨嗟に満ちた声が。


 俺はただ爺ちゃんの話をしただけなのに。どうしてくれるんですか。


 あんたに先生の日誌を貸すんやなかったわ。この疫病神。


 この声は、祖父である恵三の話をしてくれた田所雄太郎と、結城教授の日誌を保管していた明石家マグラだろうか。


 そうだ。私が動かなければ、2人はいまもいつもの日常を営んでいたはずだ。


 よくも俺をハメやがったな。畜生、畜生、畜生……!


 いまのは佐島康介だろう。彼にはかわいそうなことをした。もう津奈島とは関わりをもちたくなかったはずなのに、古傷を掘り起こしてしまった。


 ワタツチノカミは私の罪を糾弾する。罪悪感を煽り立てる。

 おそらくこれが、ワタツチノカミのやり口なのだ。

 不安と罪の意識を煽りながら、意思を支配していく。霊感があるという知り合いのライターも云っていた。怪異は「隙間」にこそ宿るものだと。

 

 少しでも油断をすれば、心にできた隙間に、ワタツチノカミは容赦なく入り込んでくる。


「……着きました」


 門をくぐり、石で作られた路面をたどった先で、私とミオは開けた場所についた。

 広い池が視界に広がっている。

 先ほどの破壊された屋敷の破片が池の水面に浮かんでいた。


 池の中心には浮島が見えた。

 ここがつなら池か。


「……あの浮島まで、連れて行ってもらえませんか」


 ミオはそう云うが、池に入るのはさすがに勇気がいった。

 それでも、なんとかミオを抱えながら、池に入る。

 ちょうど水深は私の腰までの深さだった。ミオとともに、泥を踏みながら、進んでいく。


 珠代。珠代。お前まで、ツナラの味方をするのか。


 隣にいるミオが息を呑むのがわかった。聞き覚えの無い男の声だ。どこか威厳に見ている。ミオを珠代と呼ぶ男など、1人しか思い浮かばない。


 お前までツナラに縛られることはない。

 こっちに来い、珠代。

 お父さんはここにいるぞ。

 島のみんなも、ここにいるぞ。


 隣にいるミオの肩が震えていた。必死に抑えようとしているが、嗚咽がこぼれ続けている。


 タマちゃーん。今日はなにして遊ぼうか。

 お勉強かい。偉いねぇ。

 珠代さま。また千尋さまをお探しですか。

 

 珠代 タマちゃん 珠代さま 珠代ちゃん 珠代 珠代 珠代 珠代……


 つなら池に木霊する無数の声。

 ミオが失ったはずの思い出たちが、ミオに語り掛けてくる。

 

 ミオの進む足が止まった。俯きながら、涙をポタポタ流している。

 私は必死に呼びかけた。


「止まったらダメだ、ミオさん。あいつらに取り込まれるぞ」

「わかってます。わかってますけど……」

「耳を貸すな。お姉さんと約束したんだろ?」

「だから、わかってますって!」


 ミオは叫んだ。


「わかってるんです。わかってるんですけど……、足が竦んで動けないんです。このまま進んだら、本当に、お父さんたちと会えなくなる。そう思ったら……」


 先ほどの私がそうだったように、ワタツチノカミの言葉はミオの罪悪感を煽り立てている。あれほど強かった娘の心をいともあっけなく砕こうとしている。


 無理やり引きずってでも、浮島に行くべきなのか。

 それともこのまま、ワタツチノカミに取り込まれて、島民たちと共にいるほうが彼女にとって幸せなのか。


「おーい! おーい!」


 いきなり後ろから声を掛けられた。ワタツチノカミではない。

 私とミオは後ろを振り返った。


 安達氏が池のほとりに立っていた。顔に痣を作り、血を流しながらも、ビデオカメラを構え、我々の様子を撮影している。

 

 安達氏は鬼の形相で我々に叫んだ。


「俺は見てるぞー! ちゃんと見てるぞー! ちゃんと最後まで撮るからなー!」


 私は思わず笑みを浮かべた。隣のミオも呆れたようにかぶりを振ってから、ほくそ笑む。


「そうだった。私はいま、豊田珠代としてここにいるんじゃない」


 ミオは前を向き、ふたたび歩き出す。


「水城ミオとして、ここにいるんだっ」


 ようやく我々は浮島にたどり着いた。

 浮島には黒焦げになった大木の根が生えている。ふと私は根元にある木箱に気づいた。ミオは木箱の蓋を開けて、息を漏らした。


 中に入っていたのは神楽鈴だ。


「これ、神楽に使われていた鈴です。いつも姉が使っていた……。どうして、ここに……」


 可能性はひとつしかない。

 豊田千尋がここに置いていたのだ。いつか来る珠代のために。


 ミオは愛おしそうに神楽鈴を胸に抱くと、凛とした姿勢で立ち上がる。

 

 そのまま神楽鈴を掲げ、かすかに揺らした。

 シャリン、という涼やかな音が池じゅうに響き渡る。


 ミオは神楽鈴を鳴らしながら、その場で舞いを始める。

 どこかぎこちない足取りだったが、所作に迷いはない。何度も見てきた姉の舞を思い出しながら、踊っているのだろう。

 かつて、代々のヒメコたちが舞ってきた神楽を継承しながら、ミオは祝詞を唱えた。


 津奈来命、津奈来命、守り給え、幸え給え

 和太川知乃加美、和太川知乃加美、守り給え、幸え給え


 池の水面に波紋が生じ始める。黒い群れが浮き上がり、バシャバシャと音を立ててのたうち回っていた。ウナギの群れだ。ワタツチノカミではない。津奈来命の化身であるウナギたちだ。


 ミオは祝詞を復唱しながら、再度神楽鈴を鳴らした。

 

 それまで無秩序だったウナギたちの動きが鈴の音に合わせて、統率されていく。ウナギたちはより集まり、ひとつの巨大な生き物に変わろうとしていた。


 黒い龍だ。ワタツチノカミによく似ているが、胴体に人間の顔は浮かんでいない。

 また頭部も、人間の頭の形をしていなかった。

 どちらかというと、シャチを連想させる。口元にはびっしりと牙が生えていた。

 この黒い龍こそ、津奈来命――ツナラ様なのだ。

 

 ツナラ様は池から身を起こし、天に向かって巨体を持ち上げる。その反動で池の水が押しのけられ、我々に波しぶきとなって襲い掛かった。


 黒い龍たるツナラ様。白い龍たるワタツチノカミ。

 両者が相対する姿は、まるで一対の塔がそびえているかのようだ。

 地面から見上げる我々は、両者から見れば、地べたを這う蟻にも等しいだろう。


 2体の龍はお互いに睨みあったまま、動かない。

 

 ミオは緊張しながら、2体の龍を見つめていたが、やがて意を決したようにもう一度、神楽鈴を鳴らした。


「津奈来命、ワタツチノカミ。いま、ひとつに還れ」


 その一声を合図に、ツナラ様が動き、ワタツチノカミに嚙みついた。

 ワタツチノカミは苦悶の咆哮を発しながら、その腕でツナラ様の胴体を掴み、爪を立てる。


 わああああああああああああああん

 わああああああああああああああん


 ワタツチノカミの全身から無数の悲鳴が洩れた。これまで取り込んできた者たちの悲鳴が聞こえる。

 ツナラ様はワタツチノカミに噛みついたまま、巨体をくねらせ、ワタツチノカミの胴体を締め上げていく。それはまるで、巨木に巻き付く蛇のような姿だった。

 

 咆哮をあげていたワタツチノカミが次第に弱っていく。それにつれて、響き渡っていた悲鳴も徐々に勢いをなくしていった。

 ひとつ。またひとつと、ワタツチノカミの胴体から顔が消えていく。

 

 なおもツナラ様はワタツチノカミに噛みついたまま、巻き付いたまま、決して拘束を解こうとしない。

 やがて両者に変化が訪れる。

 ツナラ様の体が少しずつ、ワタツチノカミに沈みこもうとしていた。

 

 ミオも、安達氏も、畏怖の表情で光景を見つめていた。

 

 津奈来命と和太川知乃加美がひとつになる。

 すべてをあるべきところへ戻すために。

 

 これからなにが起こるのか。

 このときの私には予想もつかなかったが、ただこれだけは確信できた。


 長きに渡る取材が、いま終わりを迎えたことに。


 その確信を抱いたまま、急に私の意識は遠のいていった。

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