35. 豊田珠代の回想_4
あの日、私は夢を見ていました。
津奈島の夢です。
久しぶりに見た津奈島は、激しい雨が降っていました。
私は津奈比売神社の鳥居のそばに立っていました。
傘もなく、全身がずぶぬれになっているのに、私は立ち尽くしていました。
するとふもとのほうから微かな声が聴こえてきたんです。
最初は雨の音にかき消されているせいで、声がなにを云ってるのかほとんど聞こえませんでした。
鳥居からは港の様子が一望できます。
いまは雨。それに島の暗さからいって、日が昇り切っていない時間帯だとわかれました。どの家も明かりがついていません。
それなのに、家の外から1人、また1人と誰かが出てくるのがわかったんです。
島の人たちは傘もささず、外に出ながら、海のほうに顔を向けていました。
みな、おなじ言葉を唱えていました。
最初はかすかだった声に、幾多の声が重なって、まるで輪唱のように、おなじ言葉を島中に響かせ続けたのです。
ツーナーラーノーミーコートー、ツーナーラーノーミーコートー
マーモーリーターマーエー、サーキーハーエーターマーエー
龍鎮祭で唱えられる、あの祝詞です。
みんな、雨に濡れながら、一心不乱におなじ祝詞を唱えていました。まるで、これから来るなにかを讃えるように。
すると祝詞に合わせて、別の音が響いてきたんです。
グワアアァーーーーーーーーン
グワアアァーーーーーーーーン
岩屋の奥から響く音。岩屋の奥にいる者の鳴き声。
私たちにとっては耳慣れた音だけど、聞こえてくる鳴き声はいつもとなにかが違っていました。
パラパラと岩屋の入り口からつぶてが降っているのが見えました。
音の響きはどんどんと強くなっていました。
そこでわかったんです。
岩屋の奥から、何かがやってこようとしていると。
その場から逃げ出したかったです。
でも、逃げられませんでした。
金縛りとは違います。
自分の意志と、身体の動きがちっとも繋がっていないんです。まるで誰かの目を借りて津奈島の光景を見ているような、そんな感覚がありました。
岩屋の音はどんどん大きくなっていきます。
すると、ゴォオオオオオ、という轟音が岩屋の奥から響いたかと思うと、岩屋の入り口から黒い水の塊が勢いよく濁流となって飛び出してきたんです。
夜明けの日を浴びていない海は、空と海面の境目がわからないほど、暗闇に溶け込んでいました。その中でも、岩屋から流れ込んできた濁流の“黒さ”は異常でした。
この世にあるモノをすべて塗りつぶしちゃうかのような。
それくらいの、絶対的な黒だったんです。
黒い水は綿土湾の海を染ま上げました。黒い水が流れんだ箇所が、鳥居から俯瞰してみると、底無し穴のように見えました。
やがて海に溶け込んだ黒い水は次第に渦を巻いていきます。自然にできた渦巻ではありません。まるで意思を持っているかのように、渦を巻きながら、形を変えていったんです。
そのあいだも祝詞を唱える島の人たちの声はどんどん熱量を上げていきます。
私の耳には、みんなの祝詞を唱える声は……断末魔の悲鳴のようにも聴こえました。
海面に現れたのは、黒い巨大な円でした。
まるで真っ黒な満月を海に浮かべたようにも見えました。
すると、黒い円のできた海面が徐々に徐々に盛り上がっていったんです。
やがて海面を割るようにして、ソレが現れたんです。
最初は骨のように白い塔が海から屹立しているのかと思いました。
だが、ソレは塔ではありません。塔は身をよじるように自身をくねらせていたんです。明らかに生き物の動きでした。
あえて例えるなら……、ソレは白い龍でした。
死体のように青白い人間の腕を持った巨大な龍が綿土湾から身を起こしていたのです。顔の部分は、よく見えませんでした。
ぼろぼろの包帯のようなモノが頭じゅうを覆い隠すように巻き付けられていたのです。包帯には文様が書かれているのがわかりました。
津奈比売神社で受け継がれてきた、封印の文様です。
あれは包帯ではなく、封印のお札だと、そのときにわかりました。
札が巻き付けらた顔には1ヵ所だけ、札がほどけかけて、隙間ができている部分がありました。ちょうど人間の眼がついている部分です。
その隙間から覗いていたのは、虚ろな穴でした。
目じゃないです。頭蓋骨の眼窩のような穴が開いてたんです。
だけど、ただの穴のはずなのに、私は見られている感覚を抱きました。
視線です。ソレは高い位置から島を見下ろしていたんです。
まるで神様のように。
ソレは頭を巡らせながら、島を眺めまわし、ある一点に視線を定めました。
山腹に見慣れない建物があったんです。
率直に云えば、センスのない成金がオシャレと機能美を勘違いして建てたような、ダッサい建物でしたね。
たぶんあれがツナラ御殿だったんだと思います。
ツナラ御殿にある無駄に広いウッドデッキに、わらわらと人が出てきました。派手な格好をした若い人たちだったと思います。
海にいる白い龍はしばらくツナラ御殿を眺めてから――吼えたんです。
グワアアアアァーーーーーーーーン
巻き付いた札を破って、顎を大きく開いたんです。
人間によく似た顎でした。
ただ人間の口と違い、龍の口は耳元まで裂けていました。
白龍の咆哮が島じゅうに轟き、山彦のように反響しました。
それを合図にするかのように、ウッドデッキにいた人たちが次々にデッキの柵を乗り越え、飛び降りていったんです。
落下する人たちは、落ちていきながら、身体が崩れていきました。
まるで泥人形をデッキから落としているかのようでした。
白い龍はまた吼えました。
咆哮というより、嗤い声に近かったかもしれません。
すると港にいた人たちにも異変が起こりました。
風船が破裂するように、港の人たちの体が弾け飛んだんです。
その光景は、つなら池で消えた父の最期にそっくりでした。
白い龍は海を掻き分けるように、ゆっくりと岸に近づいていきました。
それにつれて海面がうねり、押し分けられた海水が津波となって、港を飲み込んでいったんです。
私が知っている港の風景があっという間に壊されていきました。
やめて!
何度も叫びましたが、私の叫びは声になってくれませんでした。
白い龍は港のことなんてお構いなく、進んでいき、島に上陸しました。
蛇のように巨大をくねらせるたび、島じゅうが震えました。
まるで大地震です。巨大な質量を持った白い龍が進むたび、雨で地盤が緩んでいた山のあちこちから土砂崩れが起こりました。
豪雨、土砂崩れ、津波で崩れる建物の結界音。いろんな音が交わって、まるで島全体が泣いているかのようでした。
あらゆる災厄を引き起こしながら、なおも白い龍の進行は止まりません。
白い龍はまっすぐこちらに向かっていました。
こちら、津奈比売神社のほうへ。
そこで初めて、私の視界の主は動きました。
弾かれたように境内を走り、屋敷に飛び込みます。
視界の主はずっと誰かの名前を叫んでいました。
孝明さん! 祥子さん!
私もよく知っている2人の名前です。
屋敷を駆け回りながら、やがて視界の主は渡り廊下を進み、古井戸にたどり着きました。
古井戸のそばには2人の姿がありました。
孝明さんと祥子さんです。2人とも虚ろな顔をしていました。
視界の主は何度も名前を呼びましたが、まったく反応を示しませんでした。
声を無視して、なんの躊躇もなく、2人とも古井戸の中へ落ちていきました。
視界の主は、呆然と古井戸を眺めていました。
力が抜けたようによたよたと古井戸へ近づいていきます。
すると、古井戸の底から声が聞こえてきました。
機械音のような抑揚のない声で、こう云っていたんです。
わーれー、けーんーげーんーせーりー
わーれー、けーんーげーんーせーりー
我、顕現せり。
視界の主はしばらく古井戸を眺めていましたが、やがて踵を返し、境内のほうへ急ぎました。
なおも島は震え続けています。白い龍が近づいているからなのか、震動はますます大きく、激しくなっていました。
ズゥン、ズゥン、と白い龍が進むたびに、地面が跳ねあがり、視界の主は何度も転倒しました。ぬかるみに転び、泥にまみれても、視界の主は起き上がり、ある場所を目指して、走り続けました。
境内の奥、門を抜けて、進んだ先にある、ツナラ池へ。
雨のせいでツナラ池の水位があがり、浮島もほとりも完全に水没していました。
視界の主のくるぶしまで水につかっていましたが、視界の主は構わず池の中心へと進んでいきます。
水を吸った服で溺れそうになりながら、なんとか泳ぎぎった視界の主は沈んだ浮島に足を着けました。
視界の主はじっと池の水面を見つめています。
雨の水滴で波紋が広がる水面には、視界の主の顔が映りこんでいました。
久しぶりに見た顔は頬がこけて、少しやつれているようでした。
だけど相変わらず綺麗なままでした。
鬼のように美しい顔には悲しみも、怒りの感情も浮かんではいなかったです。
涼やかなヒメコの仮面が、いまこのときもなお、彼女の顔に貼り付いていたのです。
「水城ミオ。聞こえますか、水城ミオ」
視界の主が私に呼び掛けます。彼女は気づいていたのでしょう。夢を通じて、私が彼女の視界を借りていることに。
私は答えましたが、それは声になりませんでした。
私の声が届かないまま、彼女は話し続けます。
「私は失敗しました。もうこの島はおしまいです。これから、ヒメコとして最後の務めを果たします」
彼女は淡々と事務的な口調で話を続けました。
「“岩屋のツナラ”を滅することはおそらくできません。すでに“岩屋のツナラ”の分身は島の外にばら撒かれてしまった。たとえここで“岩屋のツナラ”を滅ぼしても、何年かの後、“岩屋のツナラ”は人々の記憶を苗床にして必ず復活を果たす。“岩屋のツナラ”の真の名前を覚えいている者がいる限り。お願いです。“岩屋のツナラ”の復活を阻止してください。お願いします」
一気に話し終えた彼女は、ふっと表情を緩めました。
タマちゃん、と彼女――豊田千尋は水面に向かって語り掛けます。
「こんなことお願いしてゴメンね。私は、いつもあなたをこの島であなたを想ってる」
それじゃあ、またね。
チーちゃんのその言葉を最後に、私は目が覚めました。
******
目が覚めると、朝の8時を過ぎていました。
いつもは夢なんて起きたらすぐ忘れるのに……その夢はハッキリと覚えていました。私が布団から起き上がろうとすると、慌てた様子で祖父が部屋に入ってきました。
そこで知ったんです。津奈島災害の発生を。
いま見た夢が津奈島災害の光景であることも、はっきりとわかったんです。
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