34. 豊田珠代の回想_3

 父が亡くなった直後のことは、あまりよく覚えていません。

 思い出せるのはあのとき見た、父の最後の姿。

 それと、いつのまにか島に帰って来ていた姉に抱きしめられたこと。


 やっと立ち直ったときには、姉は継承の儀を終えて、正式にヒメコとなっていました。久しぶりに見た姉の顔は、私がよく知る優しい姉の顔ではなかったです。


 島を背負う覚悟ができたせいなのでしょうか。

 ほとんど笑うことはなくなり、目つきも鋭く、冷たくなったように感じました。


「私は、島を離れちゃいけなかった。もっと早くヒメコを継いでいれば、お父さんは死なずに済んだ」


 父の身になにが起こったのかはわかりません。

 しかし、島の人々は怒り狂ったツナラの祟りに触れたせいだと信じきっていました。父は自分の娘がヒメコになることを拒絶した。

 だからツナラが怒ったのだと。


 勝手な理屈です。父は島の未来を想って行動し続けていたのに。


 ヒメコを継いだ姉は、父がやり残した仕事を続けようとしました。

 父は悪化し続ける島の財政を立て直すために、津奈島に新しい事業の導入を考えていたようです。


 父の計画では、島で獲れた水産品を鮮度の高い状態で全国輸送するために、輸送会社や最新の冷凍施設を取り入れることを考えていたようです。

 島の議員の人たちも途中までは計画に合意していたみたいでした。


 ところが姉がヒメコになった直後から、提案の内容が変わった。

 

 津奈島で獲れたウナギを輸送しようと云い始めたのです。


 最初、それを聞いたとき、なにかの冗談かと思いました。

 津奈島のウナギ、つまりツナラを食べることはこの島における最大の禁忌。

 そんなこと、島で生まれ育った人間なら誰でも知っているのに。


 だけど、冗談じゃなかった。


 ウナギの稚魚は金になる。津奈島にはいくらでもいる。

 規制が厳しいから、密輸で全国にばら撒く必要がある。

 島の外から事業者を連れてきて、仕事をさせればいい。


 気がつけば、ほとんどの島の人たちがウナギの事業に賛同していました。

 それがなにを意味するのかは、みんなわかっているはずなのに。

 まるでみんなで一緒に奈落の底へと飛び降りようとしている。

 そんな感じがして……とても怖かったです。


 姉はなにかを感じているようでした。

 

 ヒメコになってからというもの、つなら池のほとりに立ち、考え事をする姿が増えいていましたね。まるで在りし日の母のように。


 あるとき、姉から話があると云われて、広間に呼び出されました。

 姉は白衣に緋袴を着けた、ヒメコの格好をしていました。

 人形のような感情のない表情のまま、姉は話しだしました。


「豊田珠代。あなたに大事な話があります」

 

 姉の声を聞いたとき、私は昔のことを思い出しました。

 

 いつもの姉の声音とは全然違う。

 ずっと年上の人が話しているような声。


 昔、ツナラに襲われていた結城教授を助けたときの姉の声とまったくおなじだったんです。

 姉は私にこう云いました。

 

「この島は“岩屋のツナラ”に取り込まれました。そう遠くない将来、島は滅びます」


 頭の中が真っ白になりました。

 正直、全然意味はわからなかったんですけど、目の前の姉は冗談を云ってるわけじゃないのはすぐにわかりました。


「なんで? なんでそんなことを云うの……?」

「事実だからです。島の人間はほとんどが“岩屋のツナラ”と繋がってしまっています。それがいつになるかわかりませんが……、いつか必ず、島の人間たちは“岩屋のツナラ”と同化する。そして“岩屋のツナラ”は島の結界を破り、外の世界へ顕現を果たす」

「チーちゃんがなにを云ってるのか全然わかんないよ!」


 私が叫ぶと、姉は優しく微笑みました。

 

「いま、あなたが話している相手は千尋ではない。豊田早苗でもあるの」

「お母さん……?」

「そして、豊田春子でもある」


 それは、祖母の名前でした。

 そこで私は初めて姉の顔に幾人もの面影を見出したのです。

 亡くなった在りし日の母の面影を。一度も会ったことのない祖母の面影を。

 代々に渡り、つなら池に消えていったであろうヒメコたちの面影を。


 私が対峙しているのは、姉の顔をしたヒメコでした。

 姉は歴代のヒメコたちの魂と繋がっていたのです。


「私たち、ヒメコの役割はツナラ様と共に儀式を執り行い、“岩屋のツナラ”をこの島に封じ続けることでした。しかしいつからか島の人々の間には神社に対する疑心が蔓延し、島の未来に関する不安が広がった。その隙を“岩屋のツナラ”につけこまれてしまったのです」

「“岩屋のツナラ”……? それはツナラ様とは別なの?」

「“岩屋のツナラ”も、ツナラ様もどちらも元はおなじツナラです。かつてこの島に流れ着いた、ただひとつのツナラから分かたれた者です」


 ヒメコは語ります。

 ヒメコだけしか知らない、津奈来命の物語を。


 それはこんなお話です。


******


 かつてこの島の砂浜に、1人の男が漂流してきました。

 見たことがない姿をした男は傷だらけで、訊いたことのない言葉を話しました。

 島の人間は気味悪がりましたが、長老の娘は男に同情し、山腹にある長老の家で男を介抱し続けました。


 男は自らをツナラと名乗りました。もっと違う響きの言葉だったかもしれませんが、少なくとも娘たちにはそう聞こえたのです。


 このため男は娘たちからツナラ、と呼ばれるようになりました。

 ツナラはみるみる回復していき、助けてくれたお礼がしたいといって、長老の家の近くにある池に案内しました。


 この池にたくさんのウナギを放ちました。飢えて困ったときには、ウナギを食べるといいでしょう


 見ると確かに、なんの魚もいなかったはずの池にウナギが泳いでいました。

 ずっと飢えに苦しんでいた島の民はツナラに感謝を捧げました。

 

 そしてツナラは自分を助けてくれた娘に想いを寄せ、娘もまたツナラに恋心を抱くようになったのです。やがて2人は夫婦として結ばれたのです。


 ツナラと娘の夫婦は仲睦まじく暮らしていたのですが、あるとき大飢饉が島を襲いました。作物は育たず、魚も獲れず、島の民が頼れるのは、池に巣食うウナギたちだけでした。ウナギを食べ、飢えをしのいでいた島の民たちでしたが、次第にツナラの様子に変化が訪れました。


 高熱を発し、苦しそうにうなされるようになったのです。

 ツナラは愛する娘に頼みました。


 自分を岬にある岩屋に閉じ込め、3日3晩誰も入らないようにしてほしい、と。

 そうすれば、ツナラの苦しみはいずれ治まるというのです。


 娘は愛するツナラを信じ、彼を船に乗せて、岩屋の奥に閉じ込めました。

 そして島の人間たちに、決して岩屋へ近づかないように告げたのです。


 それからです。

 岩屋の奥から恐ろしい叫び声が響くようになったのは。

 

 それはどんな獣の叫びにも似ていない、雷鳴のような音でした

 島の民は震えあがり、ツナラの正体に疑いを持つようになりました。


 あのツナラは何者なのか。じつは化け物なのではないか。


 島の若者数名はついに約束を破り、男の正体を確かめるために、こっそり岩屋の奥に入り込みました。


 そこで若者たちが見たのは、苦しそうにもだえる巨大なウナギの化け物でした。

 ウナギは自らの正体を見られたことに怒り、若者の1人を食らいました。

 残りの若者たちは慌てて村に戻り、ツナラの正体を知らせました。


 すると岩屋からウナギの化け物が現れ、村の者たちに宣言したのです。


 お前たちのせいで、私はこんな姿になった!

 せっかく助けてやったのに!

 お前たちを全員食らってやる!


 恐ろしい形相で叫ぶ化け物に、村の者たちは震えました。

 ツナラの妻である娘が説得しようとしますが、ツナラは訊く耳を持ちません。


 妻は嘆き悲しみ、ウナギが巣食う池に祈りを捧げました。

 するとウナギたちが池から顔を出し、こう云ったのです。


 妻よ。悲しまないで。私はここにいる。


 そのウナギたちの正体は、ツナラの分身でした。

 そしてウナギたちは、自分の来歴を騙り始めたのです。


 ツナラはもともと南の島にいるウナギの神様でした。ツナラは島に豊穣をもたらしましたが、やがて村長の娘に恋をしたことで、悪神として追われてしまったのです。


 ツナラは自らの体から、自由にウナギを生み出すことができました。

 ツナラの分身であるウナギを食べると、食べた人間の心とツナラが繋がるというのです。


 ツナラは島の民のために、分身であるウナギたちを生み出しました。

 そのウナギを島の民が食べたために、島の民とツナラの心が繋がったのです。


 平穏な日々が過ごせているうちは、問題がなかった。

 しかし大飢饉による島の民の不安が、ツナラに流れ込み、化け物へと変えてしまったのです。


 池にいるウナギたちは、まだ穢されていないツナラの良心そのもの。

 娘は善なるツナラに祈りを捧げました。


 善なるツナラは島を守る神となり、悪神となったツナラに戦いを挑んだのです。

 激しい戦いの末、悪神であるツナラは岩屋の奥に封じ込められました。


 しかし、完全に滅びたわけではないのです。

 岩屋の奥に封じ込められたツナラは、分身であるウナギを海に解き放ちながら、自分が外に出る機会をじっと伺っています。


 島の民は岩屋のツナラの祟りを恐れ、毎年贄を捧げました。

 ツナラは人々を食らうことで、相手の知恵を得る。

 だから、まだ世の理を知らない赤子をヒルコとして捧げたのです。


 一方、娘は池のウナギたちを津奈来命と呼び、津奈来命と共に“岩屋のツナラ”を封じつづけるために、巫女として生涯を全うしました。


 ツナラと結ばれた巫女はやがてヒメコと呼ばれるようになり、そしてヒメコの血を絶やさないよう、ヒコを娶るようになったのです。


 これが津奈比売神社の始まりなのです。


******


「ヒメコの役割はツナラ様と共に儀式を執り行い、“岩屋のツナラ”をこの島に封じ続けることでした。しかしいつからか“岩屋のツナラ”に関する伝承は失われ、島の人々の記憶からも消えていったのです」

「それは、どうしてなんですか……?」

「時折、“岩屋のツナラ”に加担する者が現れ、島の伝承を改竄したからです」


 姉の顔をしたヒメコは云いました。


「“岩屋のツナラ”は時折、島の誰かをそそのかし、自らの結界を破る手伝いをさせるのです。歴代のヒメコたちはその企みを何度も退けてきました。しかし、いつしか島には神社に対する疑心が蔓延し、島の未来に関する不安が広がった。その隙を“岩屋のツナラ”と協力者につけこまれてしまったのです」

「これから島はどうなるんですか……?」

「島のほとんどの人間は“岩屋のツナラ”と繋がってしまいました。それがいつになるかわかりませんが……、いつか必ず、島の人間たちは“岩屋のツナラ”と同化する。そして“岩屋のツナラ”は島の結界を破り、外の世界へ顕現を果たす」

「……それは、避けられないことなのですか?」

「避けたいと願っています。ですが、おそらく難しいでしょうね。高い確率で、我々は敗北する」


 だからお願いがあります、ヒメコは続けて云いました。


「あなたはすぐに、この島を出て行ってほしいのです」


 私は耳を疑いました。ツナラの話は受け入れられたのに、急に現実的な話になって、頭がパニックになったんです。


「なんで……。なんで、そんな話になるんですか……?」

「理由はふたつ。あなたの安全のため。そして私たちが敗北したとき、あなたにすべてを託すためです」

「託すって、戦えってことですか? 私、ヒメコじゃないのに、どうやって……!」

「“岩屋のツナラ”の忌み名を見つけるのです」


 ヒメコは云いました。


「つなら池で祀られているツナラ様は、もともと“岩屋のツナラ”から分かたれた存在。“岩屋のツナラ”には失われた忌み名がある。その名前を呼び、ツナラ様と“岩屋のツナラ”がひとつになれば、すべてはあるべきところへ戻るはず」

「あるべきところって、なんですか?」

「あるべきところです。それが島の人々を救う、唯一の方法になるはずです」


 ヒメコは私のもとに近寄りました。ヒメコの涼しいまなざしが、私に強い圧をかけてきたのです。


「水城の家には話をつけています。あの家の方々はあなたを歓迎してくれます。来週には島を出てください」

「もう、戻ることは、できないの……?」

「戻ることは許しません。お願いします」


 そこでヒメコは私の手の甲に、自分の手を優しく重ねました。

 重ねた手にポタポタと、雫がこぼれ落ちました。


「ゴメンね、タマちゃん。ゴメンね……」


 私は顔を上げられませんでした。

 もうこの島にはいられないのだと、強く実感してしまったのです。


 結局、私は島を出ていくことになりました。


******

 

 屋敷を出るとき、有賀さんが港まで送ってくれましたが、姉はなにも云ってくれませんでした。私のほうからも、なにも云わなかったです。


 明け方の港。少ない荷物を詰め込んだスーツケースを抱えて、朝焼けに白む海を眺めていました。沖のほうから漁船の汽笛が聴こえていました。


 ずっと当たり前だった光景と、もうすぐお別れをしないといけない。

 これが映画やドラマだったら、感動的なワンシーンになったと思うんですけどね。

 あのときの私の心はとても凪いでいました。

 かつて思い描いていたような希望なんて、この島には残っていないとわかっていたから。2人でヒメコを務める、なんて夢はもう思い描けなくなっていました。


 やがて港にフェリーが着くと、私は孝明さんに姉のことを頼み、荷物を持って船に乗り込みました。

 本土には何度も行ってましたし、フェリーに乗るのも初めてではなかったんですけど、客室へ行く気にはなれなくて、甲板に立って、ぼんやりと島を眺めていました。


 綿土湾に広がる集落や、港に停まった漁船。海を取り囲むようにそびえる山々に、岬にぽっかりと開いた“つならの岩屋”。

 

 朝焼けに染まる島を眺めながら、私はスマートフォンを構えて、写真を撮っていました。これがきっと私が見る島の最後の光景だと思ったんです。


 いつも学校の帰りに寄っていた駄菓子屋に、ミヤさんがやっている定食屋。いつも虫取りに出かけた龍賀峰。私が生まれ育った津奈比売神社。

 

 山腹にある鳥居にレンズを向けたとき、私は心臓が跳ねあがりそうになりました。

 

 鳥居のそばに姉が立っていたんです。

 

 顔はよく見えませんでしたが、甲板にいる私を見ているのはわかりました。

 汽笛が鳴り、フェリーは港から離れていきました。


 どんどんフェリーは島から離れていきます。私は遠ざかっていく鳥居や、姉の姿をずっと眺めていました。

 姉はただそこに立っているだけでした。手を振ることも、こちらに呼び掛けてくることもありません。でも、ずっとフェリーを見送り続けていました。


 島の姿が見えなくなるまでずっと、私は甲板に立っていました。

 そして島が完全に水平線の向こうへ消えた時、その場に崩れて落ちて、泣きました。あんなに泣いたのは、後にも先にもあれっきりです。


 夢も、家族も、故郷も、私はあのとき、全部失くしたんです。


 それが、私の見た姉の最後の姿でした。


******


 東京に着いて、私は水城家の養子となりました。

 姉から話を訊いていた祖父は私をこころよく歓迎してくれました。島を離れたことを喜んでいるみたいでしたね。


 津奈島のこと、ツナラ信仰のことを祖父はあまりよく知らないようでしたけど、父があんな亡くなり方をしたせいでしょうね。島のことはあまり快く思っていないようでした。


 苗字は水城に変わり、私は「水城珠代」になりました。名前の読みは手軽に変えられることを知ったので、読み方もタマヨからミオに変えたんです。

 タマヨのままだとどうしても、姉のことを思い出してしまいますから。


 東京での生活は意外とすぐに馴染みました。

 高校に進学して、友達もできて、放課後はいろんなところへ行って遊んで。

 すっかり都会人気取りしてましたよ。

 ツナラの影に怯えることがなく、過ごすことができましたから。


 もちろん津奈島を忘れたことは片時もなかったです。

 たまに津奈島がどうなっているかを調べたりしましたけど。検索しても島がいまどうなっているのかは全然わからなかった。

 もちろん姉とも連絡は取っていません。


 このまま津奈島のことは遠い思い出になっていくんだと思いました。


 ……そして『あの日』を迎えたんです。


 2018年7月21日。


 津奈島災害が起こった日です。

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