33. 豊田珠代の回想_2

 私は姉のことをずっと「チーちゃん」と呼んでいました。

 歳が離れた姉妹だったけど、同年代の子供がほとんどいない島だったからかな。

 姉はいつも私のことを、とても可愛がってくれました。


 だから私の中での豊田千尋は、どこにでもいる優しい姉だったんです。

 ……いや、どこにでもいる、は違うか。

 あんなにいつもいたのに、私は姉の抱えてるモノの大きさを全然わかってあげられなかったから。


 私にとっては優しい姉でしたけど、周りの人はずっと姉を「ヒメコ様」と呼んで、丁重に扱っていました。

 おとぎ話のお姫様が現実にいたら、たぶんあんなふうに扱われたんじゃないですかね。「ヒメコ」の務めをどこまできちんと全うできるか。

 それが姉に求められた役割だったんです。


 私が知る限り、姉は一度たりともヒメコの役割を降りたいと思ったことはなかったと思います。ヒメコとして生きることになんの疑いも持っていませんでした。

 そんな姉の姿が時々、母の面影と重なって、怖くなったのはよく覚えています。

 姉をひとりにしちゃいけない。頑張ってる姉のお手伝いを、私もできるようにならないといけない。

 いつからか私は「チーちゃんと一緒にヒメコになる」と云うようになりました。

 二人でヒメコとして島を支えられれば、とても素敵な未来がやってくるんじゃないかと、あの頃の私は結構本気で信じてたんです。


 能天気な私の言葉を、姉はいつも嬉しそうな顔で聞いてくれてました。


 ただ、東京への憧れは持っていたみたいです。

 たぶん昔、結城先生が島に来たことが影響してたんじゃないかな。

 島以外の土地での暮らし、という選択肢が姉の中にも入りこんだみたいです。


 父はそんな姉の気持ちを歓迎していました。

 もともと父は東京出身の人間で、父方の祖父母も東京に健在でしたしね。

 大学だけでも東京に進学すればいいんじゃないかと、姉に勧めていたみたいです。

 

 ただ私が11歳の頃、姉が高校を卒業する年に差し掛かったとき、これがちょっとした問題になりましてね。

 

 というのも、豊田家の長女は18歳になると、ヒメコの継承の儀を受けなければならないことになっていたんです。

 ヒメコの継承の儀、つまり池のウナギを食べる儀式です。

 

 島の人たちは、特に偉い人たちは早く姉にヒメコを継承してもらいたがっていました。ヒメコがいないと、ツナラがいつ暴れるかわからないという危機感を持っていたんです。


 だけど父は島の人たちをなんとか説得して、姉が東京へ大学進学できるように取り計らいました。


「新しい世代のヒメコがこれからの津奈島を支えていくためには、広い世界を今のうちに見せたほうがいい。それは島の未来のために繋がる」


 父は姉にも、周りの人にもそう云っていました。

 ただ、今にして思うと本心は別のところにあったんじゃないかな。


 とにかく父は、姉や私をツナラから遠ざけたかったんだと思います。

 父がどこまでツナラの存在を確信していたのかはわかりません。ただ人智を超えた存在が島に巣食い、島や豊田家を連綿と縛りつけていることに、強い危機感を抱いていたのは間違いないです。


 姉は東京の大学に合格が決まったあとも、島を離れるのを最後まで迷っているようでした。島以外での生活を始めることへの不安もそうですし、それ以上に自分のワガママで一時的にとはいえ、ヒメコの役割から離れてしまうことへの罪悪感が会ったんだと思います。


 だから、私は姉にお願いしたんです。

 私もそのうち、東京に進学するから、私の将来のために下見をしてほしい。東京の写真もたくさん撮ってほしい、って。


 姉は自分のためより、他人のために動くことを優先する人でした。迷いを振り切るには、どんなにちっぽけなことでも「誰かのため」という理由が必要だったんです。

 私の言葉で、姉はだいぶ罪悪感が薄れたようでした。

 タマちゃんのために東京生活を楽しむ、って約束してくれたんです。


 フェリーに乗り込んで、島を出ていく姉の姿を、いまでも思い出せます。

 私はずっと島を出ていく姉に手を振り続けました。

 いまにして思うと、あの頃が最後の時期だったのかもしれません。

 私と姉が、島での幸せな未来を願っていられたのは。


 …………。ごめんなさい。

 話してたら、どんどん昔のことを思い出してきて。

 大丈夫です。続けられます。


 姉が東京へ行ってからも、しばらくは何事もなかったです。

 以前のように赤ん坊の泣き声が聞こえることもなかったし、龍鎮祭のときには姉も帰省して、祭事に参加していましたしね。


 ただ、私が中1の時だったかな。津奈島に大型の台風が直撃したんです。

 結構な被害が出ちゃいましてね。

 幸い亡くなった人はいなかったんですけど、港の漁船が何隻かダメになったり、一部の土砂が崩れて、道路が埋まったりして、大変だったんですよ。


 こんな話、久住さんたちは知らないでしょ?

 当然ですよ。ネットにも、新聞にもほとんど取り上げられてないですから。

 小さな島の出来事なんて、誰も関心を持たない。そんなもんです。 


 災害復興のために、父も本土の人に掛け合ったりして、支援を取り付けたりしてたんですけど、交渉がなかなかうまくいかなくて。


 その頃からですね。津奈島のあいだで妙な噂が流れるようになったんです。

 

 ヒメコがいなくなったから、津奈島には災いが降りかかるようになった。

 当代のヒコは、ヒメコを島から追い出し、災いを呼び込もうとしている。


 もちろん、そんな話を島の人たちが全員信じていたわけではありません。

 宮川さんとかは父の話し相手にもなってくれているようでした。

 趣味の釣りで釣ってきた魚を、わざわざ神社まで届けてくれてましたし。たまに魚をさばいて、調理してくれたりしてたんです。

 

 ただ、島には漠然とした不安が広がっていて、ちょっとしたが生じてしまっていたんです。


 過疎化が進み、若い人がいなくなる。

 ヒメコが長い間、就くことがない。

 島の祭事を取り仕切るヒコは余所者で信用できない。

 

 いつもの日々を送っていたはずのに、それらのほつれはいつしか断絶へ変わっていたのです。

 そのことに私が気がついたときには、もうなにもかも手遅れになっていました。


******


 私が中学2年生の頃、島にはインフルエンザが流行りました。

 それまで島では感染症が流行ったことなんて一度もなかったのに、島民の半数以上が熱に倒れ、私が知ってる人たちもずいぶん亡くなりました。

 まだコロナ禍なんて影も形もなかった時代です。

 

 津奈島には病院がなく、離島の感染症に対する療法も確立していなかった。

 こんな話も、久住さんたちは知らないですよね。

 久住さんたちを責めてるわけじゃないんです。知らなくて当然ですよ。全然記事にもなっていないんだから。


 津奈島は忘れられた島で、見捨てられた島だったんです。


 島で流行ったインフルエンザに、父も感染しました。

 幸い、父は軽症で済んだので、すぐに回復したんですけど。


 そのあとからです。父の様子がおかしくなったのは。

 

 あの頃、私はスマートフォンを買ってもらったばかりで、よく島の画像を撮影して、姉に送っていたんです。

 姉は、朝焼けに包まれる海を眺めるのが好きでした。

 だから、早く起きて鳥居から海の様子を撮影しようと思ったんです。

 

 外に出ようとしたとき、離れのほうから物音が聞こえたんです。

 なにかなと思い、渡り廊下へと歩いていきました。

 

 そしたら、古井戸のそばに父が立ってたんです。


 父は虚ろな顔で、じっと古井戸の中を覗き込んでいました。

 その姿に猛烈に嫌な予感がして、声をかけたんです。


 父は我に返ったように私を見て、狼狽えていました。

 なぜ自分が古井戸のそばに立っていたのか、全然覚えていなかったんです。


「誰かに、呼ばれた気がした」


 真っ青な顔で、父はそう呟いてました。

 

 その日を境に、父は屋敷に引きこもるようになりました。

 父と顔を合わせられたのは、私か、有賀さんたち。家の人間だけ。村の人たちともほとんど顔を合わせなくなったんです。

 

 私は姉に知らせようとしましたが、父は絶対に連絡するなと繰り返し云いました。

 いまの島に姉を呼び戻すことを恐れているように思えました。

 

 父がなにを恐れていたのか、はっきりとはわかりません。ただ、いまの津奈島に姉を呼び戻してはならないことだけは私にも理解できました。


 当時の姉は東京生活を楽しんでいた。あと1年で卒業したら、津奈島に戻ってくる。それまで待てばいい。当時はそう考えていました。


 でも、それは間違いだったんです。


 父がおかしくなった年の冬。

 あの年は、津奈島には珍しく大雪が降っていた。いつもは雪が積もることなんてほとんどないんですけど、あの年は島一面が真っ白い雪に覆われていました。


 私は一人で部屋に眠っていました。

 日付も変わった夜更けに、突然私のスマートフォンに電話がかかってきたんです。

 姉からの着信でした。こんな時間にどうしたんだろうと思い、着信に出ると、姉は緊迫した声で云いました。


「早く、つなら池に行って。お父さんを止めて!」


 すぐにつなら池のもとへ向かいました。

 もう深夜なのに、いつもは閉じているはずの門が開いていました。

 門の奥からは、パチパチとなにかが爆ぜる音が聞こえ、池のほうからは黒煙があがっていました。

 

 私はつなら池に入りました。

 そこで見たのは、松明を持って浮島に立っている父と、藁つなが巻かれた大木が燃え上がっている姿でした。


「お父さん!」

 

 私が呼びかけると、父はひどく嬉しそうに笑い掛けました。燃え上がる炎に照らされて、父の姿が暗闇から浮かび上がっているように見えました。


「もっと早く、こうすればよかったんだ」


 父は嗤っていました。

 嗤いながら、泣いていました。


「早苗を奪った、ツナラに天誅を! 娘を奪う、化け物に破滅を!」


 ツーナーラーノーミーコートー!

 ツーナーラーノーミーコートー!


 父の声が、池中に響いていました。

 

 父が叫ぶたびに、父の体が崩れていきました。

 ぼとぼとと、黒いなにかが池に落ちていったんです。


 私の目には、なにが落ちたのかははっきりとわかりませんでした。

 

 でも、たぶんあれは、ウナギだったんだと思います。


 こうして父は亡くなりました。

 亡くなった、としか言いようがありませんでした。


 そして姉は卒業を待たず、津奈島に戻り、ヒメコとなったんです。

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