32. 豊田珠代の回想_1

 私はかつて豊田珠代という名前でした。

 父は豊田行雄、母は豊田早苗さなえ、姉は豊田千尋。

 久住さんたちもご存じのとおり、代々津奈比売神社の神主を務めてきた家系の人間です。

 

 東京出身の父はもともと知人の伝手で、神社の事務の補佐のためにこの島へ来たそうです。離島というか、地域社会の信仰にも関心があったみたいで。そのときに母である早苗と出会い、互いに惹かれて、結婚を決めたそうです。


 とは云っても、周囲からはかなり反対されたそうなんですけどね。

 津奈比売神社を守る豊田の一族は代々女系家族でした。

 ヒメコを中心とし、島の人間を婿でるヒコとして迎え、神社を守ってきたんです。だから島の外の人間である父との結婚は極めて異例なことだったそうです。

 父は相当頑張った、と云ってましたけど、詳しいことは最後まで教えてくれませんでした。


 いきなり家族の話から初めてとなってごめんなさい。

 ただ、津奈島で起きたことを理解してもらうためには、まず父と母の話から知って欲しかったんです。

 私たち家族は、津奈島の文化や歴史とそれだけ深く結びついていましたから。

 

 話を戻しますね。


 ご存じのとおり、先代のヒメコである豊田早苗、つまり私の母は、私が5歳の頃に亡くなっています。2005年の頃ですね。


 母についての記憶はかすかにしかありません。姉に似て、凛とした人だったのは覚えていますが、笑った顔は見たことがなかったです。

 私の記憶の中の母は、いつもつなら池とセットになってました。


 ええ、そうです。津奈比売神社の境内にあったご神体の池。

 母はいつも、あのつなら池のほとりに立っていました。

 

 時折、誰かと話しているようでしたが、誰なのかはわかりません。

 私が尋ねたとき、母はこんなふうに云ってました。


 神様と相談ごとをしていたの、って。


 母が誰と話していたのかは、姉のほうがよくわかっていたと思います。

 長女である姉は、幼いころからヒメコとしての生き方をよく教え込まれていましたから。


 でも、いつも池のほうへは行くのに、全然海のほうへは近寄ろうとしなかった。

 海のほうへ行くのはそれこそ、龍鎮祭のときくらいだったんじゃないかな。

 

 母が亡くなったのは病気です。もともと母は体が弱く、神社の敷地からもほとんど出ることはありませんでした。

 ただ、母は自分の死を承知しているようでしたね。先々代のヒメコ、つまり私の母方の祖母もやはり母が幼い頃に亡くなったようでしたし。


 実はですね。ヒメコには、結城教授も知らない儀式があるんですよ。

 これは津奈比売神社の中でも、一族に関わる者しか立ち会えない儀式なんです。

 なんだかわかります?


 津奈島のウナギを食べるんです。

 それでも海ではなく、つなら池で獲れたウナギを。


 ええ、そうです。つなら池にもウナギが住んでいたんですよ。

 ヒメコは代々、この池のウナギを食べることが習わしとされていました。


 それもきっちり2回。

 ヒメコを継承するときと、死期を悟ったとき。


 私が5歳の頃。住んでいたお屋敷の大広間に一族が集められて、この儀式が執り行われることになりました。


 母は白衣に白無地の千早を羽織り、頭には白い綿帽子を被っていました。

 変な言い方なんですけど、あのときの母の姿は、私には花嫁さんに見えたんです。

 意味合いで考えるなら、死に装束が近いはずなんですけどね。


 もうあの頃の母は体が弱り切っていて、ほとんどモノを食べられない状態でした。

 そんな母の前に黒い御膳が運ばれてきたんです。


 御膳に乗っていたのは、一切れの素焼きでした。ウナギの切り身を焼いたモノです。母は細い指で懸命に長箸を持ちながら、ウナギの切り身を口に運んでいました。


 私はそんな母の姿を見て、泣いちゃったんです。

 あ、母を心配したとかじゃないですよ。

 

 恥ずかしい話なんですけど……。母が食べているウナギが羨ましくて、私も食べたいって駄々をこねたみたいなんです。

 

 そしたら、姉が怖い顔をして云ったんです。


 あれはタマちゃんが食べていいモノじゃない。絶対にダメだよって。

 あんなに怖い顔をして怒る姉を見たのは後にも先にも、あの一度きりでした。

 

 母は無表情でしたが、父はとても哀しい顔をしていたのをよく覚えています。


 儀式から数日経って、私は母の姿を見かけました。母はつなら池の方に向かい、そのまま1人で池の中へと入ってしまいました。

 私は怖くなって、父を呼びました。父と有賀さんたちで池を捜索しましたが、母が着ていた服だけが浮かび、母の亡骸は見つからなかったそうです。


 だけど父以外の人たちはあまり取り乱していませんでした。

 ヒメコとはそういうものだと、みんな云ってたんです。


 私は姉に尋ねました。母はどこに消えたのって。

 

 姉はこう答えました。

 ツナラ様のもとへ還った、と。


 それ以来ですね。魚を食べるのが怖くなったのは。

 魚を食べると、どこかへ連れていかれる。


 そんな想像が頭から離れなくなったんです。


******


 母が亡くなってから、父はヒコとして懸命に島のために働いてました。

 もともと働き者で頭も良かったので、父を信頼してくれている人も多かったんです。それこそ、宮川さんは私たちのことも可愛がってくれてましたし。


 ただ、父を認めない人もやっぱりいました。狭い島ですからね。

 余所者だって思われてたのかな。

 あとから知ったんですけど、村長さんとかは父の陰口をよく叩いてたそうです。


 父を認めなかったのは、偉い人たちばかりじゃない。

 ツナラも、父を認めなかったんです。


 結城先生の日誌にも出てきましたよね。赤ん坊の泣き声だけが聞こえるって話。

 母が亡くなった頃から、ときどき聞こえるようになったんです。

 

 父は戸惑っていたようでしたけど、神社のことをよく知る有賀の家の祥子さんは、ヒメコがいなくなったから、ツナラが悪さをしていると云ってました。

 

 ツナラは島に豊穣をもたらす神であり、災いを運ぶ神でもある。

 

 このツナラを鎮めるのがヒメコの役割なんですけど、当時は母も亡くなったばかりで、姉もヒメコを継承するには若すぎたみたいで。

 

 だからヒメコのいない神社で、ツナラが悪さをしているんだと。そう聞かされてました。古井戸の話が出てきたの覚えてます?

 家の敷地にある古井戸。あれ、島の地下水脈に繋がってるそうなんです。

 ツナラが悪さをするときは、決まって古井戸から現れる。

 だから古井戸には近づかないようにしていました。


 父はそんなツナラを憎んでたんだと思います。

 姉や私まで、母のように消えてしまうのではないかと恐れているようでした。


 多分、その頃に結城先生とも連絡を取ってたんじゃないですかね。

 結城先生を呼んで、ツナラのことを知ってほしかったんだと思います。味方になってくれる人を増やしたかったんじゃないかな。


 あとの経緯はだいたい、先生の日誌にある通りです。


 日誌を読んだ感想ですか?

 そうですね。昔の私が書かれてて、ちょっと恥ずかしかったけど。

 でも、それ以上に懐かしかったです。

 それにあの頃の父の気持ちも理解ができました。


 はい。結城先生のことは少しだけ覚えてます。

 外から来た人は珍しかったので。

 姉も時々、結城先生のことを懐かしそうに話してましたから。


 でも結局、結城先生はあれ以来、島には来なかったですね。

 

 ……結城先生の日誌。途中で途切れていた場面。

 じつは私も、あの場にいたんです。 

 私だけじゃなくて、姉も一緒に。


 あの赤ん坊の泣き声、先生が来た時から突然激しくなりましたね。

 外から来た先生のことを警戒してたのかもしれません。


 私も、怖かったです。

 いまにも襲ってくるんじゃないかって、思ってたので。

 そんなとき、おなじ部屋で寝てた姉がいつも慰めてくれました。


「ツナラ様は本当はとても優しい神様だから大丈夫。

 なーんにも怖いことはないよ」

 

 姉はツナラのことを信じているみたいでした。

 

 いつもそばに姉がいてくれたから。


 あの夜。布団に入っていると、いつものように赤ん坊の泣き声が聞こえてきたんです。私は気にせず、寝てたんですけど。


 気がついたら、姉がいなくなってたんです。

 私は、それがなにより怖かった。

 

 母とおなじように、姉も消えてしまったと思ったんです。


 すぐ探さないと。

 そう思って、私は泣きそうになるのをこらえながら、姉を探しに部屋を出ました。


 障子を開けて、長い廊下を歩きながら、姉を呼び続けました。

 赤ん坊の泣き声は相変わらず聞こえ続けました。

 でも、ちょっとおかしいことに気づいたんです。

 

 泣き声が古井戸のほうではなく、離れのほうから聴こえていたんです。

 

 私は渡り廊下のほうへ向かいました。

 すると、離れへ歩いていく姉の姿が見えました。

 

 私は姉に声を掛けようとしました。

 そのとき、離れから悲鳴が聞こえたんです。

 

 障子を開けて転がり出てきたのは結城先生でした。

 結城先生はひどく慌てた様子で廊下を這いつくばっていました。


 その背中には、赤ん坊のようなものが乗っていました。

 だけど、それが赤ん坊でないのは、子供の私でもわかりました。

 

 その赤ん坊の全身はぬるぬる光っていて、顔がなかったんです。

 しかも腕の部分が蛇のように伸びて、先生のクビに巻き付いていました。

 

 そんな赤ん坊に似たなにかが、赤ん坊の泣き声を出してるんです。

 あまりに恐ろしくて、私は柱の陰に隠れて、様子を見ていました。

 

 姉は、先生を黙って見下ろしていました。

 後ろ姿だったので顔は見えなかったです。

 ただ驚きも怖がりも、してなかったと思います。

 

 まるで動じることなく、そこに立ち尽くしていたんです。 

 

 すると姉はなにかを諳んじていました。

 

 津奈来命、津奈来命、守り給え、幸え給え


 姉の祝詞を聞くうちに、だんだん赤ん坊に変化が現れました。

 ぶるぶると振動するように震えたかと思うと、風船がはじけ飛ぶようにパァンって破裂したんです。


 破裂した破片は廊下に散らばって、ミミズみたいにのたうち回ってました。

 あれは、ウナギだったと思います。

 

 幾つものウナギが渡り廊下から逃げるように這い、どこかへ消えていきました。


 結城先生は狼狽した顔で、なにがなんだかわからずにいるようでした。

 すると姉はしゃがみこんで、先生にこう云ったんです。


「今日見たことは、お忘れなさい。あなたはもう、この島へ来ない方がいい」


 あのときの姉。いつもの姉とは全然声音が違っていました。

 結城先生よりもずっと年上の人が喋っているように聞こえました。


 結城先生もおなじことを感じてたんだと思います

 なにも云わず、ぶるぶると震えていました。


 私はなにも云わず、その場を離れて、すぐに部屋に戻りました。

 布団にもぐり、懸命に目をつぶって、いま見たことを忘れようとしました。


 眠ることはできませんでした。

 しばらくして障子が開き、姉が部屋に戻ってきました。

 そのまま姉も何も云わず、布団に入ったと思います。

 

 私が見ていたことに気づいたのは、わからなかったです。


 その晩はもう、赤ん坊の声は聞こえませんでした。

 

 翌日には、先生は逃げるように島を離れていきました。

 

 姉はいつもとなにも変わらなかったです。

 あの日見た姉がなんだったのか。私が知るのはもう少し後になってからでした。

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