30. つならの島

 佐原と連絡が取れなくなったのち、私は豊洲の市場に赴き、佐原が働いていた店を訪れた。そして佐原がここ数日、無断欠勤を続けていることを知った。


「わけわかんないよ。全然連絡もつかなくてさ。真面目な人だと思ったんだけどな」


 店員によれば、佐原は月島の賃貸マンションに住んでいるという。

 私は直接、佐原の住所を訪ねることにした。

 

 月島駅から徒歩で10分。すぐそばを隅田川が流れる区画を歩きながら、私は佐原の住んでいるマンションを見つけた


 築50年以上は経過しているであろう、古い3階建てのマンションである。佐原の部屋は2階にあった。

 マンションに入る前に、私は外から佐原の住居に該当する部屋の窓を見た。窓の電気は消えており、カーテンも閉ざされている。

 私は階段を上り、部屋の前に立つと、チャイムを鳴らした。

 応答はない。

 ノックをしたが、おなじく反応はなかった。


 ダメもとでドアのノックに手をかけると、軋み音をたてながら玄関のドアが開いた。部屋のこもった空気が内側から流れ込んでくる。


 このとき、最悪の想像が私の脳裏をよぎった。

 ドアを開けることを躊躇してしまうが、もしも想像が当たっているとしたら、すぐに状況を確認し、警察に通報しなければならない。

 死体の第一発見者にならないことを祈りながら、「佐原さん、開けますよ」と声を掛けながら、私はドアを開けた。


 玄関からは、キッチンを備えた狭い廊下が続いている。部屋の間取りは1Kといったところだろう。キッチンには使い古したガスコンロが設置されている。


 私は恐る恐る廊下を進んだ。幸い腐乱臭はなかったものの、独特の匂いが漂っていた。墨汁の匂いのようだ。廊下の先、洋室に続くドアはぴたりと閉ざされている。

 覚悟を決め、私は一気にこちらのドアを開けた。

 

 目の前の光景に、言葉を失う。


 八畳ほどの広さの洋室。小さなテレビとベッド、ローテーブルが置かれているだけの質素な部屋。

 白いクロスが貼られた壁じゅうに、墨汁で文様が描かれていた。

 

 蚯蚓がのたうち回ったような筆致で描かれた文様。ひとつひとつの線は複雑に絡み合い、龍の姿をなしている。

 さらに壁の前にはわざわざ移動されたローテーブルが置かれ、達磨のようなモノが複数置かれている。

 数は7個。達磨はよく見ると藁でできていた。


 私は知っている。壁に描かれた文様も、藁でできた達磨も、初めて見るはずなのにそれがなにかよく知っていた。


 椛島裕子の証言を思い出す。

 ツナラを食べた椛島健太郎は奇妙な儀式を執り行った。ぬいぐるみの中に生肉を詰め込み、壁一面に謎の文様を描いたという。

 

 それはちょうど、いま目の前にある文様とおなじモノではないだろうか。生肉を詰め込んだぬいぐるみはおそらく龍鎮祭で用いられたヒルコの代用だろう。


 私は目の前にある藁でできた達磨のひとつを手に取り、藁の網目を指でこじ開けた。指先にどろりとした感触が当たる。

 中からは酸っぱい匂いを発する生肉が出てきた。


 荒くなる息を抑え、私は手に取った達磨を再びローテーブルに置き直す。

 そしてスマートフォンを取り出し、部屋の写真を撮影した。


 このとき自分が感じていた感情が恐怖だったのか、興奮だったのかは、いまでもわからない。あるいはその両方だったかもしれない。

 

 これまでずっと、私は誰かの体験談を介してのみ、ツナラを巡る怪異に接していた。だが、このとき初めて私は自分の目で怪異の現場を目撃した。


 ツナラという怪異の一端に初めて手が触れたのだ。

 

 しかし、佐原はどこへ消えたのだろうか。


 そのときである。カーテンを閉ざした向こう側の窓からコツンという音が響いた。

 小石のつぶてが当たったような音だ。

 私はカーテンを開け、窓の外に目を向けた。

 

 マンションに面した通りが目に入る。

 そこに佐原が立っていた。

 

 佐原はなんの表情も浮かべず、真っ黒な目で部屋にいる私を見上げていた。

 底の無い穴のような目。


「佐原さん!」


 私は窓を開け、声をかけた。

 佐原は私の言葉に応えず、くるりと背を向け、歩き出す。


 私は慌てて部屋を出ると、マンションの外へ飛び出した。

 

 佐原がいた通りに出る。佐原は背中を向けたまま歩き、交差点を西仲橋に向かって曲がろうとしている。

 私は通りを走り、佐原を追いかけた。


 煌々と輝くタワーマンションの明かりに照らしだされる西仲橋。

 隅田川をまたぐ橋の中心に、佐原が立っていた。


 まだ人通りが絶える時間ではないはずなのに、なぜか橋の周囲には私と佐原しかいない。佐原はまだ私に背中を向けたままだ。


 私は声をかけるべきか迷った。

 あの橋に立っているのは、本当に佐原なのか。


 佐原の姿をした、ツナラではないのか。


 だが、そんなはずはない。

 佐原はツナラを食べていないはずだ。ツナラのはずがない。


「久住さんはぁー、好きですかぁー」


 いきなり佐原が間延びした声で私に問いかけた。

 抑揚がなく、平坦な声である。まるで音声合成で無理やり佐原の声を模倣しているように感じた。


 私は答えられなかった。頭の奥がしびれて、なにを問いかけられているのかもわからない。

 

「久住はぁー、好きですかぁー」


 つならぁー。


 佐原はもう一度問いかけながら、私のほうを振り向いた。

 あの底のない穴のような目でこちらを凝視する。


 私はその場から動けなくなる。足が地面に縫い付けられたかのようだ。

 人生で初めて、私は金縛りを経験していた。


「ツナラは食べていない。津奈島には行っていない。佐原さんだって、ツナラは食べていないはずだっ」


 沸き上がる恐怖心を抑えるため、私は必死に叫んだ。

 このときの私は理性を保つのに必死だったのだ。


「まだぁー、気づいてないんですかぁー」


 嘲るような調子で、佐原は云った。


 気づいていない? なにを?

 

 私は必死に考える。

 佐原は、いや、佐原の姿をしたコレはなにを示唆しようとしているのだろう。

 

 すると佐原は急に私を指さした。

 それから、私に向けた指先を今度は佐原自身に向ける。


 おなじ動きを、佐原は何度も繰り返す。

 まるで、私と佐原はおなじだと主張するかのように。


 そのとき、私はある可能性に気づいた。

 

 ツナラは好きか、という問いかけ。

 佐原たち、津奈シップスが行っていた事業。

 

 津奈島の内湾で獲られたシラスは佐原たちの手によって全国に輸送されている。津奈島のシラスはそうと知らされないまま、養鰻業者たちによって生育され、養殖ウナギとして出荷される。

 ウナギの生産地がどこかなど、気にする消費者はいない。自分たちが食べているモノの正体を知らないまま、どれだけの日本人がそれを口にしたのだろう。


 津奈島の夢を見る者たち。

 ツナラを食べた者は、ツナラになる。


「もう私は、ツナラを食べている……?」


「せぇーかぁーいっ」


 佐原はそう云うと、大きな声でゲラゲラと嗤った。

 隅田川に響き渡る嗤い声。


 私は叫びそうになった。自分が見ていた世界が足元から崩れ落ちるような感覚があった。私は、最初から傍観者ではなかった。

 もうとっくにツナラの当事者となっていたのだ。

 私だけではない。

 安達氏も、もしかしたらミオも。『トリハダQ』の動画を見た視聴者も、津奈島やツナラのことなどなにも知らずに生きる者たちも、ツナラの一部となっている。

 

「久住もー、つならぁー、佐原もー、つならぁー。みーんな、つならぁー。だからここはぁー、」


 ――つならの島。


 そう口にした途端、佐原の体が急に崩れあt。

 

 顔が、腕が、足が、泥人形のように崩れる。

 そして黒々としたウナギの大群に変わる。


 ウナギたちはそのまま隅田川にぼとぼとと音を立てて、落ちていった。

 橋には佐原の服だけが残される。


 私はその場で崩れ落ち、震えた。

 佐原の姿をしたツナラの言葉が、ずっと私の頭に反響し続けていた。

 

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