9. ある老釣り師の話_2


 宮川と知り合って2年ほど経った頃。

 急に宮川は本土にあまり来なくなっていた。


「ちょっとね。島で新しい事業が始めって忙しくなってさ」


 なんとか顔を合わせられたとき、宮川はそう云って笑った。

 新しい事業がなにかはわからなかったが、忙しくしているのなら悪いことではないだろうと最初は考えた。「あまり無理をするなよ」と声をかけるだけだった。

 

 そんな折、本土の知り合いからある噂が流れたようになった。

 県外から津奈島への移住者が急に増え始めたというのだ。


「東京やら大阪やら、都会の若い人たちがやたらとフェリーに乗ってきてるらしいんだよ。みんなこぞって住民票を移してるみたいでさ」


 プライバシーなどお構いなしに、こういう情報が広まるのは田舎の悪いところだ、と恵三は思いながらも、移住者の話は気にかかった。


 それだけでなく、津奈島で大規模な開発が行われたという噂も流れるようになった。県内でも見かけないような豪邸が建ったという者もいた。

 その件についても宮川に尋ねたが、こともなげにこう答えた。


「いま島で新しい事業を始めてて、若い人たちが集まってきてくれてさ。若い人が多くなると活気づいていいね」

「そっちの島のしきたり的にはありなのか? ヒコさんやらヒメコさんやらは何も言ってないのか?」

「そもそもお決めになったのはヒメコ様だよ。私らはそれに従うだけさ」


 島で何が起きているのか、本土の人間である恵三にはわからない。

 しかし、それまで閉鎖的な暮らしをしていた島の人間たちが、県外から来る都会育ちの人間たちを受け入れられるものだろうか。

 本当に大丈夫なのか、と訊ねると、宮川はいつものエビス様のような笑顔になった。


「大丈夫さ。私らの島には神様がいるんだもの」


 それからさらにしばらくして、宮川は全く本土に訪れなくなった。

 連絡も途絶えてしまい、まったく音沙汰がわからなくなった。

 宮川の様子を訊ねるために、長女夫妻の家を訪ねたが、空き家になっていた。

 近所の人に聞いたところ、長女夫妻は島に移り住んだというのだ。


 一度、島の様子を確認するべきか。

 そう考えた矢先、恵三は体調を崩すようになった。心電図に異常がみられ、心臓に負担がかかる行為は控えるよう医師からも指導を受けた。

 息子夫婦も、恵三が1人で津奈島へ行くことは反対した。


 結局、島への渡航は諦めるしかなく、自然と宮川との交流も途絶えてしまった。

 また恵三は虚しさを抱えるようになった。1人で港に通い、釣り糸を垂らす日々を送り続けた。

 宮川と連絡が取れなくなって、半年が過ぎた頃である。その日も恵三はいつものように港へ向かい、まだ日が昇らない海で釣りをしていた。


 いつものように穏やかな海だった。

 持参した折り畳みの椅子に腰かけ、恵三は釣り竿を握りながら海を眺める。タバコでも吸おうとした、そのときだ。


 ふふふっ


 すぐに後ろを振り勝った。港には恵三以外、誰の誰もいない。

 波音でも風音でもなかった。

 笑い声。確かに人間の笑い声が聞こえた。

 恵三はタバコを捨てて、尋ねる。


「誰かいるのか?」


 返事はなかった。空耳だろうか。それにしては妙な生々しさがあった。

 と、そこでいきなり浮きが海中に沈んだ。手ごたえがある。

 恵三はリールを巻き、かかった魚を釣り上げた。海中から出てきたのは、細長いシルエットの魚影だった。

 蛇のようにくねくねとうねりながら、白い腹をみせている。


 ウナギだった。

 なぜ、こんな港でウナギが?

 いぶかしく思いながらも、津奈島で見たウナギを思い出した。

 あの島ではツナラと呼ぶのだったか。


 ――ツナラは釣っちゃならない。食べてもならない。そういうルールなんだ。


 宮川の言葉が脳裏をよぎる。

 バカバカしい。ここは本土だ。津奈島じゃない。向こうのルールに従う必要がどこにあるというのだ。

 内心ではそう思いながらも、目の前にいるウナギに対して抱いた不気味さをぬぐうことはできなかった。恵三はウナギを釣り針から外そうと手を伸ばした。

 いきなりウナギの尾が動き、恵三の左手首に巻き付いた。


「うわっ!」


 慌てて恵三はウナギを外そうとするが、まるで蛇のように手首を締め付けてくる。

 釣り針にかかったウナギが黒い目でこちらを見返す。


 ふふっ

 ふふふっ、ふふふっ

 ふふふっ、ふふふっ、ふふふっ


 全身の鳥肌が立った。

 ウナギが、嗤っている。

 こちらを嘲笑するような笑い声を、ウナギが発しているのだ。


「なんだ、お前……なんなんだ!」


 ばちゃばちゃと海面で跳ねる音が聞こえた。

 恵三はライトで海面を照らす。照らしだされた光景を見て絶句した。

 ウナギたちがひしめき合うように集まり、一斉に海面から頭を突き出していた。

 顎を動かしながら、一斉に合唱する。


 ツナラ

 ツナラ、ツナラ、ツナラ

 ツナラ、ツナラ、ツナラ、ツナラ


 合唱しながら、ウナギたちは互いに絡み合い、ひとつの塊を形成していく。

 塊は人間の姿をしていた。

 絡み合ったウナギたちの白い腹が血の気を失った肌のように見える。全体的に白く、輪郭もぶよぶよしている。


 まるで溺死体だ。

 ウナギの群れが作った溺死体もどきがゆらゆらと海面を漂っていた。


 けぇーぞぉーさぁーん


 溺死体もどきがしゃべる。

 妙に間延びした、くぐもった声だ。

 溺死体もどきはさらに繰り返す。


 けーぞーさーん


 ピントを合わせるようにだんだん声の輪郭がはっきりしてくる。

 

 けいぞうさーん

 

 男性の声だ。人懐っこい響きを宿した耳なじみのある声

 

 恵三さーん 恵三さーん 恵三さーん 恵三さーん

 恵三さーん 恵三さーん 恵三さーん 恵三さーん 


「宮さん?」


 呆然と恵三は問い返した。手首を絞めつけていたウナギがするりと離れ、溺死体もどきの群れに合流する。

 何百というウナギの群れからなる溺死体もどきの頭に当たる部分に、奇妙な割れ目ができる。まるで目と口の代わりをなすかのように。


 両目にあたる割れ目は目じりにかけて垂れていた。

 口にあたる割れ目は三日月状に歪んでいた。出来損ないの笑顔が、恵三のよく知る人物の顔と重なる。

 

 恵三さーん、こっち来なよー

 刺身があるよー

 

 ゆらりと溺死体もどきが意志を持っているかのように動きだす。腕に似た二本の長い突起をくねらせ、堤防にはりつく。

 

 恵三は腰を抜かした。

 

 逃げなければ。

 早く、早く、早く。

 

 わかっているのに体がいうことを聞いてくれない。どうやって走ればいいのか、立ち上がればいいのかもわからなくなる。

 

 恵三さーん、こっち来なよー

 刺身があるよー


 ぬっと堤防から溺死体もどきが頭を出す。

 そのまま堤防を登りきり、ゆっくりと立ち上がった。

 絡み合ったウナギたちの目が恵三を見下ろす。

 底なしの穴にも似た、ウナギたちの瞳。まるで彼岸に通じる穴のように見えた。

 

 恵三は思った。

 

 ツナラだ。宮さんはツナラになっちまった。

 あの世に連れていかれちまったんだ。

 

 恵三さーん、こっち来なよー

 刺身があるよー

 

 溺死体もどきが、恵三に向かって腕を伸ばした。

 

 胸が痛くなる。

 息が苦しい。

 視界が薄れていく。

 溺れそうだ。

 俺も連れていかれる。

 ツナラに、なっちまう。

 誰か、助けてくれ。

 

 恵三の耳に溺死体もどきの哄笑が響く。

 冷たい感触が頬に触れた。

 

 そこで恵三の意識は途切れた。

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