8. ある老釣り師の話_1

 田所恵三はその日も1人で釣りをしていた。

 本命はヤリイカだったが、今日は運が悪いのか、外道のボラばかりがかかる。

 しかし恵三は気にせず、釣り糸を垂れ続ける。何が釣れようと、釣れまいと、どうでもよかった。


 この頃の恵三が何を考えていたのか、本人もうまく言葉にはできなかったそうだが、いつも虚しさを感じていたらしい。


 妻が亡くなってから、まるで体の一部をごっそりどこかに落としたかのような感覚にとらわれている、とよく周囲に漏らしていたという。


 恵三の人生は傍から見れば、なんの不足もなく見える。恵三の父が始めた服飾店を受け継ぎ、繁盛させた。連れ合いにも恵まれ、子供も孫もできた。

 地に足をつけた幸せな生き方を歩んだように見える。


 だからこそ妻を亡くしたことにより本人が抱えた喪失感は周囲の想像以上に深刻だったのかもしれない。

 趣味だった釣りはいつしか己の喪失感と向き合う時間に変わっていた。

 この虚しさを埋めることはできないだろう、と恵三は半ば諦めの境地になりながら、ぼーっと海を眺めていた。


「あの、引いてますよ」


 いきなり後ろから声をかけられた。

 はっと気がつくと、浮きが沈んでいる。釣り糸がピンと張り、獲物の重みで釣り竿の先がしなった。


 恵三は立ち上がり、リールを巻いた。両手に重い感触が伝わる。海中の獲物はぐるぐると旋回し、釣り針から逃れようともがいていた。


「や、でかい! でかいですよ、これ! そうだ!」


 声をかけてきた男が慌てて立ち去る。恵三はリールを巻くが、相手の力に負けそうになる。必死に両足で踏ん張ると、ふんと釣り竿を上に持ち上げた。勢いあまり、釣り竿の先が威勢よく折れてしまった。


 あっ、と恵三は声をあげるが、すかさず隣からタモ網が突っ込まれた。タモの網が釣り針にかかった魚を拾い上げる。


「やぁ、これは立派なチヌだ! はは、めでたいですね! って、竿は折れちゃいましたけど」


 チヌとはクロダイを指す。この辺りでは大物の魚として知られていた。

 タモ網を用意してくれたのは、先ほど声をかけた男だった。顔も体も大福のように丸く、目じりが垂れた笑い顔は恵比寿様に似ていた。

 恵三は礼を言いながら、折れた竿を見つめる。

 もう釣りをするなと天が告げているのかもしれない。クロダイが釣れても、虚しさは晴れてくれない。

 そんな恵三の心境が顔に出ていたのだろう。


「よければ、余ってる釣り竿、お譲りしましょうか」


 聞くと、男は市内に住む娘夫婦の家に遊びに来ており、孫と一緒に釣りに行く予定だったという。孫のために釣り竿も用意していたのだが、孫は友達との遊びを優先してしまった。男は落ち込みながら、1人で港に来ていたらしい。


「こないだまでジイジ、ジイジって懐いてくれていたのに。子供の成長は早くてまいっちゃいますよ」


 恵三も男の言葉に深く共感した。孫の雄太郎と釣りに行かなくなって久しい。老人を置き去りにして、子供はあっという間に大きくなってしまう。

 男は宮川みやがわ貞道さだみちと名乗った。聞けば、ほぼ同年代だという。恵三は宮川から釣り竿を借り、話ながら釣りを続けた。

 宮川は釣りに慣れている様子だったが、ここのポイントに来るのは初めてだという。

 いつもはどこで釣るのか尋ねたところ、宮川ははにかみながら答えた。


「津奈島です。私、あそこに住んでるんですよ」


 恵三は驚いた。生まれてからずっと地元で育った恵三だが、津奈島の人間に知り合いはいなかった。あそこの島の人間は周囲と関わりを持とうとしない。そんな話を、恵三は子供の頃からずっと聞かされ続けていた。

 そんな恵三の心境を見透かしたのだろう。宮川は苦笑しながら云った。


「うちらの島はちょっと特殊なんですよ。まわりと関わろうとしない人間が多くて。私なんかは例外でねぇ。おしゃべりが過ぎるって、よく怒られてます」


 そのあとも、恵三は宮川と話をつづけた。

 宮川は人懐っこい性格で聞き上手だった。

 さらに恵三とおなじように数年前に、妻を亡くしていた。最初は津奈島出身の人間ということで妙に構えてしまったが、だんだん恵三は宮川に自分の身の上話を話し、 妻の逝去や、胸に抱え続けた虚しさを打ち明けていた。


 なぜ初対面の男にそこまで話したのか、恵三自身にもわからなかった。

 あるいはなんの関りもにない人間だからこそ、内に溜まった想いを素直に吐き出せたのかもしれない。

 

 宮川は釣り糸を垂らしながら、最後まで話を聞いてくれた。

 話し終えたときには、日は沈み、海面が夕焼けに染まっていた。宮川はタバコを取り出すと、「吸います?」と恵三に声をかける。

 長男が生まれて以来、禁煙を続けていた恵三は宮川からライターを借り、久しぶりにタバコを吸った。

 宮川は煙をふかしながら、夕焼けを眺める。


「人生なんて結局、自分がいかに孤独かを思い知るためにあるのかもしれませんねぇ。さよならだけが人生とはよく言ったものですよ」

「だとしたら、生きてることに意味なんてあるのかね」

「別になくてもいいんじゃないですか?」


 宮川はおかしそうに笑った。


「こうしてのんびり旨いタバコが吸える。人生の楽しみなんて、それだけで十分ですよ。結局死んじまえば、みんなおんなじところに還るんですから」


 宮川の言葉は不思議と恵三の胸にしみ込んだという。

 恵三と宮川は連絡先を交換し、また会う約束を交わした。やがて恵三は宮川をミヤさんと呼ぶようになり、二人の交流が始まった。


 普段は島に在住している宮川だったが、月に1、2度の頻度で市内に住む長女夫婦の家に遊びに来ていた。そのタイミングを見計らって、恵三は宮川と釣りに出かけ、たまに市内の飲み屋で飲んだりしていた。


 宮川は酒好きで、下戸だった。日本酒を一合飲んだだけで顔が上気し、この世の憂いを綺麗さっぱり洗い流したかのように上機嫌になる。

 酔っぱらうと、宮川は決まって島の話をしていた。


「若い人はみーんな街に行っちゃって、島に残ってるのは私らみたいな爺さんや婆さんばっかり。もうこのまま滅びるしかないのかねぇ」

「観光業とかはどうなんだい? 案外、自然に飢えた都会の連中が来てくれるかもしれんよ」

「残念ながら名所がないからねぇ。何年か前に、東京から大学の先生が来て例祭に立ち会ったりしてね。あの時は島のことも外に広まると期待したんだけどさぁ」


 宮川が話す津奈島の文化は新鮮でとても興味深かった。

 そうやって二人はお互いの家族のことや地元のこと、人生の終わりをどう迎えるかなど、他愛のないおしゃべりを続けた。


 久しぶりにできた新しい友人は、恵三が抱えていた虚しさの救いにもなった。

 家族や古くからの知人たちからは津奈島の人間とどこで知り合ったのかと訝しがられたが、恵三は特に気にしなかった。


 新しくできた友人への親近感と興味が、根拠のない偏見を上回っていた。

 恵三が島に興味を持ってることに、宮川も気づいたのだろう。一度、島に遊びに来ないかと誘ってきた。

 余所者が行って大丈夫なのかと心配したが、宮川は笑いながら云った。


「村の人たちには話を通しておくからさ。いつでも来なよー」


 今は隠居している身であり、時間は腐るほど余っている。それに噂に聞く津奈島がどんな島かも見てみたかった。

 こうして恵三は誘いに乗り、津奈島へと向かった。


 フェリーに揺られること4時間、水平線の向こうに津奈島の島影が見えてきた。

 地図で見ると、津奈島は横たわった三日月のような形をしている。

 島には中心部をかじりとったかのような巨大な入り江があり、島の村もすべて入江の沿岸にそってできていた。

 入り江の反対側、島の外周側が切り立った断崖になっており、上陸することは難しい。まるで要塞みたいだ、と恵三はこう思った。

 

 フェリーは入り江にある津奈港に到着する。港へ降りると、早速迎えに来た宮川が恵三を歓迎し、島を案内してくれた。

 

 のどかな漁村である。潮風が気持ちよかった。

 湾内に建てられた家屋はどれも古びており、郷愁を感じさせる。通りを歩く島の人たちは恵三と同年代の人間ばかりだった。

 

 港のまわりにできた素朴な集落。港から島の内側に入れば、今度は山がそびえている。津奈島では龍賀峰りゅうがみねと呼ばれているという。

 龍賀峰の中腹に石造りの鳥居が見えた。宮川に尋ねると、神妙な面持ちで答えた。


「あれは津奈比売つなひめ神社。あそこにいる神様がずっとうちらを見守ってくれてんのさ」


 なんの神様かまではわからなかったが、とてもありがたい神だという。宮川は鳥居に向かって手を合わせた。

 そして宮川の案内で絶好の釣りポイントだという入り江内の堤防へと移動する。

 自分たち以外には誰もいない堤防に立つと、湾内の様子がよく見渡せる。不審な動きをしている船があればすぐにわかるだろう、と思った。

 宮さん、と通行人が宮川に声をかける。宮川も手を振り、通行人のもとに近寄った。通行人がちらちらと恵三のほうを見る。

 しかし宮川が何か話すと、納得したようにその場を立ち去った。


「もしかして警戒させちまったかい?」

「気にすることないよー。本土から来る人が珍しいだけさ」


 そうは云われても、無遠慮な視線はやはり気になる。

 おなじ県内の島なのに、異国に迷い込んだような居心地の悪さを覚える。

 だがその居心地の悪さも、釣りを始めてすぐに霧散した。

 面白いように魚が釣れたのだ。

 ルアーの仕掛けを投げ込めば、ヒラメやヤリイカ、メバルなどがどんどん釣れる。隣にいる宮川はタイを釣り上げていた。


「今日は幸先いいね。海もご機嫌みたいだ」


 長年釣りをしているが、こんな入れ食いはあまり経験がない。この入り江は豊かな漁場になっているようだ。

 確かにこんな穴場があると知られたら、釣り人たちが殺到するかもしれない。

 漁師たちの縄張り意識の高さを考えると、外部の人間に対する警戒心もわからないでもなかった。

 

 と、さらにまた引きが来たので、リールを巻きあげる。

 次にかかったのは、うねうねと細長くくねる魚だった。


 ウナギである。


 黒々とした体の表面にぬめりのある粘液がてかっている。海釣りでウナギが釣れると思わず驚く。早速、ルアーの針からウナギを外そうとすると、


「触るなっ」


 宮川が鋭い怒声を発した。

 

 そのままウナギを掴むと、ルアーの針から慎重にウナギを外し、海に放す。

 ウナギはしばらく海面を旋回していた。ウナギの黒い目が恵三を覗き込んでいるような気がして、背筋に寒気が走った。

 宮川はウナギが海を潜ったのを見ると、安堵したように息を吐いた。


「ごめん、恵三さん。今日の釣りはここまでだ」


 突然の終了宣言に恵三は戸惑う。潮のタイミングを考えれば、もうすぐ干潮を迎え、上げ潮に移行する時間である。潮の流れが変化するときに、魚もよく釣れるので、これからがピークタイムのはずだった。

 しかし宮川は首を振った。


「ツナラがかかった。もうこれ以上は釣らないほうがいい」

「ツナラ? さっきのウナギのことか?」

「ここじゃあ、ツナラって呼ぶんだ。ツナラは釣っちゃならない。食べてもならない。そういうルールなんだ」


 宮川は手早く納竿を始める。もともと恵三は宮川の誘いで来ている身である。他人様の村の掟によそ者が口を挟む道理がないのは理解できる。

 結局、恵三も宮川に従い、撤収を始めた。しかしクーラーボックスを担いでいるあいだも、先ほどのウナギの姿がずっと瞼に焼きついて離れなかった。


 このまま宮川の家に行くのかと思ったが、「寄るところがある」と宮川は言った。

 軽ワゴンを運転しながら、山道を登っていく。やがて車は山道のそばにある小さな駐車場にたどり着いた。

 駐車場に建てられた看板には【津奈比売神社駐車場】と記載されている。


「恵三さんはここで待ってて」


 宮川は今日の釣果が入ったクーラーボックスを担ぎ、駐車場の奥へと引っ込んでいく。よく見ると木々のあいだに埋もれるように、踏み板が階段状に敷かれていた。

 あの段差を登っていくと先ほど見えた神社の鳥居があるらしい。

 

 しかし、宮川は何のためにクーラーボックスを担いで神社に向かったのだろう。釣った魚をわざわざ宮司にお裾分けしようというのだろうか。

 恵三は車から出て、駐車場を見渡した。この山の中だというのに、枯れ葉がほとんど落ちていない。日頃から掃除されているのだろう。大切にされていることが伺える。

 しばらくして宮川が段差を降りて戻ってきた。


「ヒコさんにお供え物をしてきたんだ。海で獲れたモノは漁であれ、釣りであれ、神社に捧げるしきたりだからね。たまに私が捌いたりしてんだよ」


 ヒコさんというのは、神社の宮司のことだという。昔から津奈島では神社の宮司をヒコさんと呼ぶ習わしがあるのだと、宮川は話してくれた。


「うちの島の村長よりもお偉い人だよ。会社でもさ、社長より会長のほうが偉かったりするだろ? あれと一緒よ。ヒコさんにはみんな頭が上がらない」


 その夜。恵三は宮川の家に泊まった。

 宮川の家は1階部分で「つなっこ」という定食屋を経営していた。

 さらに2階部分の空き部屋を使って、民宿業も営んでいるという。もともとはそれなりに歴史のある屋敷らしい。


「食堂のほうはね、結構繁盛してるのよ。民宿に関しちゃあ、開店休業状態だけどね」


 そう云いながら、食卓に立った宮川は慣れた手つきで魚をさばいていく。

 出来上がった料理を縁側に運ぶと、2人で酒を飲みかわし、料理を喫した。

 魚の料理はどれも美味しかったが、特に刺身は抜群だった。


「魚を捌くことに関しちゃあ、この島一番ですよ、私亜h」

 

 宮川はそう云って笑った。

 波の音が心地よい。のどかな場所だと思った。


「恵三さんも独り身だろ? こっちに住めばいいじゃないか」

「住んだって、できることなんかなんもないよ」

「気にすることはないって。どうせ爺さんと婆さんばかりなんだ。働いてないのはみんな一緒」


 酒を飲みかわしながら、そんな冗談を飛ばす。

 久しぶりに酒を飲んだこともあってか、だんだん恵三もこの島に移住してもいいのではないかと思うようになる。

 

「まぁ、いまはいろいろ大変だけどさ。

 次のヒメコ様が決まれば、島もしばらくは安泰するだろうけど」


 また知らない言葉が出てきた。しかも今度は様づけである。


「ヒメコ様ってのはなんだい? 会長よりさらに偉い人がこの島にはいるのかい?」


 軽い気落ちで訊いてみる。

 すると急に島民たちは押し黙った。みな神妙な顔つきになっている。恵三が困惑していると、宮川はフォローするように云った。


「ヒメコ様っていうのは、説明しにくいんだけど……。この島を象徴するお方なんだよ。偉いとか偉くないとかって話じゃない。大切にお守りしなければならない方なのさ」

「まるで天皇陛下だな」

「というより現人神かもね」


 本気とも冗談ともつかない調子で宮川は答えた。

 

 いま現在、この島にヒメコはいないらしい。当代のヒコさんを務める宮司の娘が神職の資格を取得するために東京の大学に通っているらしい。卒業したら島に戻ってくる予定なのだという。


「とても綺麗なお方だよ。頭もいいし。天は二物を与えずなんてのはウソだね。ありゃあ、三物そろった才媛だよ」

「しかし、そんなに若い子なのに、実家の跡を継がないといけないのは大変だね。やりたいこともあるだろうに」

「だけど、仕方ないよ。ヒメコ様だもの」


 こともなげに宮川は云った。


 恵三はそれ以上言葉を重ねず、代わりに孫の雄太郎を思い出していた。

 啓介は店を継がず、東京で美容師になるという夢を抱いている。きっと孫は地元に戻らず、恵三が知らない土地で自分の人生を開拓していくのだろう。


 いま大学生なら啓介と年は変わらない。若い身空なら胸に抱いた夢もあるだろう。それなのに島の人間たちからは当然のように、島のよくわからない役職を継ぐことを期待されている。 

 いつのまにか恵三の酔いは醒めていた。

 

 島から帰ったのちも、宮川との付き合いは続いた。

 津奈島への移住は変わらず持ち掛けられたが、宮川は結局断ることにした。


 島の風土自体は気に入っていたものの、根本のところで相いれない部分を感じてしまったのだ。

 宮川も深くは訊かなかったが、察するところはあったのだろう。


「たしかに老い先短い身だ。最後を迎えるなら、慣れ親しんだ場所が一番だよね」


 それからも、宮川とは本土の港で釣りを続けた。

 居酒屋で飲みながら、くだらない話を続け、たまに一緒にうまいタバコを吸う。

 恵三にはそれだけで十分だった。


 しかし、その日々も長くは続かなかった。

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