25. ある密漁者の懺悔_5
津奈島での日々はあっという間に過ぎていった。
佐原たちの初任給は3桁だった。口座に振り込むと足がつくため、すべて現金で受け渡される。佐原はこのうちの2割を母親の口座に振り込んだ。
労働は思ったより忙しくない。何しろ夜、船を出してタモ網をかき回すだけで、いくらでもシラスが取れてしまうのだ。公園の砂場で玩具のスコップを振るいながら、次々とダイヤを掘り当ててるような錯覚に陥る。
島にはなんの娯楽もないので、たまに工藤たちと本土へ繰り出し、繁華街で遊びふけった。たまに湯沢が息抜きと称して、本土から女性たちを呼び寄せ、ツナラ御殿でパーティを繰り広げた。
島の人間ともすぐ顔見知りになった。宮川のこともいつのまにか宮さんと呼んで久しくなり、なにもない島にも愛着を抱くようになっていた。
犯罪行為に関わってるという感覚はいつのまにか消えていた。まるで天国のようだと佐原は思った。
島の生活が始まった3ヵ月が経った頃、湯沢からある打診を受けた。
「タモ網仕事も飽きただろ。やる気あるなら、物流も担当しないか?」
漁獲したシラスは活きた状態のまま、養鰻業者に引き渡す必要がある。だが、正規の市場を通せば、津奈シップスの違法漁業がバレてしまうため、仲介人を立てて、直接養鰻業者へ移送する手段をとっていた。佐原はすぐにこの仕事に乗った。このため、本土と島をあわただしく往復する日々が始まった。
内湾でのシラス漁と比較して、本土への移送は格段の注意が必要となる。捕れたシラスウナギは専用の水槽に入れられ、島から本土まで大型クルーザーに乗って運搬される。
クルーザーは港に到着したのち、港で待っていたトラックに引き渡される。これらの作業を海上保安庁や水産庁の監督官などに気づかれず、遂行しなければならない。
仲介人となったのは、カバシマと呼ばれる男だった。
普段は水産加工会社に勤務しているらしく、全国の養鰻業者とも顔が利くらしい。もちろん仲介業務はカバシマの会社と一切関係がない。こちらが払ってるキックバックを新居のローンに充てているようだった。
津奈島にも何度か訪れ、ツナラ御殿で会食もしていた。津奈島のウナギであるツナラをひどく気に入り、何度も食べていたのが印象に残っている。
大きな仕事を任され、月給もさらに増えていった。本土にも事業所を構えるようになり、工藤と佐原は本土側の事業所の担当となった。
それを機に二人は本土側に土地を買い、新居の戸建てを購入した。島と本土を往復する日を送り続けた。
すべてが順調だった。
2017年夏。佐原が工藤と2人で呑んでいたときである。
「高橋の様子がおかしいらしいんだけどさ、コウちゃん、なんか知ってる?」
「おかしい?」
「ぼーっとしてることが多いんだって。湯沢さんがボヤいててさ」
「高橋さん、経理だろ? 大丈夫なの?」
「大丈夫じゃねーよ。あの人、うちの会社の資産運用も担当してるからさ。トバれたら困る」
「変なクスリやってるとか」
「それはない。たぶん。湯沢さん、クスリ嫌いだし」
工藤は眉をひそめると声を落として云った。
「実はさ、時々いるんだよ。うちの会社から消える奴」
「消える?」
「ああ。荷物もなにもかも残して、煙みたいに蒸発しちまうんだ」
「それは、消えたのか? 消されたんじゃなくて?」
「それはないな。湯沢さんが愚痴ってたから。それになんだかんだ、うちの会社はみんな忠誠心高いし」
工藤の言葉に、佐原も同意した。
津奈シップスは反社組織であるが、実入りはよく、目立ったトラブルもない。普通の会社組織ではないので足抜けは非常に難しいが、そのような話も聞いたことがなかった。
「どこかの組織に垂れ込んだとか?」
「だったら、横槍が入るだろ。でも、そんな動きもない。そもそもどうやって島から消えたのかもわかんねーんだよな」
「船で脱走したんじゃないの?」
「消えた奴は操船技術なんて持ってない。それに船がなくなってたら、すぐにわかる。あの港以外で船を置ける場所がないのは、コウちゃんも知ってるだろ?」
津奈島は内湾である綿土湾以外に船が着ける場所はない。湾の反対側は断崖となっている。もちろん本土と島では距離がありすぎるため、泳ぐことは不可能だ。
「消えたのって、どんな奴らなの?」
「シラス漁班が多かったな。そいつらもみんな、消える前には様子がおかしくなっててさ。だから高橋の件もピリついてんのよ」
佐原は高橋のことを思い返した。
最近はあまり顔を見ていないが、高橋に対する印象は最初に会った頃から変わらない。プライドが高く、周りを見下す癖がある。人間的に尊敬できるところはなにもない。
ただ、高橋の銀行員としての職能は今の組織に必要だ。工藤の懸念通り、警戒する必要があるかもしれない。
「いっそのこと、神社にお祓いでもしてもらったほうがいいかな。あの巫女さん、霊感高そうだし」
「巫女さん?」
「あれ、知らない? 津奈比売神社の神主さん」
「あそこの神主さんって、たしか有賀さんじゃなかった?」
神社に足を踏み入れたことはないが、神主らしい人間の顔は何度か見たことがある。40代の精悍な男性だったと記憶している。
「違う違う。有賀さんはあくまで神社の事務周りをしてるだけ。滅多に顔を出さないけど、巫女さんがいるんだよ。千尋って人。コウちゃんは見たことなかったか」
「千尋……」
佐原は島に着いた初日、鳥居から島を見下ろしていた人影を思い出していた。今にして思えば、あの人影は女性だった気がする。彼女が千尋だったのだろうか。
その日の話はここで終わった。佐原も酔った頭で聞いていたので、そこまで特別気にしていたわけではない。
それから数日後。佐原は津奈島に戻り、湯沢への報告のため、ツナラ御殿を訪れた。佐原はリビングで、売上の状況や仲介人であるカバシマの様子を伝える。
湯沢は昨年よりもさらに増収が見込めると、上機嫌だった。
「こりゃあ、今年も過去最高収益あげちゃうな。お前らも投資して、御殿建てちゃいなよ」
報告はすぐに終わり、佐原は湯沢と雑談をしたのち、去ろうとする。そこで高橋の姿がないことに気づいた。
湯沢に尋ねると、そっけない態度で返事をした。
「さぁ、疲れてんじゃない? メンタル弱そうだし」
「経理ですよね。まずいんじゃないですか?」
「いいよー。ほかにも人いるし。新しい人雇うしー」
「高橋さん、行員でしょ? 代わりいます?」
「平気、平気。あいつ、職歴だけの無能だし」
もう切るか、と湯沢はぼやくように云った。
ツナラ御殿を出た佐原は車を運転する。ツナラ御殿は山中にある。このため山道を下る形になる。まがりくねった山道を進みながら、佐原の視界に古いバス停が目に入る。
『津奈比売神社前』という標識を見て、この山道の途中にある津奈比売神社の駐車場を思い出す。いつもは何気なく通り過ぎるだけで、神社の存在など気にも留めていなかった。
そろそろ神社の駐車場だったか。
そう思った佐原は減速しながら、駐車場を横目で見やった。そのとき、駐車場をふらふら歩くスーツ姿の男性に気づいた。高橋である。
「高橋さん?」
佐原は車を停めた。窓から身を乗り出し、声をかける。しかし高橋はフラフラと歩き続けるだけだった。佐原の言葉に気づかず、駐車場の奥にある段差へと消えていく。尋常な様子ではなかった。佐原は車を駐車場に止め、段差を登った。踏み板を踏みながら、山の斜面を登っていく。
すぐに追いつくかと思ったが、高橋の姿は一向に見当たらない。気がつくと、佐原は鳥居の前に立っていた。
改めてふもとのほうを振り返る。津奈島を一望でき、港どころか湾内の様子もすべて見通すことができた。
ツナラ御殿のデッキからも港を一望できるが、景色の雄大さではこちらのほうが上回っているように感じられる。津奈島の本来の姿を切り取っている、そんな印象を受けた。
妙な居心地の悪さが沸き上がる。なぜなのかは、自分でもわからない。ただ、佐原は高橋を引き戻そうと、神社の境内に足を踏み入れた。
境内は静謐な空気に包まれ、誰の姿もない。森に囲まれているせいもあるのだろうが、世俗と隔絶した雰囲気を放っていた。
港の寂寥さとはまた異なる。妙な肌寒さを覚える。佐原は境内のあたりを見回すが、どこにも高橋の姿がない。
「高橋さーん。いないんですかー?」
呼びかけても返事はなかった。
拝殿と思われる建物の裏に回った佐原は、境内の奥にある生垣の門に気づく。古い木板でできた門の入り口がわずかに開かれていた。まるでこちらを誘うように。
佐原は門を開け、奥へと進む。銛に囲まれた小道を歩くうち、息苦しさを覚え始めた。この道はどこへ続いているのだろう。どこに向かっているのだろう。不安を覚えているのに、歩く足は止まらない。
小道はやがて開けた場所へと出る。
広い池があった。ほとりには鳥居が経ち、池の中央には小さな浮島が浮かんでいる。浮島には黒焦げたモノが鎮座している。
木の残骸だろうか。もとは巨木だったように見えるが、燃えてしまったのだろう。ほとんど炭化しており、黒焦げた根元しか残っていない。
その池に、高橋が腰まで沈もうとしていた。
「高橋さん!」
慌てて佐原は池に入る。池の奥へ進もうとする高橋の腕を後ろから掴んだ。
「なにやってんですか!」
何度も呼びかけて、ようやく高橋は立ち止まり、佐原のほうを振り返った。
淀んだ瞳でこちらを見返す。
「ああ、佐原くん……。どうしたの……?」
「どうしたじゃないですよ。いいから、早く上がって!」
岸まで引っ張ろうとしたとき、佐原の越本をなにかが通り過ぎた。思わぬ感触に、佐原は自分の身体を見下ろす。濁った池の中、蠢く影があった。
最初は蛇かと思ったが、違う。
ウナギだ。
黒々とした細長い体をゆらゆらとくねらせながら、水中を泳いでいる。もの言いたげにパクパクと口を動かしていた。
言い知れぬ不気味さを感じながら、佐原は高橋を岸まで引っ張る。ようやく岸にあがったが、高橋はなおも浮島のほうを眺め続けていた。
「なんで、高橋さん、こんなことを」
「なんで……」
高橋はオウム返しに繰り返す。池の冷たさのせいか、唇は真っ青で顔からは血の気が引けていた。なにかに憑りつかれているのではないかと、佐原は思った。
「呼ばれたんです。こっちへ来い。こっちへ来い、と」
「呼ばれたって誰にです?」
「それは……」
高橋は困惑したように、眉をひそめた。それから佐原に問いかける。
「誰に、でしょう。あれ。ここじゃなかったのかな……」
池でちゃぽんと音が鳴った。慌てて、佐原は池を見る。水面にウナギが泳いでる。何匹も、何匹も。ウナギたちが岸の方へ近づいてくる。
そんなはずがないのに、陸まで這ってくるのではないかと思った。
急いで離れようと、佐原は高橋の手を引く。
「なにをしてるのです」
佐原は慌てて立ち止まった。
いつのまにか白い袴を着た女性が立っていた。腰まで伸びた黒髪、絹のように白い肌。凛とした吊り目。年齢は佐原とおなじくらいだろうか。
「すいません。連れが、気分悪くなったみたいで。すぐ行きますんで」
常識的に考えて、島の外から来た余所者が神社の池に勝手に入る行為を容認されるわけがない。トラブルになる前に、早くここを去りたかった。
女性はこちらに歩み寄る。足袋の足音が池に響いた。女性はなにかを高橋の前に掲げた。鈴だ。女性が鈴を揺らすとチリンと鳴った。
高橋の目はとろんとしたままだった。
佐原が訝しんでいると、女性は厳かに云った。
「もう、この方は呼ばれていますね。ここへ来るなんて珍しい」
「呼ばれてる? 誰にです」
「呼ばれたって誰にです?」
「津奈来命」
一瞬、ウナギのことかと思ったが、そもそもこの島では神様を「ツナラ様」と呼んでいたことを思い出す。
「神様に呼ばれた? なんですか、それ」
「つならの仔はみな、生まれた場所へ還る。だから呼ばれる。そういうものです」
「あの、答えになってないんですけど」
「あなたもいずれ、呼ばれるかも」
女性が問いかけるような目でこちらを見つめる。だんだん佐原は苛立ちが募り始めた。話にならない。女性を無視し、佐原は高橋を連れ出す。
その前に、佐原は訊ねた。
「あなた、千尋さんですか?」
「あら。ご存じだったのですね」
「ええ。この神社の巫女さんだって訊いてます」
「巫女ではなくヒメコです。佐原康介さん」
ぞくっと佐原は悪寒が走った。佐原は一度も名乗っていない。なぜこの女性は、千尋は自分の名前を知っているのか。
「島の誰かから聞いたんですか?」
「ええ、訊いています。――ツナラ様から」
千尋の表情に変化はなかった。
さすがに佐原は一言いわずにはいられなかった。
「ふざけてるんですか?」
「なにがです?」
「神様を使って、余所者である俺たちを脅してるんでしょ。それが神社のやり口ですか。いい趣味してますね」
「脅してなど。事実を告げているだけです」
「俺たちは島のためにやってる。俺たちの仕事で、島の人らも潤ってるんだ。文句を言われる謂れなんてないはずだ」
「島の、ため?」
千尋が急に下を向いた。肩が震えはじめる。クックック、という声が漏れた。
嗤っている。
千尋の哄笑が境内じゅうに響き渡った。
なんのつもりだと、佐原は抗議しようとしたができなかった。
笑い声がひとつではなかったからだ。
幾つも、幾つも。さまざまな笑い声が幾つも折り重なるように響いている。
誰だ。誰がほかに笑ってる?
あたりを見回した佐原は池を見て、気づいた。
池から突き出す顔。ウナギだ。
ウナギたちが顔を出し、嗤っていた。
「あなた方が動いているのは、ご自分のためでしょう。欺瞞はおやめなさい。ツナラ様はすべてを見通している」
ははは、と佐原の隣でも笑い声が聞こえた。高橋がウナギたちに呼応するように笑っていたのだ。
「でも、安心なさい。あなたたちがどのような野心を秘めていようと、いずれみな、ツナラの仔としてツナラさまのもとに還る。だから好きにすればいい」
――もう結末は、決まっているのだから。
佐原は恐ろしくなった。高橋の手を引き、慌てて池から走り去った。一刻も早く、ここから逃げなければ。その想いだけに突き動かされながら。
逃げるあいだもずっと、千尋の言葉が頭に反響し続けていた。
その日、佐原は宿舎に高橋を連れて行き、部屋で寝かせた。湯沢に高橋の変調だけを報告し、しばらく業務から外させるよう提言する。
念のため、高橋の様子を見るために、その日は津奈島に泊まった。
翌日。佐原は高橋の部屋を訪れたが、部屋には誰もいなかった。
荷物はすべて部屋に残ったままで、布団も畳まれていない。
もう起きたのだろうかと思い、共同洗面所のほうへと向かう。
共同洗面所は改装の際に新しく付け加えられた場所であり、1階と2階を繋ぐ階段の踊り場、いわば1.5階に設置されていた。
佐原は歯を磨こうとして、共同洗面所の鏡を見るが、鏡の表面がおかしいことに気づく。妙なぬめりができていたのだ。
さらに佐原は洗い場の縁に置かれていた眼鏡に気づく。
高橋がいつもかけている眼鏡だ。
すぐに佐原は宿舎にいる従業員に通達し、高橋の行方を探させた。
しかし結局、高橋の姿はどこにも見当たらなかった。
高橋は忽然と姿を消してしまったのだ。
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