4. 失踪した夫に関する話

 ある時から、健太郎のテンションが急におかしくなった。

 急に残業が増え始め、遅い時間に帰宅するようになったのに、異様なほど精力的に活動するようになったのだという。


「もともと仕事が好きな人ではあったんですけど……、いつも目をギラギラさせて、早口で話すようになって……。最初は躁鬱じゃないかと疑ったくらいでした」


 そしてこの頃から体験談にも書かれていた寝言をいうようになった。しかし裕子にはただの寝言だとはどうしても思えなかった。


「寝言というより、何かを唱えているな感じだったんです。お経とは少し違います。どちらかというと、神社で神主さんが唱える言葉に近かった気がします」


 裕子と健太郎は、互いに隣接するベッドで寝ていた。だから、唱えている言葉がはっきりと聞こえていたのだという。

 それはこんな言葉だったらしい。


 ツーナーラーノーミーコートー

 ツーナーラーノーミーコートー


 寝言を唱えているとき、いくら身体を揺さぶっても、健太郎はまったく起きようとしなかった。そして翌朝になると、妙に晴れやかな顔をしてこういうのだ。


「なんだかすごく幸せな夢を見た気がする」


 裕子さんには、健太郎が見ているのが幸せな夢だとはとても思えなかった。目が覚めたとき、晴れやかな顔で笑っている健太郎の額にはびっしょりと汗の粒が浮かび、目には隈ができていた。

 恐ろしい悪夢を見たのに顔だけが笑っている。そんな印象を受けたという。


「最初は仕事のストレスだと思いました。病院にも行くように何度も言ったのですが、全然聞いてくれなくて」


 それからも健太郎の奇行は続いた。

 ある夜、キッチンから物音が聞こえてきた。起き上がって様子を覗いてみたら、健太郎さんが冷蔵庫を開けて、モノを食べていたという。

 ただのつまみ食いではない。食べ方の様子が尋常ではなかった。


 床には1パック分の卵の殻と白菜の芯、トマトのへた、空になった魚のパックが転がっていた。ずいぶん長い間、物色し続けていたのだろう。裕子さんが見たときには、牛肉を生のままかぶりついているところだった。

 思わず悲鳴をあげ、健太郎を止めた。我に返った健太郎は食べるのをやめたが、「お腹がすいただけなんだ」と繰り返していたという。

 

そのあとも健太郎は寝言を唱え続けた。どんどん唱える声は大きくなり、裕子さんも眠れなくなっていった。

 夫婦は別室で眠るようになり、裕子さんは睡眠導入剤が手放せなくなっていった。

 周りにも相談したが、健太郎さんは外ではいつも通りだったため、誰も異変に気付くことができなかった。

 そうしているときに、あの事件が起きた。


「その日、私は高校時代の友人と外食をしていました。気晴らしがしたかったんです。主人のことを忘れて、久しぶりに楽しくおしゃべりができたのですが……」


 帰り道のことだった。

 夕闇の中、家のほうへ歩いていると、祝詞の声がどこから聞こえてきた。最初はどこかでお祭りでもしているのかと考えた。

 家へ近づくにつれ、声は次第に大きくなっていった。近所の人もこわごわと様子を伺うように外へ出てきていた。みな、家のほうを見ていた。


 声の主が誰なのか。考えるまでもなかった。このまま後ずさりしたかった。だが、裕子さんが帰る家はここしかないのだ。

 玄関を開ける。リビングから響く声が家じゅうの空気を震わせていた。リビングへ続く廊下を一歩、また一歩と恐る恐る進んでいく。

 そしてリビングにたどり着いた裕子さんは見てしまった。


 壁一面に蚯蚓がのたうち回ったような筆致で文様が描かれていた。文様としか言いようがなかった。線が複雑に絡み合い、龍の姿にも似ていたという。床には裕子が趣味で集めていたぬいぐるみが並べられていた。まわりにはぬいぐるみから抜き取った綿が転がっていた。

 慌ててぬいぐるみを拾うと、生臭い匂いがしたという。中を覗くと、ぬいぐるみにはあるモノが詰め込まれていた。


「生肉です。ステーキ用に買った牛肉が塊のまま詰め込まれていました」


 健太郎さんは一糸まとわぬ姿で壁に向かって正座をし、両腕を掲げていた。まるで礼拝を行うかのように、何度も何度もお辞儀をする。

 そのあいだもずっと、おなじ言葉を唱え続けていた。


 ツーナーラーノーミーコートー!

 ツーナーラーノーミーコートー!

 マーモーリーターマーエー!

 サーキーハーエーターマーエー!


 喉はつぶれ、声はかすれていた。それでも健太郎さんは瞬きひとつせず、言葉を唱え続けていた。リビング中に健太郎さんの声がこだましていた。

 裕子は何度も健太郎に呼びかけ、体をゆすった。こちらを振り返った健太郎は光悦とした顔でこう言った。


「裕子も食べよう。一緒にツナラを食べよう」


 裕子は悲鳴をあげて、寝室に逃げ込むしかなかった。


「あのときの主人の目が忘れられないんです。底のない穴のような、真っ黒な瞳で私を見つめていたんです」


 それ以来、裕子は実家に戻り、健太郎と距離を置いた。


 そして去年の夏。裕子のもとに会社の人間から連絡が来て、健太郎さんが無断欠勤をしていることが判明した。家に戻ると、書置きだけが残され、健太郎さんの姿はどこにもなくなっていたのだという。


『よばれたのでいきます』

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