金木犀

上月へこみ

金木犀

 夕焼け。カラス。赤とんぼ。

 ある初秋の頃、その帰り道のことです。

 田んぼのあぜ道にはわたしとあなたの影法師。わたしは、昨日と同じようにわたしの一歩先をゆくあなたの背中を眺めて、今日もささやかな一日が終わってしまうのだと、寂寥感にも似た感傷を懐いてはあなたと肩を並べる勇気も持てず、今度はうつむき加減でついてゆくのです。気まぐれに吹くやわらかな風に田んぼの稲穂がほろほろとゆれて、わたしはその景色に、ああ、まさに卑屈でうつむく自分自身を重ねてしまうのです。

 ふと一歩先から「ねえ」、「ねえったら」と澄んだ声をいただいて、わたしは意図せずに吃る声を喉から絞り出して、どうにか言葉を返すことができました。

「ど、どうかしましたか」

 あなたは、ただ「ええ」と一言こぼして、わたしに金木犀の刺繍の入ったハンカチの端を握らせるのです。なんと心和らぐ好い香りでしょう……。

「どうやら貴女は、ずいぶんな恥ずかしがり屋さんのようだから……」と少しはにかんで、「私もハンカチの端を握って――こうすれば、せめて少しは手を繋いでいるように感じられるでしょう?」と言いました。

 ああ、かくもゆかしく、かくも情けの深いあなた。けれども、けれども。

「ハ、ハンカチが、し、しわになってしまいます」

「いいの。むしろこのハンカチについたしわが、汗が、匂いが……かわいいかわいい貴女との思い出の証明になるのよ」


 じゃり。

 じゃり、じゃり。

 あなたの手に導かれながら、わたしは口を閉じて田んぼのあぜ道を歩きます。

 じゃり。

 それも少しうつむきがちに。

 じゃり、じゃり。

 けれど淡い笑みをたたえて。


 いつまであなたに導かれて歩いたでしょうか。

 ハンカチを使わなければ手を繋ぐことができないわたしをあざ笑うかのようにカラスが鳴いて、けれどもあなたはすぐに「こら、あちらへお行きなさい!」と追い払います。カラスに向かって声を張り上げる絵面は珍妙で滑稽で変梃で、それでも確かに気高く勇猛で精彩に映って、わたしは幸せでした。

 じゃり。

 じゃり、じゃり。

 かくして、わたしはあなたへの思慕の情を膨らませてゆくのでした。


 歩みを進めながら、あなたからいただいた言葉を反芻していると、

 ――このハンカチについたしわが、汗が、匂いが……かわいいかわいい貴女との思い出の証明になるのよ。

 やがて、ふとひとつの可能性に思い当たってしまいます。

 ――思い出? 証明?

 あなたが、あのあなたが、わたしを過去のものにしようとしているという馬鹿げた妄想にも似た可能性に、えもいわれぬ恐怖に覆われて、けれど、もしも本当だというのなら、それはたまらなく哀しくて、やはり、その時にはみっともなく哭いてしまうのでしょう。

 わたしとあなたとを繋ぐのは、ただ一枚のハンカチか、あるいは……。

「あ、あ、あの……」

 ――わたし、ひたすらあなたへの思慕の情に身を焦がして、幸せです。

 せめて、そう伝えたいのに……。

「……も、も、もっと、い、いっしょに、い、いた、いたい、です」

 わたしの口から溢れる喘ぐような声は、もはや音にも満たない、本当に伝えたいことすらも妥協した、みっともない響き! この鬱陶しい吃りがなければ、せめて、せめて、あなたと肩を並べられずとも言葉を交わすことができるというのに!

「……あら、生意気な貴女」と、わたしの拙い言葉を噛みしめるようにそう呟いてから「ええ、これは生意気ね」と、次は笑みを浮かべてそう言うのでした。「生意気な貴女には、折檻が必要ね」と、わたしとあなたとを繋ぐハンカチを取り上げてしまったのです! ああ、これほど自分自身を呪った瞬間はありません。そう悔いているのもつかの間、そっ、とわたしの手にやわらかな感触が現れて、数秒遅れてから、あなたが両の手でわたしの手を包んでいるのだと気がつきました。

「謝らなければいけないのは私の方。……私、貴女のこと、どこか心配にさせてしまって?」

 気高い人。そのあなたの手が震えている。生意気にも、気がついてしまいました。

 ――そうか、あなたもわたしと同じだったのですね。簡単なことだったのです。

 あなたの手から伝わる震えも、そこから流れ込む熱も、そしてわたしの不安と感傷をも綯い交ぜにしてできあがったこの温かな感情は、いったい何なのでしょう。


 ――真実の愛。


 だしぬけに、そんな答えが頭をよぎりました。あなたも同じ思いだと陶酔するわたしは生意気でしょうか。

「わたし、心配になってしまいました。不安になってしまいました。こうして……折角こうしてあなたとお近づきになれたのに、あなたはわたしのことを思い出にしようとしているのですから。過去のものにしようとしているのですから」一息で捲し立てて、ふと、吃らずに発音できることに気がつきました。あなたは嬉しそうに穏やかな顔で次の言葉を待っています。

 その姿の慎ましさは、まさに謙虚なものでした。

 深呼吸をひとつして、「わたし――」


「――ひたすらあなたへの思慕の情に身を焦がして、幸せです。これからも、わたしを連れて行ってもらえるでしょうか」


「……もう、馬鹿ね」

「……あなたも」

「ふふ、生意気ね」

 瞬間、見計らったようにひときわ強い風がハンカチを奪い去ります。

 ハンカチはもう必要ないとわたしの腕に抱きつくあなた。

 じゃり。

 じゃり、じゃり。

 先ほどよりも狭くなったように感じるあぜ道でふたり寄り添って、気まぐれに吹くやわらかな風に田んぼの稲穂がほろほろとゆれて、赤とんぼの群れはわたし達を追い越して、夕焼けから伸びるふたつの影法師。

 夕焼け。カラス。赤とんぼ。

 そして、風とともに香る金木犀――あなたの匂い。

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金木犀 上月へこみ @hekomin_hekomin

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