第4話 天災

 湊は寝坊をした。

 八時三十分に集合して皆で東京タワーへ向かう予定だったが、時計の針は九時を指している。


 跳ね起きてスマホを見ると、荒波部三人からのメッセージが十五件。眠気は瞬時に吹き飛んだ。

 インターホンが鳴ったが、出なくても誰かは分かっている。急いで準備を整えて、玄関を飛び出した。


「おー来た来た、お寝坊さんめ」


 臙脂色のコートに身を包んだ彩子が、ジト目で腕を組んで仁王立ちしている。

 湊は音速で頭を下げて謝罪した。


「珍しいな、湊が寝坊なんて。昨日夜更かしでもしたんか?」


 一切遅刻を咎めることなく、微笑みながら尋ねる真司。その脇で、優奈が少しはにかんだ表情で、やっ、と手のひらを見せた。


「まあいいわ。それじゃ、早速行くわよ!」

「え……あ、はい」


 パッと踵を返して先陣を切る彩子。しばかれると思っていたが、意外にもお咎めなしだった。湊は少し呆気にとられながらも、そのあとに続いた。


 優奈と真司はそれぞれコンビニの大きなビニール袋を持っていて、カロリーメイトと大量のエナジードリンクが透けて見える。


「ねえ、二人ともそんなにたくさんファントム飲むの?」


 ファントムというのはエナジードリンクの商品名だ。ちなみに他社の競合商品にブルーブルというものがあり、彩子がよく部室で「ブルーブルでもキメなきゃやってらんない!」とかヤク中のようなことを言って、ガッと腰に手を当ててそれを一気飲みしている。


「や、なんか先輩がよ、必要だから買ってけって」


 理由は分からない、と言った様子の真司の視線の先を歩く彩子は、大きなリュックサックとショルダーバッグ、さらにスーツケースを持っている。


「サイコ先輩、もしかしてその荷物、全部……」

「ええ、カロリーメイトとブルーブルよ。あと着替えとか諸々」

「着替え?」

「えーっ、ちょっと夕霧先輩、自分で買って来たなら私達買う必要無かったじゃん!」


 湊を遮って不満げに口を尖らせる優奈に、まあまあ色々あんのよ、と答えになっていない返事をして、足を止めることなく駅へ向かう彩子。


「湊はもう買う時間無いから仕方ない。あたしのあげるわ。はいこれ」


 彩子はリュックサックを肩から下ろして湊へと押し付けた。中を見ると案の定、ブルーブルがぎっしり。

 また何か変なことを企んでるんだろうな、と三人は考える。だが、呆れながらにもまあ付き合うか、と全員が思う位には、荒波部の仲は良いのだった。


 地下鉄に乗り換え、やがて東京タワーの最寄駅に着くやいなや、「ほらダッシュ!」とストイックな運動部の如く彩子が指示を出して、重い荷物を揺らして走る。


 駅から東京タワーまではそれなりの距離がある。

 しばらくして、優奈のペースが落ち始めた。


「優奈、大丈夫?」


 見かねた湊が優奈に声をかけると、ぜえぜえと息を切らしながらこくりと頷く。湊は優奈の手から荷物を引ったくって、走るペースを合わせた。

 

 東京タワーは思ったほど混み合ってはおらず、むしろ人影はまばらというくらいだった。彩子は事前に予約していたのか、スタッフにスマホの画面を見せてエレベーターに乗る。

 彩子は腕時計を見て少し険しい顔をした。


 タワー中腹のメインデッキに到着したが、今日の目的地はここから更に上のトップデッキだ。

 彩子はまるで何かに追われるかのように、重いスーツケースを引きずりながらペースを落とさない。その急ぎ様は、湊達三人には段々と異様に思えて来た。


「ううっ」


 走り過ぎて気分が悪くなったのか、優奈がその場にしゃがみこんだ。駅から東京タワーまで、さらに内部でも走り続けるそのペースは、華奢な優奈には辛いはずだった。


「サイコ先輩、ちょっと休憩しましょう」


 湊がそう提案する。彩子は立ち止まったが、不安げな表情を隠せていない。彩子がここまで困った顔は、未だかつて誰も見たことがなかった。


「あの、いいっすか、先輩。どうしてそんなに急いでんすか」


 息を切らしながら真司が尋ねる。彩子はまた腕時計を見て、少しの間を置いた後、意を決した様に口を開いた。


「――みんな、聞いて。この平和な日本でだって、大きな荒波を越えて行かなければならない事も必ずある。どんなに辛い事があっても、決して諦めたりしないで。誰かが守ってくれる、何とかしてくれるなんて考えは今すぐ捨てて。自分の考えを、行動を、信じて生きて。困った事があれば、荒波部での活動を思い出すのよ」


 何を言っているのだろう、と疑問に思う三人に構わず彩子は続ける。


「少し休んだら、最上階を目指して。絶対に止まるんじゃないわよ」

「サイコ先輩?」


 彩子は持っていたスーツケースを真司に託すと、ショルダーバッグだけを背負い、エレベータでは無く下り階段へ向かって走り出した。


「どうしたんだ? 夕霧先輩」


 真司がただただ頭にクエスチョンマークを浮かべる傍ら、湊はざわざわとした胸騒ぎを感じていた。


 ――彩子の様子は、おかしかった。割と破天荒な性格をしているが、説明は順序立てて出来る人だし、ここまで理解不能な行動をする事は無かった。


それが今、目的も何も言わないまま、ただ上に上がれと。止まるなと。


「私、ちょっとお手洗いに」

「優奈、大丈夫?」

「うん、ごめんね」


 優奈は手で顔を覆ってフラフラと立ち上がり、トイレへと歩いて行った。


「めっちゃ具合悪そうだったな。大丈夫かあいつ」

「ここで優奈が良くなるまで休もう」


 彩子の意図を掴みかねるまま、二人で優奈を待って休んでいると、窓の外では段々と深い霧が立ち込めてきた。


「さっきまで晴れてたのに……」


 湊が不思議そうに視界に広がる白い霧を見渡した時、ずん、と足元が揺れた。バランスを崩し、その場にしゃがみこむ。


「おわ、なんだこの揺れ!」

「地震……じゃ無い?」


 湊は立ち上がり、窓の外の足元を見下ろす。

 深い霧でよく見えないが、何かがゆらゆらと――。


「――海?」


 目を凝らして、疑いようの無い事を知った。湊達のいる東京タワーの数十メートルくらい下は、海だった。

 民家の屋根などは、とうに飲み込まれている。

 うねる海面に踊る瓦礫や車、それに、もがく大勢の人間が見えた。


 二人は目にした光景を理解出来ずに無言でそのまま立ち尽くした。するとまた、もう一度重い揺れ。それを合図にするかの様に、また海面が大きくせり上がった。まばらにいた他の観光客も、突如眼下の街を沈めた海に気付きざわめき始める。


「おいおい湊……やべえよな、これ」

「僕はサイコ先輩を探す。真司は優奈を連れて上に行ってて」

「あ、ああ! 分かった!」


 湊は彩子の消えて行った道を走って辿る。


「サイコ先輩っ! どこですか!」


 叫びながら、転げ落ちる位の速度で階下へ走る湊。しかし彩子の返事は無い。

 やがて湊は足を止めた。バチバチと弾ける蛍光灯の下、灰色の水面がうねる。目の前の下り階段は、既に海に沈んでいた。


 ――そこに到るまでに、彩子の姿は無かった。


「どこ行ったんだよ、勝手にも程が」 


 焦りを呟いた途端。足元に広がる海水が目の前に迫り、湊をどぷんと飲み込んだ。

 必死で海面を目指して手足を動かす。泳ぎなら誰よりも得意だった。リュックサックや水を吸って重くなった衣服を差し引いても、問題なく顔を出せるはずだった。


 しかし、何かが身体に絡みつき思うように泳げない。


 深く、深くへ沈んで――やがて、湊の意識は途切れた。

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