第10話 王太子妃の証




















それから何日が経っただろうか、メイヴィスは自室で目を覚ました。

やや欠けた月がぽっかりと夜空に浮かび、周囲には誰もいない。起き上がると頭が痛んだ。


「……」


手を伸ばしてみると、包帯の巻目に触れる。背中も痛い。背面全部が痛い。


「何があったんだっけ……」


記憶力のない頭では、細かいことまでは思い出せそうにない。


(ルーナ様とお話ししてた気がするけど、それがどうして怪我になるのかしら)


誰かに尋ねたかったが、いざ尋ねるべき人物が思い当たらない。ルーナが当人なので、彼女に聞くべきなのだが、向こうから出向いてもらわないと話はできないだろう。

何せメイヴィスは重傷なのだから。


「明日でいい、うん」


自分の周りには誰もいないのだ。わざわざ誰かを呼ぶほどメイヴィスは困っていない。

ぼふんとベッドに倒れ込み、そのまま目を閉じた。





早朝、軽く扉が叩かれた。メイヴィスが目覚めていることを期待していない。そんな音だった。

メイヴィスは目を閉じ、眠っているふりをする。正体が分からずとも、その客の本音を見極めるために。


(もし、トドメを刺しに来たのなら)


それが誰であるか、見てやろうと思った。

扉が開かれる。コツン、とヒールの音が一人分。おそらく、女。そして、侍女ではない。彼女たちは音の響く靴を履くことを許されていない。

女は、メイヴィスのベッドまで歩み寄ってくる。顔を覗き込んでいるようだ。

メイヴィスはあくまで自然な寝息を心がけた。そして刺される覚悟もした。

スッと衣の擦れる音。そして顔の前に何かがかざされた気配。おそらく手。


「……メイヴィス様」


深く息が吐かれ、名前が呼ばれる。その声には聞き覚えがあった。


「ルーナ、さま」


目を閉じたまま、メイヴィスは口を開く。なぜか、返事をしなければいけない気がしたのだ。そのまま出ていくのを待っていれば良かったのに。ルーナの息をのむ音を聞き、メイヴィスはそこで目も開いた。切れ長の目を見開いた、美しい女の顔が見えた。


「メイヴィス様! 誰か、王宮医を!」


ほぼ寝起きには、辛い声量の叫びを浴びた。

そしてそれからは、忙しかった。ルーナが去り、カレンに連れられた王宮医がメイヴィスに質問を始めた。


「気分はいかがですか、ラングラー侯爵令嬢様」


王宮医は妻を連れていた。夫の隣に立ち、メイヴィスをじっと見つめている。


「……普通です」


視線に慣れていないメイヴィスは、ずっと床を見つめていた。


「傷の具合を確認させていただいてもよろしいでしょうか。妻が見ます」


医者の問いに頷き、包帯を巻かれた頭を差し出す。そして服を脱ぎ、打撲痕を晒した。


「治りが遅いですね。本当はまだ痛むのでは?」


医者の妻は鋭く尋ねてきた。なぜか責められているような気がして、メイヴィスは少し震えた。


「……少しだけです」


医者は納得していないのか呆れているのか、暫し「うぅん」と唸って黙り込んだが、最終的には「薬を出しておきます。必ず飲んでください」と念押しするだけですぐ退室していった。


「侯爵令嬢様。お怪我以外特に異変はないですか」


ずっと部屋の隅で待機していたカレンが、医者を見送った後、メイヴィスのベッドまでやってくる。


「ええ、ちょっと頭がぼんやりするけど……私はどのくらい眠っていたの?」

「約1週間です」

「1週間……」


日付を尋ねると、正確には10日経っていた。意識を取り戻すまでにそこまでかかっていたということは、かなりの重傷なのだろう。メイヴィスはそこで自分の怪我の程度を自覚した。


「パリッシュ伯爵令嬢様より事情は聞いております。仔猫を助けようとして木に登ったはいいものの、枝が折れてしまいその真下にいた侯爵令嬢様を下敷きにしてしまった、と」

「……ああ、そういう」


何かが折れた音は木の枝で、それと共にルーナが落ちてきた衝撃でメイヴィスは気を失ったのだ。


「王太子殿下も、一度だけですがこちらにいらっしゃったんですよ」

「殿下が? 何のために?」


顔を顰めてカレンに問うと、彼女は少し呆れたように、


「お見舞いに決まってるじゃないですか」


と言い切った。

普通の感覚であれば、誰もがそう思うだろう。いくら興味のない女でも、一応は王太子妃候補なのだから、と。

しかしメイヴィスはその言葉を信じていなかった。メイヴィスは、見舞いという行為は心配という感情が根底にあると思っていたからだ。そしてその感情を、サイラスがメイヴィスに対して持っているとは思えなかった。


「殿下が、私のお見舞いになんていらっしゃるわけないじゃない」


おおかた、ルーナに経緯を聞いて実際に何がどうなったのか知りたかっただけだろう。それはたいそう公人らしく、事務的な義務。であれば、一度だけという回数も納得がいく。


「次お会いしたらまた怒られそうね」


好きで騒ぎを起こしているわけではないのだが、この世界が理不尽であることをメイヴィスは知っている。サイラスに叱責されれば、どんな言い訳も通じない。


「お言葉ですが、殿下はそこまで冷酷ではございません。侯爵令嬢様」


癇に障ったのか、カレンが少し怒ったような声でサイラスを庇う。


(……殿下の味方ってのは嘘じゃないのね)


「あなたにとってはそうでしょう。でも、私は違うのよ」


誰しも懐に入れた人間には甘い。カレンの言葉は一ミリもメイヴィスに響かなかった。


「……パリッシュ伯爵令嬢様はご自分に非があると責めておいででした」


カレンは諦めたのか、話題を変える。


「そんなこと……」


あの場にメイヴィスを引き止めたのは確かにルーナだが、ルーナの真下にいた自分も悪かったのだとメイヴィスは思う。ルーナに対して怒りはなかった。


「ルーナ様はご無事なの?」

「はい、侯爵令嬢様がいらっしゃったことで無傷だったと聞いております」


(ならよかった)


万一ルーナに何かあれば、メイヴィスがルーナに危害を加えようとしたと噂されていたに違いない。


「本日は面会謝絶ですが、明日にはまたルーナ様がいらっしゃるかと」

「そう、わかったわ」





その言葉通り、ルーナは再び朝早くにメイヴィスの元へやってきた。


「メイヴィス様……」


心から申し訳なさそうに、ルーナはメイヴィスの手を取り、握り込む。


「ルーナ様にお怪我がなくて本当に良かったです」


言いながら、弱々しく握り返してやる。こんなやりとりでさえ、メイヴィスにとっては億劫だった。本音であることには間違いないのだが、放っておいてほしいとも思ってしまう。


「本当に……申し訳ありません」

「……」


ルーナ・パリッシュは常に二の腕までの長い手袋をしていた。潔癖症、というわけでもないとメイヴィスは思う。潔癖症であるなら、動物はあまり好まないはずだ。傷でも隠しているのだろうか。


「……?」


するとメイヴィスは、ルーナの手首のあたりが光っていることに気がついた。


「そのブレスレット、素敵ですね」


ぼやくと、ルーナはメイヴィスの顔を凝視する。少し驚いたように。


「これは、王太子殿下から頂いたものです。妃候補に渡しているものだそうで、クリスタ様は同じ宝石のついたネックレスをしていらっしゃるはずです。メイヴィス様は何も受け取っていらっしゃらないのですか?」


ルーナが光を取り込むようにブレスレットをかざすと、白の宝石の中に王家の紋章が浮かんだ。

言われてみれば、クリスタは白のネックレスをしていた気がする。しかし、メイヴィスは何も知らない。


「私は、何も。殿下から直々に頂いたのでしょうか」

「いえ、侍女が持ってきました」


無論、メイヴィスのもとにそんな侍女は来ていない。


「妙ですね……メイヴィス様だけに装飾品を渡さないなんて不平等を、殿下がなさるとは思えませんが」

「……そうでしょうか」


曰く付きの妃候補なのだから、何をされてもされなくてもメイヴィスはすべて納得がいってしまう。


「私から殿下にお伝えしておきます。何か手違いがあったのかも」


ルーナの提案に、メイヴィスは即待ったをかけた。


「それには及びません。殿下にとって妃候補は二人だけ。それだけの話でしょう」


自分だけなぜもらえないのか、などメイヴィスは思わない。王太子妃候補としての素質はないのだし、それなのに認めてほしいだなんてそんな身勝手が許されるはずがない。思いもしない。自分の身の程は理解しているつもりだ。


「しかし……」


ルーナは納得がいっていないようだった。そこまでする義理は彼女にはないのに。


「無理もありませんわ。私は王室に利益をもたらすことができません。置いてもらえるだけでも感謝しきれませんのに、それ以上なんて」

「……わかりました」


メイヴィスがそこまで言うと、ルーナは頷き退室していく。


「たかが装飾品ひとつで一喜一憂できるほど、私は偉くないのよ」


王太子妃に求められるのは、未来の国母としての知性、すなわち教養。全ての貴婦人の手本となることだ。


「何も持たない私が、王妃になんてなれるわけがない」


怒りも悲しみも絶望も、メイヴィスは感じる資格すらない。


「再確認、だわね。自分はやっぱりここにいてはいけない」


それはもう、姉がいなくなり間も無くしてメイヴィス自身に芽生えた諦観であった。



















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