第72話
ウィルグルフが、待っていたイ・サルーテからの錬金術師がやって来たからには、直ぐにバーナース伯爵に引き合わせて……、と行きたいところだが、その前にやる事が幾つかある。
それはイ・サルーテとイルミーラの常識の違いについての、……特に錬金術に関するものは、詳細に説明しておかなければならない。
一般常識なら、他の国からやって来た人だから、知らぬ事もあると、多少の配慮はして貰えるだろう。
だが錬金術に関しては、他所の国の人だからとて、その違いは配慮されない。
錬金術師なのにどうして知らないのかと、ウィルグルフが低く見られる原因になる。
もちろん彼とて、イルミーラの事をある程度は調べて来てる筈だ。
しかし現地以外で得られる知識には、どうしたって欠けがある。
例えば、イルミーラに特有の病として肺根病の存在があり、その治療には木枯らしの香が必要だという事は、恐らくイ・サルーテでもどうにか調べは付く。
でもこの木枯らしの香を、肺根病の治療以外に使うとどうなるかはまでは、イルミーラに来なければ知りようがない。
何故なら悪用されると非常に危険な為、イルミーラが木枯らしの香、及びその材料となる古木喰いの蜥蜴の毒を、非常に厳しく管理していているから。
国外では間違いなく手に入らないし、そもそもどういった物なのかも、あまり知られてはいなかった。
だけどイルミーラで錬金術師をするならば、木枯らしの香や、古木喰いの蜥蜴の毒の扱いを、知らなかったでは済まされない。
イ・サルーテの文献には記されて効果があったからと、大喜びで現物を送ろうとしたりしようものなら、非常に重い罪に問われる。
具体的には、首が飛ぶ。
比喩じゃなくて、実際に、物理的に。
もしイルミーラに錬金術師協会の支部ができれば、他国からの錬金術師も多く訪れるようになる筈だ。
木枯らしの香、及びその材料となる古木喰いの蜥蜴の毒に関しても、悪用すればどうなるかが他国にも知られ、持ち出しを試みる愚か者も出てくるだろう。
それを防ぐ仕組み作りも、予め考えておくべき事である。
まぁ、木枯らしの香や、古木喰いの蜥蜴の毒は頭一つ飛び抜けてるが、大樹海の産物には、他にも危険な物が幾つもあった。
その辺りの知識、或いは常識は、ウィルグルフは早急に頭に入れておかねばならない。
僕のように市井の錬金術師として過ごすなら、ゆっくりと学ぶ暇もあるけれども、彼が置かれる立場はそうじゃないから。
半分は、ウィルグルフが自分でそうなるのだけれど、残る半分は、その役割を押し付けた僕にだって責任はある。
彼に必要な知識を伝えるのは、僕の当然の義務だろう。
「ここがアウロタレアの町で一番大きな錬金術師の店、カータクラ錬金術師店だよ」
イルミーラでの錬金術の知識を知るなら、まずは実際に錬金術師の店を見るのが一番早い。
いや、まぁ、僕のアトリエだって錬金術師の店ではあるけれど、立地も品ぞろえも、あまり一般的とは言い難いし。
その点、カータクラ錬金術師店は規模も大きく、まさにこのアウロタレアを代表する錬金術師の店なので、見せるならここが最も適してた。
「はぁん、これは凄いな。まるで戦の準備でもしてるみたいな量だ。質は、まぁまぁか。これだけの備えが必要なくらい、ここは危険な場所って事かよ」
何より、店主のフーフルも含めて、店員の殆どが僕と顔見知りなので、ウィルグルフの物騒だったり失礼だったりする言葉も、聞かなかった事にしてくれる。
ただ、そんな言葉を吐いてしまうウィルグルフの気持ちも、わからない訳じゃない。
カータクラ錬金術師店に並べられた品々の量を見れば、中央諸国の錬金術師は、……国同士、とまではいかずとも、有力貴族同士の戦争が起こるのかと疑うだろう。
何故なら他に、こんなにも大量のポーション類等、錬金術の道具を必要とされる事が、他にはないから。
「買い手の多くは冒険者だろうけれどね。まぁ、戦ってのは間違いじゃないよ。この国は、大樹海との戦をずっとやってるみたいなものだし。冒険者は、その為の戦力の一つには違いないか」
これでウィルグルフの認識が一つでも変わったなら、連れて来た甲斐は十分にあった。
西の果て、人の手が及ばぬ自然に満ちた、神秘的な秘境と共に在る国って印象は、完全な間違いじゃないけれど、あまり正しくもない。
ここの自然は、イ・サルーテで暮らす人々が想像するような、優しい代物では決してないのだ。
さっきのウィルグルフの言葉通り、戦場に来たと考える方が、より実情には近かった。
氾濫で町が潰されれば、戦う兵士達はもちろん、避難が遅れた住人も、全てが皆殺しにされてしまう。
それは人間同士の戦で起きる略奪よりも、ずっと徹底的な虐殺である。
このアウロタレアだって、あの氾濫の時、序盤に門が開けられて魔物が雪崩れ込んでたら、僕が森の巨人に対処せず、領主が抱える魔術師隊の大規模魔術でも仕留め切れなかったら、……今頃はこの辺りも木々に飲まれて森の中になってたかもしれない。
森の傍らにある前線の町は、常にその脅威に晒されていた。
もしも脅威から逃れたいなら、森に打ち勝ち、木々を切り倒して人の版図を広げ、新たな町を築いて、前線の町の役割を譲り渡すより他にない。
そうすれば新たな町が森に飲まれてしまわない限りは、氾濫の脅威は遠くなる。
欲するならば、まずは勝利せよ。
新たな町が作られれば、安全を求める者は残り、更なる戦いを望む者は、できたばかりの新しい町に移り住む。
イルミーラは、そうやって大きくなったり、逆に小さくなる事もある国だった。
まぁそれも、ウィルグルフはいずれ実感する事になるだろう。
何しろ彼が関わるのは、その脅威の象徴である氾濫の予測なのだ。
前線の町を回り、森を調べて魔力を調査する。
その過程でイルミーラの人々が、いかに氾濫を恐れているかを知り、予測の意義を理解する事になる筈。
「ヴィール、あのポーションが何かわかる?」
他所の錬金術師の店を訪れて、僕のアトリエとの違いが興味を惹くのか、何やら楽し気に辺りを見てるヴィールに、そう問うてみる。
それはイルミーラで開発されたポーションで、イ・サルーテの錬金術師協会にも、レシピの登録はされてるだろうけれど、ウィルグルフが実物を見た事はないと思う。
「あれは……、麻痺のポーション。生き物に振り掛けると体温で揮発して、呼吸で吸入させて麻痺の効果を発生させる。主な対象は魔人種、魔獣種。素材は蒸留酒と、白濁魚の肝、赤血樫の皮、塩。作成は危険なので特に注意が必要。……だよ!」
ヴィールは、以前に僕がこのポーションに関して説明した時の文言を、そのまま記憶から取り出して言葉にした。
僕は完璧に答えた彼の頭に手を伸ばし、撫でる。
何時も通り、ヴィールの記憶力はとても凄い。
説明通り、これはかなり危険なポーションだ。
主な対象は魔人種、魔獣種、つまり魔物を相手に想定されてるけれど、人にだって効果がある。
例えば高名な騎士だって、知らずにこのポーションを浴びてしまい、呼吸で揮発した成分を吸い込めば、すぐに麻痺して動けなくなり、簡単に殺されるだろう。
知っていれば、このポーションに特有の香りを感じた時点で、呼吸を止めて、できれば目も閉じて、二十秒待てば、麻痺の効果は殆ど現れない。
尤も、戦いの最中に二十秒も呼吸を止めて目を閉じていれば、それはそれで途轍もなく危険なのだが。
或いは麻痺の効果が出る前に、回復のポーションを口にするって手もあった。
この場合、一時的に麻痺はしてしまうのだが、回復のポーションで活性化した肉体が、有害な成分を排出する。
どのくらいの時間で麻痺が解けるかは、麻痺のポーションと、回復のポーションの質次第だ。
但し回復のポーションを使った時の常として、体力の消耗は避けられない。
完全に麻痺の効果を排除するなら、再生のポーションが一番だろう。
あれは、肉体が正常だと認識してる状態に問答無用で戻すから、長期間に亘って盛られた毒とか、ゆっくりと異常が現れる病以外は、生きてさえいれば大抵なんとかしてくれる。
「そんな物が、普通に店で売ってるのかよ……」
ウィルグルフは少し引き気味に、そんな言葉を口にした。
あぁ、そういう感想になるのもわかる。
イ・サルーテでは危険物として販売が慎重に制限されそうな品が、ごく普通に店に置かれている状況。
この国に来たばかりの錬金術師なら、怖さを感じて当然だ。
だって、こんなの簡単に犯罪に利用できてしまう。
まぁ、カータクラ錬金術師店が町で一番規模の大きな錬金術師の店だから、こんなポーションまでおいてるだけで、どこの店でも普通に売ってる訳じゃない。
もちろんそれなりの値段はするし、売った相手の記録は取ってる筈だ。
尤も買っていくのが冒険者である以上、魔物を相手に使ってしまったと言えば、横流しも簡単だけれど。
しかしそういった、犯罪に使われてしまう可能性を天秤に掛けても、このポーションの利用価値は高い。
この麻痺のポーションの別名は、大鬼殺し。
森の最外層で活動する、準備の良い慎重な冒険者が、お守り代わりに持ち歩く事があるポーションだ。
僕はその後も、ウィルグルフの常識に罅を入れながら、カータクラ錬金術師店を、それからアウロタレアの町を見て回る。
ヴィールも他所の人間が町の風景に一々驚くのが面白いのか、それとも自分が培養層の外に出たばかりの時を思い出すのか、楽しそうにウィルグルフを観察していた。
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