第29話
ズンッ、と足音を響かせて、森の巨人の歩みが僕を前にして止まる。
ちょっと予想外だったのだけれど、僕はどうやら森の巨人に敵として認識されたらしい。
お陰で先制攻撃が難しくなってしまった。
もしかしたら、先程の人狼を仕留めたせいだろうか?
仮にそうだとしたら、先程の人狼は僕に一矢報いたと言っても良いのかも知れない。
まぁ多分、きっと当人は欠片も嬉しくないだろうけれども。
僕がポシェットの中からそのアイテムを取り出すと同時に、森の巨人は大きく大きく息を吸い込む。
その瞬間、背筋が凍った。
生存本能が全力で警鐘を鳴らす。
何とかしなければ、間違いなく即死すると。
本能に突き動かされるままに投擲したアイテムは、黄色のカラーボール。
僕の投げたカラーボールは、森の巨人が息を吐き出そうとする直前にぶち当たって炸裂し、強烈な閃光を放つ。
思わぬ光に驚いたのか、森の巨人は息を吹きながら首を振って光を払おうとする。
その結果は、凄まじい物だった。
まるで大嵐の最中に居る様な、猛烈な風量が辺りを吹き荒れたのだ。
なのにとても奇妙な事に、森の木々はその風にも少しも影響を受けていない。
これは、そう、木々を傷付けないと言う森の巨人の能力だろう。
その能力がなかったら、巨人の吐息は易々と木々を圧し折って、逆に自らを追い詰めてしまうから。
僕は地面に伏せて何とか耐えたが、それでも全身が冷や汗に濡れている。
もしも目潰しを放つのが遅れていたら、僕は巨人の吐息をまともに浴びて、押し潰されて吹き飛ばされて、グシャグシャの挽肉と化していた。
あまりにスケールが違い過ぎて、駆け引きも様子見もする余裕がない。
森の巨人にまともな攻撃を許せば、僕は即死だ。
生き残りたければ手札を惜しまずに切り続けて常に攻勢を保ち、息が切れる前に森の巨人を殺し切るより他にないだろう。
「地の力、水の力、火の力、風の力、そしてこの身に宿りし吠える魂」
だから僕は、巨人が体勢を立て直す前に、さっそく最初の手札を切ると決めた。
左手を胸に当て、呼吸と鼓動を意識する。
「あらゆる力よ、我が血潮に乗ってこの身を巡れ」
吸って、吐き、吸って、吐き、呼吸を繰り返す度に、僕の心臓は鼓動の早さを増す。
熱い何かが身体中を駆け巡る。
これは右手に術式を描いた爆破の魔術や、両足に術式を描いた暴風の魔術とは違い、外ではなく内に、僕自身に作用する魔術。
その効果は絶大だけれど、それだけに危険と負担も大きな、僕の切り札の一つ。
「
そう、己の肉体の性能を大幅に引き上げる魔術だった。
割と本気で、余程の事がなければ使わない、もとい使いたくない魔術だ。
目を瞬かせながら首を振り、光の残滓を追い払った巨人は、怒りの声をあげて拳を振り被る。
大きな大きなその拳は、例え当たらなくても衝撃で周囲を吹き飛ばした。
小さな人間には逃れようもない、災害規模の攻撃。
ドォンと言う轟音と地響きが、周辺を大きく震わせ、吹き飛ばされた土砂が周囲に降り注ぐ。
それでも木々だけは無傷と言うのが、アンバランスで奇妙な光景を生み出す。
しかしその大きな破壊を行った巨人は、驚愕に顔を引きつらせていた。
彼の拳には大量の白い、粘着性のある糸が絡み付いており、抉れた大地からその手を離さない。
そして僕は、地に付いたままの腕を駆け上り、巨人の顔へと肉薄する。
身体能力を魔術で大幅に引き上げた僕は、拳が降って来るその場に五つの白いカラーボールを残し、大きく飛んで拳を避け、更に木々を足場に中空へ逃げ、衝撃と土砂をやり過ごしてから、巨人の腕へと着地したのだ。
巨人は咄嗟に、人が身体に引っ付いた虫を叩き潰すかの様に、逆の手で腕をバチンと叩くが、やはりそこにも白いカラーボールが残るのみで僕はもう居なかった。
尤も動き回るたびにブチブチと、筋線維が千切れて悲鳴を上げてるから、この動きもそう長くは続かないだろう。
幾らヒュージスパイダーの糸と言えども、巨人の動きを封じる事は不可能だ。
だけど粘つき、簡単には取れない糸は、確実に巨人に嫌気を与えてその意識を僕から逸らしてくれる。
そして間近に迫った巨人の顔に、ありったけの赤のカラーボールをぶつけて、僕はその場を離脱した。
赤いカラーボールの中身は、強烈な刺激物である岩唐辛子の粉。
目に、鼻に、口にと、それぞれそれをぶちまけられた森の巨人の反応は、劇的だった。
声にならぬ悲痛な叫びが、辺りの空気を震わせる。
ヒュージスパイダーの糸を力任せに引き千切って、顔を押さえて崩れる様にしゃがみ込む。
ボロボロと落ちる雨の様な涙。
僕はその様を眺めながら、取り出した回復のポーションを一気に呷る。
無理な動きの連続で、既に身体中の筋肉がボロボロだ。
このタイミングで回復しておかなければ、森の巨人を殺し切る前に身体が限界を迎えるだろう。
さて、下拵えは上々だ。
ここまでは優位に事を運べているけれど、こんな物は森の巨人が我を取り戻して冷静になったら、簡単に吹き飛ぶ程度の物でしかない。
逆に言えば戦いの場で冷静になれない森の巨人は、あまり戦い慣れていないか、或いは余程に人間を舐めていたのだろう。
だから僕はこの優位を保ったまま、早急に森の巨人を殺し切らねばならなかった。
ゴソゴソとポシェットから取り出したるは、どろりとした液体の入った瓶。
これが僕が森の巨人を殺し切る為の、最大の切り札だ。
自然の力を宿す巨人は、基本的には実体のある生物でありながら、その身に宿す自然の力の化身でもある。
例えば火の巨人は、身を浸せる程の水を浴びれば、傷付き弱って、場合によっては死ぬ事さえあった。
これは普通の生物としては実におかしな話だろう。
寧ろ普通の生物は火によって傷付くのが当たり前で、単に水を浴びた所でその身体が傷付きはしない。
要するに火の巨人は、巨大な人でありながら、火としての性質も併せ持つと言う話だ。
半分が人で、半分が火だと考えれば話が早い。
では森の巨人は何の性質を併せ持つかと言えば、ほぼ間違いなく植物だろう。
土や動物、流れる川も森が有する物ではあるけれど、森を構成する最も大きな要素はやはり植物だ。
森の巨人の攻撃が、土やら何やらは吹き飛ばしても、木々だけは傷付けないのが何よりの証拠である。
勿論、僕には森の全てを殺す事なんて、到底出来やしないだろう。
けれども、ただ一本の巨大な木を枯らし殺す事位は、実はとっても容易い。
森の巨人は左手で目や鼻を押さえて痛みをこらえながら、右手の平をバチンバチンと地に叩きつけて、見えぬままにも僕を殺そうと怒りを振り撒いてた。
そこにはもう、森の化身の威厳なんて欠片も残ってないけれど、でもその破壊行為は巻き込まれれば即死するだろう、大きな嵐だ。
だけど僕は、敢えてその嵐の中に自ら突っ込む。
闇雲に暴れるだけの今しか、この化け物、森の巨人を仕留めるチャンスは存在しない。
地に叩きつけられた手の甲に飛び乗って、もう一度巨人の肩まで全力で駆け上がる。
未だ目は見えずとも、皮膚の感覚で僕が飛び乗った事を察したのだろう。
その大きな顔はハッキリと僕の方を向いていた。
勿論、その唇を腫らした大きな口も。
僕は瓶の栓を引っこ抜きながら、その半開きの口に目掛けて、全力で飛び込む。
瓶の中身を少し撒き散らしながら、歯を蹴って、舌を避けて強引に喉の奥へ。
しかし目指す場所は胃じゃなくて、肺。
閉じようとする喉頭蓋を無理矢理抉じ開け、強引に狭い気管に滑り込んで落ちる。
本来なら僕の力なんかじゃ到底こんな真似は出来ないのだが、瓶の中身を少し振りかけるだけで、森の巨人の身体は力を失う。
そう、この瓶の中身は、森の巨人を殺す毒だ。
より正確に言うなら、植物としての森の巨人を殺す猛毒である。
ほんの僅かな量で、巨大な大木をも枯らしてしまう、植物にとっての猛毒。
それは大樹海の間引き役である、古木喰いの蜥蜴が分泌する毒だった。
この毒の所持に関してはイルミーラの法が少しばかり五月蠅いけれども、マジックバッグの奥底に仕舞っていれば余剰在庫は隠し通せる。
以前にエイローヒ神殿の孤児、サーシャを助けた時に使ったこの毒が残っていたのは、もしかすると女神エイローヒがあの時の行いを評価してくれたからかも知れない。
右肺と左肺に向かう気管の分かれ道で僕は止まり、その両方に向かって瓶の中身を撒き散らす。
実際の所は、古木喰いの蜥蜴も大樹海の一員であるから、その毒が森の巨人に効くかどうかは若干の賭けだった。
もし仮に、十に一つか二つ位の確率で、この毒が効かなかった場合は、大分無茶をしなければならなかっただろう。
いやまぁ、今の行動自体が既に些かの無茶ではあるけれども。
肺から血中に入り込んだ古木喰いの蜥蜴の毒は、全身を巡って森の巨人を苦しめ弱らせる。
だけど僕は、森の巨人が苦しみ抜いて死ぬのを待つ心算はない。
植物として枯れたからと言って、巨人が生物として死ぬとは決して限らないから、今は弱ってくれれば十分だ。
僕が気管を通ってこの場所に降りて来た理由は、一つは毒を効果的に全身に巡らせる為。
そしてもう一つは、気管がここで二つに分かれる理由は、左右の肺に入る為であり、すぐ傍の心臓を避ける為であるから。
要するにそう、この場所は森の巨人の命にとても近しい場所なのだ。
自然の力を宿す巨人は、自然現象としての弱点を持ちながら、人としての急所も持つ。
そんな風に考えると、とても殺し易い化け物だったのかも知れない。
だから僕は炎銅の剣を引き抜いて、足元に突き立て切り開く。
そう言えば、そう、木々が苦手とする物には、炎もその一つとして含まれている。
枯れて瑞々しさを失ってしまったなら、特に。
僕が巨人の命を奪う事に成功したのは、それから間もなくの事だった。
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