ひたすら読者の予想を超えようと躍起になっている探偵

てこ/ひかり

壁抜け

 ガチャリ。


 ……と物々しい音がして、寝室に夫が入ってくる気配がした。

もう一度、ガチャリ。

アメリカ育ちで、神経質気味な彼は、結婚当初から寝室に二つ鍵を付けると言って聞かなかった。子供の頃、家にショットガンを持った強盗が押し入ったことがあるのだと言う。おかげで我が家には古今東西ありとあらゆる防犯グッズが揃っていた。いちいち部屋を移動するにもブザーを切らねばならず、当初は煩わしく思っていた政子だったが、それも二十年も経ってしまえば慣れっこになってしまった。


 最後に静かにボタンを押す音がして、仄かな橙色の室内灯が落とされる。布団に横になって読書をしていた政子は、諦めて文庫本を閉じた。真っ暗になった部屋の中、二十年前よりも一回り、いや二回り巨大化した腹を揺すり、夫がのそりと横に滑り込んでくるのが分かった。


「おやすみなさい」

「……おやすみ」


 ルーティーンになっている夜の挨拶を交わし、それから二人並んで眠りにつく。それ以上の会話も、進展も、もう数年前から無い。いつもと変わらない、二人の日常だった。その日、政子は文庫本の続きを夢に見た。読んでいたのは海外の名もなきミステリー小説だった。辺り一面に広がる血の海。無惨にも刃物を突き刺された死体。閉ざされた部屋の中、ナイフを手に取った男が高笑いを決め込みながら、壁の中へとスーッとその姿を溶かしていく……。


 ……目が覚めると、夢の内容はすっかり忘れてしまった。暗がりの中、政子は目を泳がせた。全身にびっしょりと嫌な汗を掻いていた。呼吸が荒く、心臓が生まれたばかりの子猫のように暴れ回っている。


「はぁ……はぁ……」


 横で寝ている夫を起こさないようにと、そろそろと上半身を起こしたその時、彼女は異変に気がついた。


 ……何だか妙な臭いがする。


 鼻の奥をツンと突く、鉄が饐えたような臭い。と、指先にヌルッとした感触を感じ、政子は悲鳴を上げて手を引っ込めた。


「何……何!?」


 やがて暗がりの中で、は徐々に輪郭を露わにした。


 それは、死体だった。


 二十年間連れ添った、さっきまで横に寝ていた夫の死体。夫はカッと見開いた瞳で天井を睨み、まるで獣が咆哮するかのように、大きく口を開けていた。唇の端から一筋の赤黒い線が零れ落ちている。先ほど政子が触れたのは、夫の流血に違いなかった。

「ひ……っ!?」

 その胸に、心臓の辺りに、真っ直ぐに包丁が突き刺さっている。政子は仰け反るようにして布団から飛び起き……腰が抜けて、上手く立ち上がれない……四つん這いのまま扉へと這って向かった。


 部屋の中に女の悲鳴が谺した。それが自分の声だと理解するまでに、数秒かかった。

「ひぃぃぃっ!? ひぃぃぃい……っ!?」

 必死の思いで扉に手をかける。だが、開かなかった。そうだ。鍵だ。夫が寝る前、二つとも閉じたではないか。半ばパニックになりながら、ガチャガチャと何度もつまみ部分サムターンを回す。


 政子がようやく部屋の外に出られたのは、発見から数分が経過した後だった。


♦︎


「いやぁ、全く。参ったよ」


 温くなったコーヒーに口をつけながら、警視庁捜査一課の市井は渋い顔をした。ブラックコーヒーは苦手だった。砂糖とかミルクとか、とにかく甘くないと舌が受け付けない。


「相変わらず難事件を抱えているようだね、苺刑事」

「そのあだ名はやめてくれ」


 面白そうに笑う目の前の男に、市井は煙たそうに手を振った。男の名は深井長政。大学時代の彼の同級生で、同じラグビー部で汗を流していた。卒業後、二人は共に警察官に……だが深井はとある事件をきっかけに警察を退職し、今では小説家の真似事をしている。本人はミステリー作家志望らしいが、いまだにデビューできていないところを見るに、どうやら文才の方はなかったらしい。


「悪いけど事件の詳細は話せない」

「まだ何も言ってないじゃないか」

「ネタにされたら困るからな」

「ネタになんかしないよ。むしろ、だから困ってるんじゃないか。現実世界で次々と奇想天外な事件が起きるもんだから。これじゃどんな物語も霞んでしまうよ」

「新しいの、書けたのか?」

「いや」

 深井は一寸疲れた顔をして苦笑した。


「どこかで見たようなハナシだと、どうも納得行かなくてね。既にトリックは出尽くしているという人もいるが……どうせ書くなら読者の想像を遥かに超えるような、誰も見たことのないようなモノが書きたい。読んでる人を『あっ!?』っと言わせたいじゃないか」

「フゥン」

「だから……ね。現実の事件をネタにするような真似はしないよ」


 深井が興味津々と言った具合に身を乗り出してきた。市井とて、元警察官の彼が秘密を守る男だと言うのは分かっている。今までも座礁に乗り出した事件を何度か相談したことはある。それで、市井は渋々話し始めた。本当は早く話してしまいたかったが、と言うのが大事なのだ。なぜ大事なのかと言われると、上手く説明できなかったが。


「しかし……いくらミステリー作家といえど、この事件は解けないだろうよ」

「随分と挑発的だね」


 コーヒーのおかわりが運ばれてきた。二人の間にゆらゆらと白い湯気が立ち込める。それから市井はゆっくりと、この間都内で起きた『密室殺人』のあらましを説明し始めた。


♦︎

 

「なるほど……じゃあ、警察は奥さんが犯人だとは思っていないんだな?」

「嗚呼」


 カップを置き、市井は肩をすくめた。すでにおかわりは三杯目になっている。窓の外は、夕ご飯の買い物をする客で賑わっていた。


「奥さんには動機がない。夫婦仲はこのコーヒーのように……とは行かないが、特に悪くもなかった」

「だけど、被害者が死んだ時、一緒に部屋の中にいたんだろう?」

「だからこそ、だよ」市井は笑った。

「それじゃ自分が犯人ですと言っているようなものじゃないか。君の小説には、そんな犯人が出てくるのか?」

「なるほど、確かにそれじゃ小説にしても、出来の悪いギャグにしかならないな」

「確かに衝動的な殺人とも言い切れない。だけどな、それ以上に、他に容疑者がいるんだよ」

「ほう」笑っていた深井が目を光らせた。


「被害者の息子さ。成人してるんだが、実家暮らしで父母と三人で同じ家に住んでいた。事件当時は、まさに殺害現場の隣で寝ていたようだ。この息子が被害者と度々言い争っているのを、近所の人たちも目撃している。調べると、以前息子がギャンブルで作った借金を父親が肩代わりしていたみたいで、それでトラブルが絶えなかったらしい」

「息子は息子で、そんな父親を疎ましく思い殺害に至った……と言うわけか。奥さんが犯人説よりは現実味がありそうだな」

「父親には毎日金をせびっていたようだな。そんな事で殺されたら浮かばれないが……」

「どんな事で殺されても浮かばれる人なんていないさ。まぁいい。息子が犯人だとして、しかし部屋には内側から鍵がかかっていた訳だろう?」

「そうだ。外から開ける鍵はなかった」

「それも二重に、だ。さらには横に母親も寝ているというオマケ付き」 


 市井はため息をついた。

「だから困ってるんじゃないか。も一つ言うと、凶器は胸に刺さった包丁だ。そんなものを刺したら、いくら寝ていたって呻き声くらいあげるだろう。奥さんが隣で寝ているのに、そんな凶行に気づかないとも思えない。しかし死亡推定時刻は、彼女の発見時刻とピタリと重なるんだ」

「犯人が密室に侵入して刺したとしか思えない……か。寝室の間取りはどうなってる?」

「二階にある寝室には入口が一つ。二つの鍵がかかってる。小さな窓が東向きに一つあるが、こちらは建て付けが悪く、約一年前からずっとのままだ。網戸も閉まってるし、外部の人間がここから侵入できたとは到底思えない。家の周りにはたくさんの防犯グッズがあって、侵入者がいたらすぐに分かる仕組みだ」

「ふぅむ。凶器が包丁じゃなく、たとえば毒殺だったらな」深井が残念そうに唸った。


「事前に夕食のワインに仕込んでおくとか。多少古いが、毒蛇や毒蜘蛛を使うと言う手もある。あらかじめ毒虫が好みそうなフェロモンを被害者に塗しておいてだな……」

「毒は検出されなかった」

「あるいは携帯電話を使ったトリックなんてどうだろう?」深井が目を輝かせた。


「被害者は心臓が弱かったんだ。それで、ペースメーカーを使っていた。犯人はそれを知っていて、わざと電話を鳴らし、ペースメーカーを乱したんだ」

「被害者の心臓は弱くなかったし、ペースメーカーも使っていない」

「あらかじめ刃物を括り付けた小型ドローンを部屋に忍ばせておき……」

「却下。部屋には奥さんがいて、消灯までずっと読書を続けていた。そんなものを隠しておくスペースはないし、第一、現行のドローンはプロペラとモーターを使ったものがほとんどだ。電話にしろ、ドローンにしろ、そんな至近距離ならさすがに目を覚ますだろう」

「奥さんには睡眠薬を飲ませておく、とか」

「だから、毒は検出されなかったんだよ。奥さんからも。息子からも。ついでにドアノブからもだ。部屋の中の、触りそうなところに毒を塗っておいて、被害者だけが毒殺される……なんてありふれたトリックも、ボツだ。毒殺じゃない。凶器は包丁だって言ってるだろ」

「中々手厳しいな。ボツばっかりだ。毒殺もダメ、電話の遠隔操作もダメ。何だかネタ潰しにあってる気分だ」

「もうネタ切れか? 作家先生」

「コーヒーお持ちしました」と、これはウェイトレス。


 もう何度目かの真新しい熱が二人の手元に届けられた。冷めやらぬうちに、若き警察官が視線を送ると、作家先生の方は片眉を上げてみせた。


「まさか。もっとミステリ風に、怪奇に行こう。これはどうだ。『実は部屋の中に犯人が潜んでいた』」

「というと?」

「そのままだよ。ベッドの下なんかに、こっそり刃物を持った犯人が隠れていたんだ。それから二人が寝静まった後、凶行に及び……」

「……その後どうやって逃げる? 鍵のかかった部屋から。まさか壁をすり抜けたとでも言うのか? 妖怪じゃあるまいし」

「逃げずにそのままベッドの下に潜り込んだら?」

 深井がニヤリと笑った。


「奥さんが死体を発見するのを待って、頃合いを見て逃げ出したのさ。鍵を開けたのは奥さんだ。これで密室の出来上がりだ。さて、と。今夜は焼肉で良いぜ。君の奢りだろう?」

「待ってくれ。楽しみにしているところ悪いが……」

 市井は残念そうに頭を振った。 


「そのトリックは成り立たない。二人はベッドではなく、敷布団で寝ていた。下には隠れられない」

「何だと……?」

「クローゼットもタンスも無い。人やドローンが隠れる場所は何一つなかったんだ」

「むぅ……」

「どうやらお手上げのようだな。つまり今夜は君の奢りって訳だ」

「何でだよ。待ってくれ」


 深井がコーヒーの残りを一気に啜った。


「分かったぞ。じゃあ、最初に入ってきた夫が、実はなりすましだったんだ」

「聞こうか」むせ返りながら、深井が話し始めた。

「息子だったんだよ。奥さんが部屋に入ってきたと思っていたのは、実は息子だったんだ。彼は父親になりすまし部屋に侵入した」

「だけど、奥さんに返事はしたんだぜ。『おやすみ』ってな」

「そんなもの今時録音で何とでもなる」

 深井が肩をすくめた。


「元々家族な訳だし、背格好を似せるのも簡単だろう。顔を見られないようにして、部屋の電気をさっさと消してしまえば気づかないんじゃないか」

「なるほど。父親に化けて息子は寝室に侵入した。それで?」

「それで、息子はこっそり部屋を抜け出した後、別の場所で父親を殺害した! 奥さんに断末魔が聞こえなかったのはそのためだ。それから息子は父親の死体を運び……」

「君はしかし、一番の謎を解いていない」

 市井はカップを置いた。やはり甘いものが欲しくなる。妙なあだ名で揶揄われるから、できるだけ自重してはいるが……。


「鍵はどうする? 入るのはそれで良いとして、それからどうやって部屋から出たんだ?」

「フフン。壁をすり抜けたんだろう」

「なにっ」


♦︎


「どうやって? 奇術でも使ったのか?」

「そんな大それたもんじゃない。犯人は……息子は死体を部屋に運んだ。ここまでは良いか?」

「嗚呼」

「それからだな……そう、息子は扉から部屋を出た」

「鍵は?」

「鍵はかけずに、だ」

「何だと?」

 深井がニヤリと笑った。


「ありえない! 奥さんは、確かに鍵がかかっているのを確認しているんだぞ」

「そこだよ。本当は鍵がかかっているのじゃなく、向こう側から息子が押さえつけていただけだとしたら?」

「何……?」

「ドアノブを回しても扉が開かない。奥さんは当然、鍵がかかってるから開かないと思いこむ。擬似密室だね。ガムテープや接着剤で固定してしまう方法もあるが……証拠を残さないためにも、それが一番だろう。息子は隣の部屋に逃げ込むだけで良いんだから。数秒あれば済む。暗闇の中、ガチャガチャつまみ部分サムターンを回しているうちに、本当に閉まってしまったんじゃないかな。それが密室の……壁抜けの正体だ」

「なるほど……しかし、電気をつけて奥さんに鍵部分を確認されたら? 実は鍵がかかっていないことが一目でバレてしまう」

「ふむ。死体が隣で寝ている訳だから、気づかないはずはないと思うが……念のため電気経路をあらかじめ壊していたかもな。もしかしたら、そのセンで証拠が見つかるかもしれない」

「調べてみるよ」

 市井は慌てて席を立った。深井は残りのコーヒーを哀しそうに啜った。


「今回もだいぶネタを潰してしまった……また書き直しだ」

「もっと気楽に考えたらどうだい? いっそギャグに振り切ってみるとか」

「考えてみるよ」


 深井は疲れた顔で苦笑いを浮かべて、颯爽と出ていく市井の後ろ姿を見送った。


《完》

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