第8話 根性の人

「……」

 私は現在、夫婦の寝室のソファーに腰掛けたまま、これから現れる予定のルークを待っていた。

 ろくな働きをしない自分の頭を殴りつけたかった。

 ド近眼であることと巻き爪の隠蔽に勤しむことに神経を注ぐあまり、当然考えるべき初夜のことなど全く考えてもいなかったのである。

 もちろんどうすべきかなどは分かっている。

 分かってはいるのだが、今日一日ずっと外面をカバーすることに全力を注いでいた。つまりは戦闘状態だったのである。無事に過ごせてホッとしたのもつかの間、今度はずっと好きだったルークの妻になったのだから、思いっきり愛情アピールしていい時間だよ、となっても気持ちの切り替えが難しいのである。

 初恋の人が幼い頃に出会った頃から別人のように成長していて、驚くほど逞しい美丈夫に変貌していて、声は低くなったけれど相変わらず優しい話し方は変わらない。

「エマ」

 と耳に心地良い声で呼び掛けられるたびに、頭に血が上って心臓がバクバクとすごい音を立てているように感じる。感動で地団駄を踏みたくなるほどテンションが上がる。

 だが手紙で愛を育てた……というか大きく膨れ上がらせたのは間違いなく私の方である。

 緊張と興奮のあまり、

「ひゃいっ!」

 などと返事をしないよう、物静かに落ち着いた女性を演じる努力もして来た。

 彼から見たら自分より年上の女が十代の若い女性のように振る舞うなど、気持ち悪いだろうし煩わしいだろう。

 だが大人を演じるべき私はラングフォード王国に来てからというもの、

「なんて美声! なんて抱き着きがいのありそうな背中! なんて惚れ惚れするような整った顔立ちに成長してしまったのかしら! エスコート一つとっても完璧よ完璧! 大人になって失望するなんて恋愛には良くあることらしいけれど、こんなにプラスになるってあり得るかしら? いえきっと元から彼が素晴らしいのね! ねえこんな素敵すぎる彼の妻になって本当にいいのかしら私?」

 とベティーにバタバタしながら思いのたけをぶちまけるような危ない女と化している。

 何と言っても手紙だけのやり取りで長年離れていた彼にようやく会えたのである。

 興奮冷めやらぬ私の気持ちも分かって欲しい。

 顔を合わせる時には常ににやけそうな顔を引き締めるのに必死で、食事時の会話ですら最低限の応答しか出来ない状態だ。

 いや、もしかしたら私が隠れてコソコソ観察する視線に気づかれていたかも知れない。溢れがちな思いには気をつけねば。

 ただでさえ色々問題がある私なのだ。

 さらに性質までが変態じみているなどとルークに思われたら生きて行く自信がない。

 ──よし。今夜は平常心、平常心で行くのよエマ。感情は抑えるのよ。

 そう心に決めた時、扉からノックの音がした。

「入っていいかいエマ?」

「……どうぞ」

 声を聞いた途端さっきの決意が消し飛び、何とか返事を返すが慌てて立ち上がった瞬間に爪先をテーブルの脚に思いっきり強打した。

(ぐっっっっ!)

 痛みが脳内を駆け巡るような気がして、耳がキーンと鳴った。

 ルークが入って来たことで叫ぶことだけは何とか堪えたものの、痛みを我慢することで体中が熱くなり、変な汗まで出て来る。

 立ち上がったまま動かない私を見て、ルークが心配そうに声を掛けて来る。

「顔色が悪いけど、まだ疲れているのかな?」

「い、いえ」

「さあ無理しないで座っておくれ。今夜はエマに話したいことがあるんだ」

 彼は私を促すようにソファーに座らせると、自分も向かい側に腰を下ろした。

 ……助かった。正直言って今の私には歩くことすらままならないほどの痛みに泣きそうである。

「──私たちは、結婚式を迎えるまで会ったことは少なかったよね? 手紙でのやり取りは引き出し二つを占領するほどで、自分としては充分すぎる位だったと感じているけれど」

「え、ええ。それが……?」

 私は話の流れが読めず不安になる。

 ルークは私の顔を見て、笑みを浮かべる。眩しい。

「だからずっと身近にいなかった分、物理的な距離が足りてないと思うんだ。私は君が妻になるのをとても嬉しく思っていたし、今でもそう思っているけれど、お互いに……遠慮があると言うか、歩み寄る必要があるんじゃないかと思うんだ」

「歩み寄り……」

「そう。手紙で人となりは知っていても、実際に近くで接してないことも多かっただろう? 君が思い込んでいるだけで実際はそうじゃないってこともあるだろうし、逆もあるだろう。お互いに良く分かり合ってから夫婦の契りを交わしてもいいんじゃないかと思うんだ」

「ええと……それは……」

 自分でも分かるぐらい動揺した。

 もしや私が年甲斐もなく浮かれている変態であることが気づかれたのだろうか。

「あ、ごめん言葉が足りなくて。今は久しぶりに会ったからお互い距離感も分からないだろうし、エマも家族と離れて他国に嫁いで来たんだ。寂しさや緊張もなかなか抜けないと思う。だから私はもっと気軽に言葉が交わせるようになって、エマが昔みたいに、気取らない会話が出来るぐらいこの国に馴染んでくれてから……その……自然な形で閨を共にしたいと考えているんだ」

 ただ夫婦の寝室を使わずにいたら新婚早々で不仲を疑われかねないし、君も居心地が悪いだろうから、自分はここに入ってからそのまま執務室に通じる扉から出るようにする、と。

「仕事が片付かない時に仮眠できるようなベッドは以前から置いてあるんだ。だから君はこのまま夫婦の寝室を使ってくれればいい」

「いえでもそんな訳には行きませんわ! 寝心地だってお悪いでしょう?」

「私はどこでも快適にすぐ眠れる人間なんだ。──ほら、こういうことも新しい知識だろう?」

 ふふっと笑うと、ルークは真顔になった。

「エマ、このことは変に負担に思わないで欲しいんだ。私たちはゆっくりと夫婦になろうよ」

 慌てる私の肩にそっと手を置くと、立ち上がった彼はそのまま執務室へ抜ける扉から出て行った。


「……」

 ルークは私が緊張しっぱなしだったことに気づいていたのだろう。

 私の変態がバレてしまって嫌われたということでも諸事情を知られた訳でもなさそうだ。

 私の態度をぎこちなく感じたのは、この国に家族と別れてやって来たことでの緊張ではなく、諸事情の隠蔽工作のためであり、ルークへの思いを表に出すと、「落ち着いた優雅で上品な美貌の姫」という仮面がばりんばりん割れてしまい、「見た目は良くても王子への執着を拗らせた危ない姫」という正体が露わになってしまうからだ。

 ……だが私もそこで理解した。

 人気のある舞台俳優のファンは、握手をしてもらっただけで失神することもあると言う。普段交わることがない関係だからこそ感動も人一倍なのだそうだ。

 彼と私の間柄も現在はそれに近いのではないか。

 ここまでルークへの耐性が低いのは、手紙だけで会っていない期間が長すぎたからだ。

 身近にいなかった大好きな人が近くでウロチョロしている。下手すれば触り放題だ。

 そんな夢のような時間をいきなり提供されて、心が許容範囲を越えているというのが正しい判断なのだろう。だから私は現在変態のような状態なのだ。

 いや変態を正当化してもしょうがないが、状況が変化すれば私は変態ではなくなるはずだ。

 私は慣れねばならない。

 彼がいる空間に。

 そしてもっと気安く会話出来るような、以前のような私にならなくては。

「それにしても……」

 私を気遣ってくれる優しさを改めて思い、なんていい男なのかしら、と思わず呟き掛けたところで足の痛みがぶり返した。

 そうっと室内履きを脱ぐと、案の定流血している。

 私は這うような速度でじりじりと移動し、ベティーを呼ぶためベルを鳴らした。

 王太子妃としてのスタートはまだ始まったばかりで、早々から問題まみれである。

 でも何が何でも幸せな夫婦生活を送って見せるわ。

 私は根性の人、エマ・ウェブスターなのである。




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