ファインダー越しの背中
川辺 せい
ファインダー越しの背中
高校二年生の夏休み。所属している写真部は、箱根へ一泊二日の撮影旅行へ出かけることになった。風景を撮るもよし、人を撮るもよし。自由に撮影をして、夏休み明けに学内展示を行うことになっている。
三年生の先輩方はこの旅行をもって引退する。佐良先輩と過ごせる時間は残り少ない。写真部はもともと小規模で、今回の旅行に参加するのも六人。二年生の女子部員は私だけで、一年生は不参加。
「箱根、たのしみですね」
「うん。芦ノ湖、綺麗だろうな」
「佐良先輩は、何を撮るんですか?」
「まだ秘密」
先輩の私服姿は新鮮。チャコールグレーの開襟シャツに、品のいい黒のスラックスを合わせている。動きやすいようにみんなパンツスタイルで、足元はスニーカー。私も例に倣って、ネイビーのシアートップスに黒のワイドパンツを合わせた。細かいプリーツが入っているこのパンツはお気に入り。写真部の私服は黒率が高い。構図のためならワイルドな姿勢にもなるので、間違っても白い服は着られないのだ。
私たちは学校の最寄駅で集合してから電車を乗り継いで、箱根湯本で蕎麦を食べることにした。テーブル席は四人掛けしか空いていなかったので、ふたりだけカウンター席。先輩方には団欒の時間を楽しんでほしい。率先してカウンター席へ向かうと、佐良先輩がこちらへ向かってくる。
「佐良先輩、テーブルじゃなくていいんですか?」
「せっかくだから、静かに食べようかと思って」
佐良先輩は、同級生がいない私に気を遣ってくれている。いつだって、そうだった。カウンター席で隣並んだ肩が触れ合ってしまいそうで緊張する。左利きの佐良先輩は、いつも人の左側に座った。部室で過ごした日々のことを思う。先輩はよく私の左隣に腰掛けて、カメラの扱い方や編集ソフトの使い方を教えてくれた。
「蕎麦、冷たくてすごくおいしかったですね」
「うん。自然薯が食べられる機会は貴重だったな」
夏に食べる蕎麦はいちだんと喉ごしがよくて清涼だった。ここからは箱根登山鉄道に乗り、強羅から早雲山までは箱根登山ケーブルカー。そこからロープウェイに乗り換え大涌谷を経由し、桃源台で降りたら芦ノ湖まで、という計画。電車を撮りたい人もいれば風景を撮りたい人もいるから、乗り換え地点では自由時間が設けられている。
私は箱根湯本駅のホームでフィルム一眼を構えて、朱色のレトロな車両を写真に収めた。カシャ、と背後でシャッター音が響いて振り向くと、そこにはカメラを構えた佐良先輩が立っている。見慣れたその姿勢も、背景が違えば新鮮に映った。
「電車撮ってる綾瀬、激写」
「私が入っちゃって、いいんですか?」
「オフショットを任されてるからね。綾瀬の後ろ姿からは、写真に対する真剣さが伝わるよ」
佐良先輩は、人をよく見ている。同級生からも後輩からも好かれる理想の先輩。写真の腕もピカイチで、彼が撮る写真にはたくさんのことを学んだ。同じメーカーのフィルム一眼を使っていることがわかったときは、かなり舞い上がってしまったのを覚えている。
「登山鉄道、初めて乗るな」
「私もです。ちょっとどきどきしますね」
登山鉄道に乗り込んだ私たちは、車窓を流れゆく景色を眺めた。夏の緑がきらきらと目に眩しい。ときおり覗く空は快晴で、私たちが住んでいる地域よりも鮮やかな青に見えた。登山鉄道の車内は、旅行客でぱんぱん。
「わっ……」
「お、大丈夫?」
電車が揺れてよろけてしまった私の腕を、佐良先輩が掴む。途端に顔が熱くなって、「大丈夫です、すみません」と謝った。佐良先輩は、誰にでもやさしい。そのやさしさに毎度たじろいでいる身としては、誰にでもやさしい人はずるい、と思う。
「夏は、景色が眩しいですね」
「うん。フィルムで撮るには絶好の光だ」
「佐良先輩の写真、たのしみにしてます」
先輩は、一般公募の写真コンテストでもたびたび入賞している。進学先は芸大の写真学科らしい。つくづく遠い、雲の上の存在。こうして会話をできていること自体が夢のような、遠くて眩しい、あこがれの人。はじめて先輩の写真を目にしたそのときから、佐良先輩の写真をいちばん好いているのは私だって信じている。先輩の写真には、人にそう思わせる力があるのだ。登山鉄道は、じぐざぐ走行で山を登っていく。
次は強羅、強羅。車掌さんのアナウンスを聞きながら、もう終点かとちょっと名残惜しい気持ちになった。旅の準備をしている間は楽しみで仕方がなかったのに、先輩に会ってしまってからはずっとさみしい。まだ終わらないのに、もう終わってしまうような気がする。残り時間ばかりを考えて、私よりも早く卒業式を迎える彼の姿を想像した。
「綾瀬?」
「は、はい」
「体調悪い?」
「いえ、元気です!」
「そっか、無理しないようにね。降りるよ」
「はい!!」
こんなことが、私が入部したころにもあったっけ。あのころよりも髪が伸びた先輩はさらさらの黒髪をセンター分けにしている。涼しげな目元がよく見えるからありがたい。私たちは登山鉄道を降りて、強羅駅のホームに降り立った。強い陽射しを受けて煌めく枝葉が目に眩しい。ここはもう山の中。
「山だね~!綾瀬ちゃん!」
「山ですね!」
溌剌とした声で私に話しかけてきたのは美由先輩。今回の旅行に参加した女子部員は、私と美由先輩ふたりだけ。美由先輩は佐良先輩の幼なじみだということを、最近風の噂で知った。
「あたしは人を撮りたいんだけどさ~、なんていうんだろね、こう、イメージ通りの被写体がいなくって」
「佐良先輩に頼んだらどうですか?」
「いやいや、あいつはアンニュイすぎる。もっとパキッとした感じがいいのよ」
「パキッとした感じ……」
たしかに美由先輩の作風は鮮やかで明るいし、佐良先輩はちょっと物憂げというか、柔いイメージがあるけれど。人を撮るのは難しそうだなと思いながら、私は山の一部を切り取る。青空と緑のコントラストは、美術館でみたルノワールの絵画を彷彿とさせた。程なくしてホームに滑り込んできたケーブルカーは一号車だ。鉛色と朱色のツートンで、その狭間にはゴールドのラインが入っている。二号車は青いらしい。私はいちばん後ろの席に座って、景色を眺めることにした。
「綾瀬、特等席だな」
「わ、佐良先輩」
「隣いい?」
「どうぞどうぞ」
空いていた隣に腰掛けた先輩。同じ視点からこの景色を見られるのは、きっと最初で最後。私は、先輩の隣にいられるだけで嬉しかった。早雲山駅には、あっという間に着いてしまう。ここから桃源台まではロープウェイ。観覧車やゴンドラの類が苦手だから、ロープウェイに乗るのもちょっと怖い。
「綾瀬って、高いところ苦手だったよね」
「あ、はい……苦手です」
「外は見ないほうがいいかもな」
「真下だけは見ないようにします」
高いところが苦手、なんて些細な話を覚えていてくれたことに内心にやける。ロープウェイが動き出すと、真夏の鮮やかな緑が眼下に広がった。揺れるのは怖いけれど、景色に集中していればなんとか耐えられそう。経由地点の大涌谷は、標高千メートル以上らしい。十分ほどで大涌谷について、桃源台行きに乗り換える。大涌谷の景色は壮観で、白煙がもくもくと立ちのぼる様は圧巻だった。
「この白い煙って、なんなんでしょう」
「硫気と水蒸気かな。大涌谷は、箱根火山の水蒸気爆発でできた山崩れの跡らしいよ」
「なるほど。佐良先輩は、博識ですね」
「いや、大涌谷を写した写真を見たことがあってね。そのとき色々調べただけだよ」
長いまつ毛が、色白な肌に影を落とす。伏し目がちな薄い瞼はいつもミステリアスで、なにを考えているのかいくら想像しても近づけない。私たちは桃源台行きのロープウェイに乗り換えて、芦ノ湖に到着した。
「ここからは自由行動ね! 十八時に再集合! 解散!」
部長の声を皮切りに、それぞれ撮りたいものがある場所へ散ってゆく。私はいつも行き当たりばったりだから、ちょっとぶらぶらして撮ることにした。美由先輩が佐良先輩と話している姿をぼんやり眺めながら、構図はどうしようかと考える。
「最後なんだし、あたしのこと一枚くらい撮ってよ」
そっか。三年生の先輩方と一緒に写真を撮れるのは、本当に最後なんだ。そういえば、佐良先輩が作品として人を撮るところは見たことがない。美由先輩を被写体にしたら、すごくいい写真が撮れそうなのに。
「いや、もう決めてるから」
「え、なにを?」
「いずれわかるよ」
やっぱり今回も、人は撮らないのかな。私は芦ノ湖の水面を眺めながら、一歩、二歩、と歩み始める。富士山と芦ノ湖。どう撮れば、ありきたりな風景写真ではない、ちょっと絵画っぽくて抽象的な画が撮れるだろうか。陽が射している間に写真を撮りたい。とくに夕暮れ前の、このうすい黄色が混ざった神々しい光を写したい。ストロボを焚いて撮る写真は私が求めている色ではないから、急がなければ。
私は、湖の上をゆっくりと進む白い遊覧船にカメラを向けた。淡い水色の空と藍色の水面に白い船。なかなかいい構図。絞りとシャッタースピードを調節して、ピントを合わせる。シャッターを切って、肉眼でもういちどその景色を眺めた。綺麗に写っているといいな、と思いながら深く息を吸い込む。自然が豊かな土地の空気は、すっきりとしていておいしい。
「綾瀬」
背後から、聞き馴染んだ低い声が響いた。振り向けば、そこにはフィルム一眼を構えた佐良先輩。カシャ、とシャッター音が響いて、微笑んだ彼と目が合う。
「私、いま、すごく変な顔を」
「いや、いい写真が撮れたと思うよ」
「びっくりしました……」
「ごめん、あんまり綺麗でさ」
私に歩み寄った先輩は隣に並んで、すぅっと息を吸い込んだ。先輩の綺麗な瞳に、湖が写る。この瞬間をフィルムに焼き付けておけたらいいのに。いまだ!って思う瞬間ほど、写真には残すことができない。
「綾瀬」
「はい」
「僕の被写体になってくれないかな」
こちらを向いた佐良先輩が、真剣な表情をして私を眼差す。私は言葉の意味が理解できなくて、「え」と声を漏らしたきり、十センチ以上高いところにある先輩の顔を見上げるばかり。
「綾瀬を、撮りたい」
「私を、ですか?」
「うん。だめかな」
「いえ、あの、私でよければ」
「ありがとう。箱根神社で撮りたいから、桃源台港から船に乗ろう」
佐良先輩が、ポートレートを撮る。それだけで衝撃的なのに、まさか私が被写体だなんて。歩き始めた先輩の背中を追いながら、ばくばく煩い心臓を宥めるのに必死。どんな表情で写ればいいのだろう。
「綾瀬はいつも通り、写真を撮っていてくれればいいから」
「表情とかポージングとか、なるべく指示してくださいね……!!私、写り方はまったくわからないので」
「肩の力抜いて、ただ、そこにいてほしい」
「わかりました……」
その指示はいちばん難しいような気がするけれど、撮影が始まってみなければわからない。私は腹を括って、佐良先輩と船に乗った。この船で元箱根港まで行き、ちょっと歩いたところに箱根神社があるらしい。箱根神社の鳥居は何度か写真で見たことがあるけれど、佐良先輩があの場所を選ぶのは意外だった。
「どうして、箱根神社で撮ろうと思ったんですか?」
「今までは青ばかり撮ってきたけど、綾瀬を撮るなら赤と青の二色がある場所がよくて。この一年、ずっと考えてたんだ」
この一年。私が先輩の背中を見ていた時間。先輩はいちども、こちらに背中を向けたことなんてなかったのかもしれない。どうして私を選んでくれたのだろうという気持ちよりも、写真を通して先輩と向き合えることが嬉しい。カメラのファインダー越しに、先輩と会話がしたい。
「……先輩の世界観に溶け込めるように、努めます」
先輩の写真はやわらかい。なんだか懐かしくなってしまうような、ノスタルジー溢れる写真を撮るひと。私は、先輩が撮る入道雲と、ビー玉の写真が好きだ。ひと夏の思い出がぎゅっと詰まったような、物語のある写真。
「そういえば、美由先輩と佐良先輩って幼なじみだったんですね。びっくりしました」
「あぁ、美由ね。腐れ縁みたいなものなんだけど、僕が今ここにいるのはあいつのおかげかもな。写真をはじめたきっかけは、あいつなんだ」
「そう、だったんですね。美由先輩のことは撮らないんですか?」
「撮らないよ。最初で最後のポートレートは、綾瀬を撮るって決めてたから」
「……そんな大役、私に務まるでしょうか」
「いてくれるだけで、いいんだ」
カメラを大切そうに持つ、その指先。穏やかな声のトーンと、控えめな視線。先輩は薄い唇に笑みを湛えて、船から見える景色に視線を向けた。私はまだ、先輩の横顔を眺めていたい。
「もう、ついちゃいますね」
「本番はこれからだよ。大丈夫」
船を降りて、歩き出す。先輩の黒髪が、さらさらと風に揺れていた。いっときたりとも忘れたくない、取りこぼしたくないのに、思い溢れるほど指の隙間からこぼれ落ちてしまいそうなほどの気持ち、心。木々の緑や山を映す湖は、この胸中とは裏腹に静謐。穏やかなのか昂っているのか、よくわからない。だんだんと、夢心地になる。
「綾瀬」
ぼんやりとしたまま、振り向いた先輩を見る。カシャ、とシャッター音が響いても、私はふわふわしていた。先輩が、私を見ている。ファインダー越しの視線は、やさしい。見えなくたってわかる。
「私が新米のころから、先輩はいつもやさしかったですよね」
「綾瀬にそう見えてたなら、よかった」
人からカメラや写真のことを教わるのは初めてだった。写真好きの集まりがゆるく写真を楽しむ場だと思っていた写真部は、本当はもっと熱い場所。みんな、写真を撮ることがいちばん大切で、とっておきの一枚を撮るためならいくらでもがんばる、そういう人たちが集まっている場所。私はこの写真部が大好きだ。佐良先輩はいつも一歩引いたところから、他の先輩とは違った角度の的確なアドバイスをくれた。
「私がスランプに陥ってしまったとき、佐良先輩は私よりも先に気づいてくれたんです。本当に撮りたいものを撮っていいんだよって言われて、私、好きな写真が撮れるようになりました」
「そんなことも、あったかな。そのときの僕はたぶん、昔の自分と綾瀬を重ねちゃってたんだろうね」
ファインダーを覗く先輩。レンズをふと意識した私。カシャ、と響くシャッター音。先輩とふたりきり、過去も今もこれからのこともひっくるめてどうしようもなく切ない気持ちになってしまった私は、どんなふうに写っているのだろう。
「この夏が終わっても、今日の写真を見返したらきっと、何度だって戻ってくることができますね」
「うん。そんな写真を、撮ろう」
私たちは写真を撮りながら、箱根神社の平和の鳥居にたどり着いた。先輩はフィルムを一本撮り終わったらしく、新しいフィルムを装填している。今日のためにちょっと奮発して、いちばん好きなフィルムを用意したらしい。
「綾瀬、そこに立って、自由にいて」
「自由に、いる……」
私と、赤い鳥居と、湖や空の青。鮮やかな緑の木々、一歩踏み出せば触れられる水面と夏の風。私は一度目を瞑って、水や、風や、葉擦れの微かな音を聞く。数度響いたシャッター音は、大切に心の奥底にしまって。目を開いたあとの世界は、さっきまでよりも明るく、煌めいて見えた。私は石畳の足場の先端まで行って、カメラを構える。ファインダーを覗き込めば、私にカメラを向ける佐良先輩がど真ん中に写る。——カシャ。シャッターを切ったタイミングは、ほとんど同時だった。
「佐良先輩」
ん?と顔を上げた彼を見つめる。先輩は驚いたような表情をして、「不意打ちだな」と笑った。
「忘れたく、ないです」
今、この瞬間のことを、ずっと。フィルムに焼き付けるだけじゃ足りない。脳裏に刻み込んでも胸の奥にしまっても、足りない。今が、ずっと今であればいいのに。
「綾瀬」
一歩。また、一歩。こちらへ歩み寄ってくる先輩のことを、ずっと、見つめていた。私の前で立ち止まった先輩が、ファインダーを覗き込む。私は、カメラの向こう側にいる彼のことを思っている。
「ピンぼけしたかな。でも、綾瀬に近づいてみたくなった」
さわさわと、穏やかな風が吹き抜ける。私たちの夏は終わりかけ。だけれどまだ、先輩はここにいる。ファインダー越しじゃない、生身の彼が、私の目の前にいる。
「私、先輩が写真を撮っているところを、これからもずっとみていたい」
叶わなくたっていいと諦めるのは、もうやめる。私は佐良先輩を見上げて、深く息を吸い込んだ。
Fin.
ファインダー越しの背中 川辺 せい @kawabe-sei
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