第4話 閉ざされる

 バスルームのドアを開けると、二畳程の洗面所兼脱衣所がある。そして、すりガラスのドアの向こうが浴室なのだが、そのドアは半分開けられたままになっていた。

 ミノさんは僕に背中を向けていた。

 浴室の天井にある点検口。その小さな正方形の枠に、金属のパイプが渡されている。そのパイプから下げられたロープに、この場には不自然な格好をしたミノさんの首が縛りつけられている。靴こそ履いていないが、コートを纏い、マフラーを巻いている。

「警察には?」

 浴室の扉を閉め、後ろに立つシンシンに訊いた。

「まだだ。すぐ電話する」

 シンシンは、ランドリーバスケットに置いてあったスマホを手に取り、一一〇番に電話した。

 警察が部屋に来るまでの間、僕は麗奈吉の部屋で話した。ミノさんが死んでいた状況と、「同乗者の殺人」での現場との共通点を。そして、前回の配信分から僕がシナリオを書いていることを告白した。

 それを聞いた麗奈吉は、しばらく言葉が出なかった。

「僕じゃない。それだけは」

「分かってる。それは、分かってる」

 麗奈吉は、少し震えているようにも見えた。自分の腕を抱いてさすっている。それは、僕がベッドに座る麗奈吉の横に寄り添っても止まらなかった。僕の肩に、麗奈吉が頭を預けてきた。

「あたし、怖い」

 普段と違う言葉遣いに、鼓動が少し早くなった。麗奈吉の肩を掴んで抱き寄せると、確かに彼女は震えていた。

「殺されたの、かな?」

 ミノさんが誰かに殺されたのは間違いない。そもそも、あのミノさんが自殺なんて考えられない。良くも悪くも図太くて計算高い女だった。それに、わざわざ僕の脚本に似せた状況を作って、タラミス配信当日に殺している。

「大丈夫。大丈夫」

 それ以外に言葉が話せなくなったかのように、僕は何度も繰り返した。


 翌日、僕は仮眠を挟みつつ、朝になっても警察署で事情聴取を受けていた。僕だけじゃない。当然シンシンと麗奈吉も一緒に来ていたが、それぞれ別室で聴取を受けていた二人が解放された後も、僕だけが帰れずにいる。

 警察は、完全に他殺だと断定していた。遺体の状況から間違いないようなのだが、その根拠は聞かせてもらえなかった。ただ、ミノさんの持ち物の中に、部屋の鍵が見つかっていないことは聞かされ、大家さんに頼んで鍵を換えた方が良いと言われた。

 僕を第一容疑者として見ているわけではなさそうだが、タラミスの内容に酷似している点に解決の糸口があると睨んでいるようだ。刑事からの質問の多くは、タラミスのシナリオについてだった。いつ書いたのか、配信前に内容を知り得たのは誰か。それに、僕を恨んでいる人物はいないか。

「もしかしたら犯人は、殺害した三城さんよりも、貴方に対して強い恨みを持っているのかもしれないんです。もう一度よく考えて頂けませんか?」

 白髪交じりの刑事が顎に手をやりながら訊いた。だが、そんな人物は思い浮かばず、僕は深い溜息を吐くしかなかった。

「特に、シナリオを事前に読めると仰っていた方々の中で」

 そう限定されると、余計に思い浮かばないのだが、何度も問い詰められた。何度目かの質問では、書き出した人物の名をひとりずつ指しながら訊いてきた。

「この、本山さんの前にシナリオを担当していた若松。この人は? 彼にしてみれば、本山さんに仕事を取られたわけでしょう?」

 あり得ない。僕はすぐに首を横に振った。

「確かにシナリオ担当は僕に変わりましたけど、若松さんの場合は昇進に近いというか。僕が入って、上の立場に押し上げられた格好ですから」

「そうですか、なるほど。それでは、ちょっと質問を変えます。三城さんの遺体が見つかる前、本山さんが最後に浴室に入ったのは、一昨日の夜十一時でしたよね?」

「ええ。間違いありません。十時からのテレビを観終わってから入りましたから」

「そして、約三十分後にお湯を抜いて掃除された。ですよね?」

「はい」

 刑事は質問しながら、ボールペンで耳の上を掻いている。

「いつもそうされているんですか?」

「はい。それがルールですから」

「洗濯には使われない?」

「はい?」

「風呂の残り湯、うちの家内なんかは洗濯に使ってるんですがね、最近は使わないものなんですか?」

 質問の意図は分からなかったが、僕は訊かれたことに対して普通に答えた。

「僕たちの部屋、洗濯機はないですよ。コインランドリーか、大学にある洗濯機をそれぞれ使っています」

「ああ、なるほど。そうでしたか。真壁さんは、昨日お風呂にお湯を張ったのも本山さんだと言っておりましたが、間違いないですか?」

「ええ。丁度僕がキッチンで洗い物をしていたので。お湯を溜めるスイッチがキッチンにもあるんです」

 刑事は話を聞きながら、何度も頷いている。

「それが九時前、ですよね」

「そうです。一時間後に溜まるように、と言われたので、一時間後にタイマーをセットしましたから、実際に溜まったのは十時前でしょうけど」

「そのようですね。ところで、ちょっとこの写真を見て頂きたいのですが」

 刑事はそう言って、一枚の写真を机の上に出した。

「これ、何だと思いますか?」

 写真は浴槽に張られたお湯を写していた。透明なお湯の上に、黒い物が点々と浮かんでいる。

「分かりません。何ですか、これ?」

 刑事は、僕の目を覗き込むように見つめて口を開いた。

「紙です。紙と言っても、燃えてしまった紙ですな。一昨日掃除された時は当然無かった物でしょう?」

 その質問に、僕はすぐに答えられなかった。紙を燃やした灰があったかどうか、それが思い出せなかったわけじゃない。理由は別の所にある。

「どうかされましたか?」

「やったのは、僕のバイト関係の人間じゃないと思います」

 予想した答えではなかったのか、刑事の眉が僅かに動いた。

「そう思われる理由は?」

「シナリオからカットされたシーンだからです」

 僕は、打ち合わせで遺書を燃やすシーンをカットし、正式な台本には書かれなかったことを説明した。

「なるほど。分かりました。本山さん」

「はい」

「今日はもう帰って頂いて結構ですが、充分に気を付けて下さい。私共も監視は付けますが」

 気を付けろと言われても、何をどう気を付ければ良いのか分からない。一体、目の前の刑事はどんな筋書きを読んでいるのか。

「すみません。気を付けろと言われても、何をどう気を付けたら良いのか」

 僕は思ったままのことを続けて口にした。

「そもそもミノ、いや、三城さんよりも、僕に恨みがあると思われる根拠も教えて頂けてないですし、それに、どうして殺人だと断定されたのかも聞かされていません」

 刑事は頭が痒いのか、それともただの癖か、耳の後ろを掻いていたボールペンが、今度は頭頂部付近を掻いている。

「まぁ、簡単な話です。三城さんは首を吊った形で発見されましたが、その状況以外に、どこにも自殺に見せかけようと努力した形跡がないんです。それどころか、発見された時点で、死後二日から四日が過ぎています。どこか、大型の冷凍設備がある所に保存されていたようですな」

 僕の表情を見て、僕がどういう状況か完全に把握できたと感じたのか、刑事は頷いて見せた。

「つまり、本山さんが脚本を書かれた映画が放送、いや、配信でしたか。配信されるタイミングで発見されるよう浴室にぶら下げた。三城さんを殺害すること自体が、犯人の目的だとは考えにくいというのはそういうことです」

「よく、分かりました。あの、速水さんと真壁君は?」

 どう聞いたら良いか分からず、それ以降の言葉を続けられなかったが、刑事には僕の意志が伝わったようで、欲しかった答えをくれた。

「百パーセントない、とは言い切れません。それは、本山さん、現時点で貴方も同じですが。一応警戒しておいて下さい。と、申し上げておきましょう」

 それは、医師が余命を短めに告げるのと同じだと感じた。犯人である可能性がゼロでない限り「大丈夫だ」とは言えないのだろう。

 これまでに分かっているのは、四日前から二日前にかけてミノさんは殺され、一昨日僕が風呂掃除をした後から、昨日シンシンが風呂に行くまでの間に遺体が吊るされたということだけだ。僕を含めて三人にその機会はある。

 僕は立ち上がり、刑事に頭を下げた。すると、刑事は終始ビデオカメラの横に立っていた別の刑事に顎で合図をした。

「では、お送りします」

 その刑事は、もう一人若い男を覆面パトカーの助手席に座らせ、僕のマンションまで車を走らせた。二人で車を動かしたということは、このままマンションの近くで待機するのだろう。

「無駄なのに」

 見張っていても意味はない。もう誰も殺されないのだから。次回配信分のシナリオは、既に制作会社に正式な台本として渡り、撮影に入っている。次回は誰も殺されないミステリーだ。

 この犯人は、シナリオ通りに動く。僕にはそれが分かっていた。


 マンションに帰ると、麗奈吉がリビングに座っていた。その足元には、キャリーバッグが置かれている。

「どっか行くの?」

 僕の問いに、麗奈吉は頷いて立ち上がった。

「しばらく大学の友達の部屋に行く。次に戻るのは、荷物を取りに来る時だけだと思う」

 ミノさんが死んで以来、麗奈吉の言葉から方言が消えていた。これでは、黙っていなくても美人だ。ミノさんに対して、何らかの思いがあって方言を使っていたのだろうが、僕にその意図が分かる程女心が理解できるはずもない。

「麗奈吉、冗談抜きでさ」

「大家さんがね」

 言葉の先を知ってか知らずか、麗奈吉が僕の言葉を遮った。

「ひとり五万円のままで良いって」

 事故物件だ。どちらにしてもそのくらいの金額になるのだろう。金額的なことだけを見れば喜ばしい提案のはずだが、麗奈吉の目は怒りに燃えている。

「この先、また同じように人が減ってもそれで良いって言うの」

 同じように人が減るというのはつまり、誰かが死んでもということだ。それは麗奈吉じゃなくても怒るだろう。

「悪気があったわけじゃないと思うよ」

 条件反射と言うものだろうか。自分自身そんなこと心にも思っていないのに、責められる人間がいれば、思わずフォローしてしまう。

「大家さんもショックなのは分かるけど。そんなことより、あたしは殺されたくないもの。それから」

 麗奈吉が俯く。いつも物事をハッキリ言ってきた麗奈吉が、何やら言いにくそうにしている。それだけで、僕にとって良くないことを告げられるのだと分かった。

「何でも言ってくれて良いよ」

 僕がそう促すと、麗奈吉は俯いたままで言った。

「連絡してこないで。あたしを探さないで。街のどこかで会っても、声を掛けないで。犯人が捕まるまでは。お願い」

 仕方のないことだと思う。健司はどうだか分からないが、ミノさんは確実に僕への当てつけのような形で殺されたように見える。次は自分に危険が及ぶかもしれないのに、ただのルームメイトでしかない僕の近くに居たいと思うわけがない。

「分かった。そうするよ。シンシンは?」

「警察から戻ってすぐに実家に帰ったよ。じゃあ、あたしも行くから」

「うん。気を付けて」

 麗奈吉も本当ならば、すぐにでも出て行きたかったのだろう。それでも僕の帰りを待っていてくれた。それだけで充分救われた気分になれた。

 独り残された部屋で、僕はどうするべきか。

 パソコンは、会社で使っていた物も、自室で使っていた物も、警察に任意で提出している。誰かに侵入された形跡がないか調べているはずだ。ネットの閲覧状況も調べられるのだろうか。僕のパソコンの履歴を見られたら、完全犯罪を目論む殺人者のそれと同じようなものだろう。だが、それもシナリオを書くためだと理解してもらえるだろうか。

 ソファーに腰を沈めると、静かな部屋に革が軋む音が響いた。時刻は昼の二時を回っている。昼食を済ませていないのを今更ながらに思い出すが、外へと出る気になれない。冷蔵庫を覗いてみると、シュークリームが白い箱ごと入れられていた。飲み物は、紙パックのグレープフルーツジュースがビニールで梱包された状態で入っている。どちらも、大家さんがくれたものだ。グレープフルーツが苦手な僕は、シュークリームだけを取り出し、コーヒーを淹れた。

 長方形のダイニングテーブルに、椅子が五つ。その椅子に座っていた五人のうち二人が死に、二人が去った。

 独りで使うには大きすぎるテーブルに置かれた青磁のカップの上で、細く白い湯気が寂し気に揺れる。

 しばらくその湯気を呆然と眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。エントランスからではない、ドア横のチャイムだ。モニターには、見慣れた薄い頭頂部が映っていて、その人物の後ろには作業着を着た男が一人立っている。

「はい」

「あ、どうもー。高梨ですー」

 大家の高梨さんが、今までと変わらぬのんびりとした口調で名乗った。玄関を開けると、挨拶もそこそこに用件を話し始めた。

「鍵、交換しますからね。じゃ、お願いしますよ」

 大家さんは後ろにいる鍵屋に声を掛けた。

「三十分ぐらいで終わるらしいですから。えーっと」

「本山です」

「そうそう、本山さん。聞いているかもしれんけれど、家賃、これだけで良いから」

 大家さんはそう言って手のひらを僕に見せた。五万円で良い。そう言っているのだ。全くもって有難い話だが、僕もずっと独りでここに住むつもりはなかった。あと一か月。次のタラミスの配信まで。そう心に決めている。その時には全ての決着がつくはずだ。だが、それを今話す必要もない。

「お気を遣って頂いてすみません。ジュースとか、シュークリームも」

「ジュース? シュークリームは昨日持ってきたが、ジュースは別の人じゃないかい? ま、気にしなくても良いですよ。孫から貰って食べきれなかった分を持ってきただけだから。それじゃあ、私は部屋に戻りますんで。終わったら寄って下さい」

 大家さんは、鍵屋にそう言って杖をカツカツと鳴らしながら去っていった。大家さんの部屋は、このマンションの最上階にある。

「ジュースは大家さんじゃない?」

 どうして僕は大家さんから貰ったと思い込んでいたのか。黙々と作業を進める鍵屋を見ながら、記憶を探る。僕は、テーブルに戻って少し冷めたコーヒーを飲んだ。飲み慣れたコーヒーの味に、思考が日常のものに還ってゆく。

「そうだ」

 朝警察署に行ってから、スマホの電源を切りっぱなしにしていたことを思い出し、上着のポケットからスマホを出した。電源を入れた瞬間にメッセージを受信した。翠さんからだ。そのメッセージを読んだ僕は、すぐに電話した。短い呼出音の後、翠さんの声が聴こえる。

「本山です。あの、クビってことですか?」

 メッセージには、僕自身の契約解除と、撮影に入っていた次回タラミスの配信中止について書かれていた。

「ゴメンね、本山君。私も頭は下げたんだけど、力になれなくて」

「翠さんが謝ることじゃないです。仕方がないですよ。残念だけど」

 本心は残念どころではない。目の前が真っ暗になった。

「明日、ゆっくりで良いから来てね。その、私物とかあったら、持って帰って貰わないといけないから」

「ゆっくりって、何時ごろに行けば?」

「そうね、お昼、一緒に食べましょうか。私が奢るから」

「分かりました。じゃあ、正午ぐらいに行きます」

「本当にゴメンね、本山君」

 謝られるたびに惨めな気分になりそうだ。「大丈夫です」という空っぽの言葉だけ返して電話を切った。

 その直後に、フォローしているライブ動画の通知が画面に現れた。僕が最初にシナリオを担当した作品に出演していた、まだ売れていない女優のライブ配信だ。通知画面に触れると、銀世界が映し出された。スキー場のようだ。「今日は友達とスキーに来ました」と話し、画面を左右にパンさせてスキー場全体を映している。だが、そのスピードは速すぎて、動画の撮影に関しては素人だとわざわざ宣言しているかのようだった。

 ライブ配信はほんの二分程で終わった。「寒いからまたね」という言葉で締めくくられたその配信を見て、僕にひとつのアイディアが浮かんだ。

「僕が撮れば良いんだ」

 ビデオカメラなんか必要ない。スマホがあれば動画も撮れる。上手くやればライブ配信でもできるかもしれない。

「すみませーん」

 玄関の方から鍵屋が声を出した。作業が終わったのだろう。玄関に行くと、鍵屋は新しい鍵をふたつ僕に寄越した。それぞれ違うタイプの鍵だ。

「最初のうちは少し固いかもしれませんが、すぐに馴染むと思いますので。他の方の鍵は大家さんに渡しておきます」

「分かりました。ありがとうございました」

 作業完了確認の紙にサインをすると、鍵屋は小さく頭を下げて出て行った。

 シンシンはいつまで実家にいるのだろう。麗奈吉も多くの荷物を部屋に残している。僕はとりあえず二人に部屋の鍵が変わり、大家さんが新しい鍵を持っていることを告げようと、LINEを立ち上げた。グループにはまだミノさんの名前も、健司の名前も残っていた。

 ――鍵が新しく変わりました。帰ってきたら、大家さんから新しい鍵を受け取って下さい。

 四人に向けてメッセージを送信するのはいつ以来だろうか。健司が死んでからは一度もなかった気がする。今までは講義中だろうがすぐに返信が来ていた。特にシンシン以外からは。それに何の意味があるのか分からないが、シンシンが返信を寄越すのは決まって最後だった。理由が分からないというわけではない。理解ができないだけだ。暇な時間を過ごしていると思われたくない、という狙いなのは察しが付く。

 だがこの日、最初に返信をしてきたのはシンシンだった。と言うよりも、麗奈吉からは返信がなかった。


 翌日の正午。四十階建てのビルを見上げる。空は今にも雨粒を落としそうな、暗い雲で覆われていた。このビルの二十二階から二十五階までが、僕のバイト先の会社だ。その中で、僕がシナリオを書いていたタラミスの事業部は二十二階。外からでもその位置が分かる程には慣れ親しんでいた。

「あれ? 本山君?」

 酒に焼けた男の声で名前を呼ばれ振り向くと、僕の前にシナリオを書いていた若松さんが立っていた。

「あ、若松チーフ。こんにちは」

「今日は荷物を取りに来たのか?」

「はい」

 若松さんから、これまでに感じたことのない攻撃的な視線を受けた気がした。

「あの、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 その視線に思わず頭を下げた。

「へぇ、迷惑掛けたって自覚はあるんだな」

 若松さんがその言葉を、どういう顔をして言っているのか。それを知るのが怖くて顔を上げられなかった。若松さんのつま先は、苛立ちを隠しもせず細かく動いている。そのつま先がオフィスへ向いても、僕は頭を下げたままだった。

「モッさん?」

 自分を呼ぶ声に、顔を上げる。正面には誰もいない。首を動かして周囲を見渡すが、僕の存在など気にも留めずに歩き去る人々だけだ。

「モッさん」

 もう一度声が聴こえた。僕は空を見上げた。相変わらず灰色の空だ。当然空に人なんていない。だが、そこに誰かがいる気がした。灰色の空から吊るされた誰かが。

 僕の耳に届いたその声は、間違いなくミノさんの声だった。つまりは、聴こえるはずのない声だ。

 僕は視線を落として、自分の手のひらを開いて見つめた。ミノさんを力いっぱい絞めつけた感触が今も残っている。あの時熱を持った手も、今は冷え切っている。その手をズボンのポケットに突っ込み、ビルを背に向けて歩き始めた。

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