第3話 重なる現実
駅を出た僕の心臓は、大学の合格発表のサイトを訪れる時以来の高鳴り方をしていた。
駅前の不動産屋。その窓ガラスに張られた物件情報を眺めるミノさんを見つけたからだ。声を掛けるのが自然な行動だろう。気付いていながら素通りするのは逆に怪しまれる。
「ミノさん」
名前を呼ぶのが精一杯だった。声は震えていない、とは自信を持って言えない。
「わっ、モッさんかぁ。バイト帰り?」
「うん。ミノさんは部屋探し中、みたいだね」
僕は努めて笑顔で言ったが、ミノさんの表情に笑みはない。
「三軒ね、見たんだけど、あんまりカワイイ部屋じゃなかったんだ」
空っぽの部屋に、カワイイもへったくれもないだろうと思ったが、ミノさんの感覚では、そういうものもあるのかもしれない。
「今住んでる部屋が良すぎるんだよね、きっと」
続けてミノさんはそう呟いた。今住んでいる部屋が良い。それは間違いないだろう。月五万で1LDKの物件に住んでいるのと変わらない。家賃だけを見ても破格だ。しかも、自分の当番の時以外は食事も用意される。
「また、ルームシェア、する?」
答えはノーに決まっている。決まっているが、訊かなくてはいけない流れだ。そう思った。だが、ミノさんは僕の質問に想定外の反応を見せた。頬を赤らめて俯き、こう言ったのだ。
「モッさんが良ければ、そうしよっかな」
訊き方が悪かったのだろうか。僕の緊張が、変な風にミノさんに伝わってしまったのだろうか。五人でルームシェアをしている間、こんな雰囲気になったことはない。極めて身近な場所で健司が死んで、バランスが壊れたのかもしれない。ミノさん自身の。僕たちの間の。
「じゃ、じゃあさ、麗奈吉にも訊いてみようか?」
僕の心臓は相変わらず高鳴っている。
そんな僕の耳に届いたのは、ミノさんの大きな溜息だった。
「モッさんはさ、速水さんのこと、好きなの?」
ミノさんが僕のことを下から見つめながら訊いてきた。麗奈吉のことを速水さんなんて呼んで、どうにもあからさまだ。
「別に、麗奈吉をそんな風に見たことはないよ。気を遣わなくてもいい奴だから、楽ではあるけど」
答えながら、自分の血液が降りてゆくのを感じる。目の前の、小さくて、少し丸っこくて、柔らかそうな身体と頭を繋ぐ部分を絞め付けたらどうなるだろうか。降りてゆく血液とすれ違いに、無数のあぶくを伴って奇妙な欲求が昇ってくる。
「そっか。もしかしたら好きなのかなって、去年ぐらいから思ってたからさ。そっか、そっか。麗奈吉はあんなだもんね」
ミノさんは麗奈吉に呼び方を戻し、目を三日月のようなカーブを描かせて細くした。その端から、細く涙が零れ落ちている。
僕は確信した。ミノさんは健司のことが好きだったのだ。僕が勝手に、あの五人の中で甘いものは生まれそうもないと思い込んでいただけだ。
だが、今のミノさんはそんな自分に酔っている。悲しむ自分に酔っている。それが正しいか分からないが、少なくとも僕の目にはそう見えた。
両手をミノさんに伸ばす。静かになっていた心臓が再び暴れ出す。
僕は昇り詰めた欲求通りに、ミノさんをきつく絞めつけた。
「モッさん? あの、すごい、ドキドキしてるよ?」
首ではなく、身体ごと抱きしめたミノさんの耳が、僕の胸に押し当てられている。
「ちょっとだけ、苦しい、かな」
ミノさんの熱い息が、トレーナー越しに僕の胸に当たった。
「うん、ゴメン」
僕はミノさんを腕の中から解放し、そのまま背中を向けた。
「僕、帰るよ。急いでやらなきゃいけないこともあるし」
僕はその場から逃げるように、いや、まさにミノさんの前から逃げ帰った。
浮かび上がった言葉の群れが、アルファベットの残像を一瞬映しながら画面を埋めてゆく。犯人が最後に動機を吐露する場面では、これまでに感じたことのない高揚感が僕を包んでいた。
「モッさん、ちょっとええ?」
集中してキーボードを叩いていたが、ノックとその控えめな声はしっかりと耳に届いていた。視線をモニター右下の時計に動かして見てみると、日付が変わって一時間が過ぎている。僕は電源を入れたままノートパソコンを閉じて、ドアに向かった。
「どうしたの? こんな時間に」
ドアを十センチだけ開けて、麗奈吉に訊いた。
「ここで話させる気なん?」
麗奈吉はそう言って、両手を腰に当てて構えていた。
「入る?」
僕がそう言ってドアをもう少し開くと、麗奈吉は頷きもせずに、僕の腕の下を潜って部屋の中に入って来た。そして、僕に何の断りもなくベッドに座った。
「ミノさんと同棲するん?」
「ミノさんがそう言ったの?」
麗奈吉が頷く。僕はそれを特別驚かなかった。ミノさんがそう勘違いしているのは何となく感じていたし、麗奈吉に話すであろうことも想像していた。
「するわけないじゃん。ミノさんが勝手に勘違いしたんだよ。なんか、良い物件が見つからないみたいだったから、またルームシェアをするかって訊いただけなんだけどね」
麗奈吉は僕の方を真っ直ぐ見ている。見つめているなんて優しいものじゃない。睨んでいる。
「ミノさん、モッさんから抱きしめられたって言いよった。それはホントなん?」
女はどうしてそういう話を人に聞かせたがるのか。「誰にも言わないで」と頭に付けて、自慢げに話すミノさんが瞼に浮かぶ。僕なんかが相手じゃ自慢にはならないだろうが。
「それはまあ、ちょっと、勢いって言うか、ミノさんが泣いてたから、つい」
「ふーん。モッさんもそんなことするんじゃね」
麗奈吉が気持ち口角を上げてそう言った。だが、目は笑っていない。
「ワシは女に見えんけぇ、気楽なんじゃろ? ミノさんと同棲せんのなら、ワシと同棲しようやぁ」
麗奈吉がベッドに深く座り、足を床から離してバタつかせながら言った。そんなことまでミノさんは話したのか。女に見えないとまでは言った記憶がないが、それに近いことは話した気がする。僕は謝るべきか考えながら、頭を掻いた。
「言っとくけど、女に見えないなんて言ってないよ。ミノさんから、麗奈吉が好きなのかって聞かれて、そういう対象として見たことがないって答えただけで。そういう意味では、ミノさんだって恋愛対象にはならないし。ただ、麗奈吉は僕的に気を遣わなくていいから、一緒に居ても楽って言うか」
僕が言い訳する間も、麗奈吉は僕を睨んだままだ。僕はまた頭を掻いた。
「ゴメン」
結局謝ってしまったが、麗奈吉は別に怒ってなどいないようだった。麗奈吉は、苦笑した後に「あーあ」と言って、ベッドに仰向けになって転がった。
「なんかさ、ワシも別にモッさんのことを男として見たことなかったんじゃけどさ。ミノさんの話聞いて、ちぃと悔しかったわけよ。なんでミノさんなん? って」
「そんなの、偶然、ホントたまたま駅前でミノさんに会ったってだけだし」
それに麗奈吉が「ふーん」と言った後、一呼吸おいて身体を起こした。
「じゃあさ、ワシが駅前におって、モッさんの前で泣きよったら、ワシのこと抱きしめとった?」
麗奈吉に言われて、天井を見上げ想像してみた。
「無理。大内刈りやられそうで怖い」
真面目にそう答えた僕に、麗奈吉は彼女らしい屈託のない笑顔を見せた。
「よう分かっとるじゃん」
そう言ってからも、まだ笑顔を浮かべている。本当に、喋らなければとんでもなく可愛いのに。だが、僕はそれをもったいないとは思わなかった。
「麗奈吉さ」
「ん?」
「真面目な話、また皆でルームシェアしない?」
僕の提案に、麗奈吉は速攻で首を横に二度三度と振り、またベッドに転がった。
「それは無理じゃわ。それこそ、モッさんと二人でならアリじゃけど、ミノさんとシンシンは。健司もなぁ、普段は何の役にも立たん男じゃって思うとったけど、あれで結構ええクッション役じゃったもんね」
「そうだね」
健司のことを思い出しているのか、麗奈吉は仰向けになって、右腕を顔の上に乗せている。僕は麗奈吉をそのままに、パソコンを開いた。
だが、キーボードは叩けなかった。
駅前でミノさんを抱きしめた時のことを思い返すが、あの衝動の正体が一体何だったのか分からなくなっていた。もしもあの時、肩ではなく首に手を伸ばしていたら、そのままミノさんを絞め殺していたのだろうか。
シンシンにならまだしも、ミノさんに対して殺意に繋がる憎しみを感じるなど考えられない。憎しみでなければ何なのか。愛情でもないことは確かだ。
「同情かな」
僕はそう呟いて苦笑した。それはないだろう。同情して殺したなんて話は聞いたこともない。
「麗奈吉は」
身体の向きを変え、麗奈吉にそう話しかけたが、言葉を途中で切った。
「寝てんの?」
顔に置かれていたはずの右腕が、ベッドの上に投げだされている。目を閉じたままこちらに向けられている顔をしばらく眺めたが、僕の声は聞こえていないようだ。申し訳程度に膨れた胸がゆっくりと上下に動いていて、その呼吸の様子から眠っていると確信した。寝ているふりをしている可能性もなくはないが、どちらにせよ僕がすべきことはひとつだ。
「そこで寝られたら、僕の寝る所がないんだけど?」
少しボリュームを上げて言った。今度は聴こえたようだ。「ん、んん」と喉の奥で返事らしきものを返してきた。だが、それ以降動く気配がない。僕は溜息と共に立ち上がり、ベッドの上で無防備に眠る麗奈吉に近寄った。
「麗奈吉」
名前を呼んで肩を軽く叩く。反応がない。麗奈吉は相変わらずゆっくりとした呼吸を続けている。
肩を叩いた手を、そのままそっと首に回してみた。温かい。温かく、吸い付くような肌触りだった。絞めたいという衝動は襲ってこない。親指を、細く整った形の顎に沿って動かした。
「ほんと、綺麗だよな」
麗奈吉は、自分が美人と言われる部類に入っていることを認識している。それでも、「綺麗」と言われれば喜んでいた。「黙っていれば」が付くと怒るのだが。その辺りの素直さも麗奈吉の良い所だ。
僕の親指が、麗奈吉の艶やかに手入れされている下唇に触れた時、手首を掴まれた。
「本山陽介え」
麗奈吉の口が開かれ、僕のフルネームを呟いた。視線を少し上に動かすと、うっすら開かれた麗奈吉の瞳にぶつかった。
「なんだよ、速水麗奈吉」
僕の手首を掴む麗奈吉の手には、拘束する程の力は入っていない。
「健司の次は、ワシを殺すんかと思った」
再び目を閉じて言った麗奈吉の言葉に、僕は思わず麗奈吉の手を振りほどいた。
「な、何言ってるんだよ」
「首、絞めようとしよったじゃろ? そのまま絞めてくれても良かったんよ」
後退りする僕に、麗奈吉は詰め寄った。
「やっぱり、あんたが健司を殺したん? ミノさんと二人きりになるために」
「何の、話だよっ」
麗奈吉の目は真っ直ぐ僕を射抜いている。いつもの睨みつけるような鋭さはないが、僕の内側まで覗かれているような気がした。
「降圧剤だけじゃなかったじゃろ?」
その言葉に、僕は目を見開いた。
「やっぱり。あのグレープフルーツジュース、モッさんが健司にあげたんよね?」
その通りだ。だが、僕はそれに頷くことができない。身体は完全に固まってしまっていた。
「あのタラミスの犯人もそうやん。降圧剤と、その効き目を高めるグレープフルーツジュースを被害者に飲ませとった。なんでグレープフルーツジュースのことは黙っとったん?」
誰からグレープフルーツジュースのことを聞いたのか。思い当るのは一人しかいないが、それを追求しても意味がない。
「そ、それは、麗奈吉が余計に不審がると思ったから。あの時のタラミスの被害者と同じものを健司も飲んでたからさ、それまで結びつけて騒ぎ立てるんじゃないかって」
「殺したんがバレる思うたん?」
「違うって。僕が健司を殺すわけないじゃないか」
そう言った僕を、相変わらずじっと見ていた麗奈吉が、張りつめていた空気を溶かすように息を吐くと、少し笑った。
「やっぱりそうよね。そんな理由で殺すんやったら、ほんまに狂人やもん」
どこから湧いて出てきた疑いだったか分からないが、その疑いは晴れたようだ。しかし、釈然としない。
「『ほんまに』ってなんだよ? 僕って狂人っぽいとこある?」
僕の質問に、麗奈吉は小首を傾げた。
「うーん、狂人っちゅうか、ただのオタク、かな。何考えとんのか分からんことはある」
「今、世の中のオタクを敵に回したね」
麗奈吉の表情は、いつも通りに戻っている。今日は、僕が殺人者かどうか確かめに来たのだろうか。ミノさんとのことを確認しに来たのだろうか。
「モッさんに口止めは要らん思うけど、一応今日のことは内緒ね。話した内容もじゃけぇね」
僕の腹に軽く拳を繰り返しぶつけながら麗奈吉が言った。
「分かってるよ」
「よし。あと、これも内緒ね」
麗奈吉はそう言うと、ほんの少し背伸びをして僕の頬にキスをした。
「な、何してんだよ」
「別に。ミノさんへの対抗心、かな。女って面倒くさいんじゃけぇ」
水曜日に提出したシナリオは、翠さんも満足させた。「新しいね、これ」と言った時の翠さんの輝いた顔は忘れられない。金曜日の制作会社との打ち合わせも、翠さんは僕以上に熱を持って次回作のビジョンを語っていた。
そして、一か月後。
僕らの部屋には、相変わらず麗奈吉とミノさんが居る。もちろんシンシンも。女性陣は風呂こそ部屋のものを使っていないが、次の物件探しは続けていないようだ。大家さんが家賃を二十万円にしてくれたのも大きな要因だろう。
だが、僕らのバランスは微妙に崩れたままだった。
ミノさんは彼氏ができたみたいで、たまに彼氏の部屋に泊りにも行っているようだ。僕とは健司がいた頃の距離感に戻っている。
麗奈吉ともそうだ。相変わらず彼女は僕を男だと見ていない。
シンシンは大学が忙しいのか、最近はあまり顔を見ない。
そんな中で今日、僕がシナリオを書いた「同乗者の殺人」が配信される。トゥルーエンドに行けば、同乗は同情と掛けていると分かるシナリオになっている。
物語のあらすじはこうだ。ある女の恋人が、免許を取ったばかりだったその女の運転する車で事故に遭い、死亡する。運転していた女は一命をとりとめるが、下半身不随になった。だがそれ以上に女は、目の前で激しい痛みにもがきながら死んでゆく彼氏に、何もしてやることができなかったことに苦しむ。
女に対して、以前から叶わぬ思いを抱いていた男が、女の願いを聞き入れる。それは、自殺するのもままならない彼女の自殺を手伝って欲しいと言うもの。
女は自筆の遺書を残し、男に浴室で首を吊る手助けをさせた。
全ての準備が整うと、男は女が書いた遺書を手に取った。すると、そこに人生最後の手助けをする自分の名前がないことを嘆き、女を力の限りきつく抱きしめ、首の骨が粉々になるまで強く首を絞めた。そして、既に死んでいる女をロープに吊るした。
今回その犯人役を務めたのは、タラミスでは珍しく名の知れた俳優だった。
さすがと言って良い演技だった。最後の回想シーンで流された、既に死んでいる女に首を吊らせるシーンでの彼の嗚咽は、シナリオを書いた僕でさえ涙を誘われた。
好きだった男のことを忘れるための道具として使われる哀しさと、駅前でミノさんを抱きしめた時の僕の気持ちが交差した。もし、僕の中にあるミノさんへの好意が何十倍も大きかったら、あの時首を絞めていただろう。少なくとも僕自身は、この狂いかけた殺人者に同情し、共感できた。動機にはリアリティを持たせられた。そう信じたい。
提出したシナリオでは、男が殺害後に遺書を燃やすシーンを書いていたが、制作会社との打ち合わせの段階で、それをカットした。その代わりに、裁判で弁護側が読み上げる遺書を聞いて、犯人が崩れるように泣くラストシーンを追加した。
殺害方法はシンプルだ。計画性と衝動性を織り交ぜているが、現実的な方法だと思う。
それでもあの「リアリティがない」というコメントは来るのだろうか。僕は、しばらくその時を待っていた。
「モッさん!」
ベッドの上でスマホの画面を睨んでいると、ノックの後の返事を待たずにドアが開けられた。そこにはシンシンが立っていた。シンシンは、服は着ているが、ワイシャツのボタンは最後のひとつを除いて全て外されている。いつも掛けている眼鏡も見当たらない。ズボンのベルトは、その役目を果たしておらず、両端が前に垂れ下がっていた。
「なっ、どうしたの?」
ひと目でシンシンがこれまでになく慌てていることだけは分かった。
「ミノさんが風呂で首吊ってんだよ!」
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