第四章 張り合ったわたくしが、愚かでした(5)
◆
「なんだ、ジェリ。やけに顔色がよくないぞ」
皇子宮を抜け出し、少年の姿で煙草臭い新聞社に顔を出したアンジェリカを、社長で編集長のトーバイアスが出迎える。
「どうしたんだ。いま流行りの北部風邪じゃないだろうな」
「まさか。ちょっと怪我をしてるだけ……って流行りの北部風邪?」
「聞いてないのか、編集長室のバックナンバーを読め」
手招きされて編集長室に入り、ふたりきりになったとたん、彼は切り出した。
「ジェリ、おまえが持ってきてくれる金でだいぶ新聞社の運営も助かってる。出どころは皇子宮の予算だっていうが……使い道は聞かれねえのか」
切り出しは早いが口調は遠慮がちな彼に、アンジェリカは肩をすくめた。
「わたしに一任されてる。もっとも予算のうちからすると微々たる金額だから、問題にされていないだけだと思うな」
「あれで微々たる……やれやれ、俺たちの税金で皇室は好き放題だな。還元してくれるのはありがたいが、おまえの扱いに不満の声が上がってる。得体のしれない小僧を、なんで特別扱いしてるんだと。援助の金で目をつぶっちゃいるが」
「処遇に見合う働きをすればいいってわけね。皇室のゴシップなら任せて」
こともなげに返し、アンジェリカは編集長室の棚から過去の発行分を取り出して目を通す。目深にかぶった帽子の下で、その顔がしだいに険しくなっていく。
「ねえ、トビー。この風邪、けっこうやばいんじゃないの」
「やばいどころじゃない。各地の診療所も、スラムの無料の医務院も満杯だ」
アンジェリカは手にしたバックナンバーを編集長のデスクに広げる。
〝水害による北部風邪の死者急増! 町は死体を焼く煙が絶えない……〟
「トビー。この現状に、皇室政府はどう対応してるの」
アンジェリカの問いにトーバイアスは口の端を大きく曲げる。
つまり、対策らしい対策はなされていないらしい。
皇子宮での暮らしや、ミルドレッドから送られたきらびやかな衣装、招かれたお茶会を思い返す。貴重なマグナイト鉱石を無駄に消費し、困窮する人々を放っての贅沢ぶりに、お茶会での扱いも重なって気分が悪くなる。
「そうだ、ここの住所でノルグレンの祖父に手紙を送りたいけど、いいかな。汽車便なら三日くらいだよね」
「そりゃかまわねえが。なあ、ジェリ」
どこか不安そうにトーバイアスは眉をひそめて身を乗り出す。
「ここは取るに足らないゴシップ紙だってことでお目こぼしをされてる。皇室の記事ネタは助かるが、くれぐれも派手にやり過ぎるなよ」
「牙が抜けたね、トビー。〝囲い職人〟と呼ばれた扇動屋はどうなったの」
「巧妙なやり方に
「わかった。安心して……なんて大言壮語はもうしないけど」
アンジェリカは帽子のつばの陰から、含み笑いを向けた。
「上手くはやる。少なくとも特ダネには貢献するよ」
新聞社を出て、アンジェリカは下町を歩く。
夕暮れに差しかかり、街路は家路につく急ぎ足の人々で混んでいた。
皇子宮の周囲にいる監視の目の隙はすでに把握しているが、目立たないに越したことはない。だから視界の悪くなる夕暮れ時は、ひと目につかずに好都合だ。
本当は……少し皇子宮に戻るのは気が重かったけれど。
三日前の茶会以来、エイベルとは顔を合わせていない。ミルドレッド皇女がなにもいってこないのは仕方がないとしても、彼に見限られたかと思うと気が沈む。
〝……彼女は僕の所有物じゃない〟
エイベルの言葉は、まだ耳に残っている。
祖父の高い教育を受けたアンジェリカにとっては、ある意味当然の話。けれど腹違いとはいえ姉のミルドレッドに向かって、エイベルはきっぱりといった。アンジェリカのことを心から尊重していなければ、あんな言葉は出てこない。
身分高いものから踏みつけにされてきた身として、目が開く心地だった。
〝氷皇子〟と呼ばれていても、その心映えは高潔だ。自分の自由のためとしても、狩りのときに助けてもらった恩を返すためにも、彼の力にはなりたい。
とはいえ、いまからどうやって
彼が軟禁状態の理由は、〝母殺し〟として危険視されているからのはず。外にも監視の目がある。だがミルドレッドに招かれて茶会に出席できるのを見れば、ある程度の自由と地位は保証されている。皇后の働きかけで、ノルグレンとの同盟のために、アンジェリカと縁組をさせるくらいだ。つまり危険視と同時に重要視されている。
皇帝権限で処罰が可能なら、恩赦も可能。〝母殺し〟の罪状なんてもみ消すのも可能のはず。なのに、生かさず殺さずの半端な処遇。
彼のくわしい事情をもっと知りたい。だが、こうまで隠されるなら、新参のアンジェリカには容易に明かせない理由があるはず……。
考えながら道を急いでいると、大好物の揚げ菓子の屋台が目に入る。夕暮れどきで店じまいらしく、売れ残りで安いよと店主が呼ばわっていた。夕飯が間近なので一袋だけ買い求めると、ちょうど通りすがった荷馬車を呼び止めて行き先を訊く。
「後ろ、乗せてって」
小銭を御者に投げて、身軽に荷車に飛び乗った。
砂糖がまぶされてべたつく揚げ菓子を頰張り、スラム育ちらしい行儀の悪さで汚れた手をズボンで拭きながら、新聞社から持ち出したバックナンバーを広げる。
がたがた揺れる馬車に文字も揺れるが、気にせず記事に目を通した。
〝洪水による北部風邪流行、薬は尽き、医療者も相次いで倒れ……〟
今年の雨季は
はっとアンジェリカは目を開く。ミルドレッドが私費を投じて配給所を設け、貧民救済に乗り出しているとの記事があったからだ。
「うるわしき皇女殿下の恩情にすがる人々の一方で、マグナイトの利権をめぐり、対立するばかりの皇室派と貴族派は……」
皇室派と貴族派の対立。へえ、とアンジェリカは前のめりで記事を読む。
皇国内の政治についても情報が足りなすぎる。侍従長や侍女長はさすがに自国の不都合は語りにくいようで、こちらも深く踏み込んで訊きにくい。
だから『日刊マグナフォート』は情報源として大いに助かる。
ゴシップ紙だからどこまでが真実かわからないが、志の高い祖父と深い親交のあったトーバイアスなら、事実無根の話は書かないだろう。
過去の記事をできるだけ読まなくてはと、アンジェリカは心に決める。
夕闇が降り、文字が見えにくくなって顔を上げると、皇子宮が丘の上に見えてくる。アンジェリカは荷馬車から飛び降り、
「姫さま、心配していましたよ!」
こっそり庭のベランダから自室に入ると、メルが駆け寄ってきた。
「ごめんなさいませ、夕食にはぎりぎり間に合ったかしら」
「それは大丈夫ですけれど、いえ、それよりも」
メルは華やかな香りの封筒を差し出す。その匂いで差出人はすぐにわかった。あんな失態を見せたアンジェリカに、皇女はどういうつもりで送ってきたのか。
机のペーパーナイフを取り、封を切ってなかを見る。艶やかな花柄の模様のカードが入っていて、アンジェリカは不安と期待のない交ぜな心地でそれを裏返した。
『先日の茶会、大変に楽しゅうございました。姫君とはもっとお話ししたく思いましたわ。つきましては……』
嫌味か、とアンジェリカは顔をしかめる。だが、美しい文字でつづられる文面に、思わず驚きで息を吞んだ。
『エイベル殿下とともに、来月の皇宮舞踏会にご参加いただきたく存じます』
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