第四章 張り合ったわたくしが、愚かでした(4)

 帰りの馬車のなかは葬送のようだった。


 アンジェリカは丁重にミルドレッドにびを入れ、令嬢たちのあからさまな失望と、大公爵のひそやかな嘲笑を浴びても、なにもいわずに茶会を辞してきた。エイベルはミルドレッドに引き留められ、いまだあの場に残っている。


 馬車の窓に肘をつき、アンジェリカは暗い気持ちで夕暮れの皇都を眺めやる。


 なにも得られなかった。エイベルに大きな口を叩いておきながらミルドレッドとも交渉できず、ただ己の愚かさを思い知ったのみ。守れたのは自分の誇りだけ。


 監獄にも等しい王宮の暮らしから思いがけず厚遇を受ける生活になって、自分の好きにできると図に乗ってしまった。スラム育ちの身が、一国の皇子や皇女と渡り合えると勘違いしたのだ。この傷もそんな思い上がりの報い。


 孤軍奮闘の想いがつのる。だれにも相談できず、頼れない。孤独はこんなにも、身を切るようにつらい。自分が愚かなら、なおさらに。


〝……ジェリとおれらは違う〟


 スラムで、いちばん仲のよかった少年の声が思い出された。


 目端の利く利発な子だった。仲間を連れて盗みを繰り返していた。


〝おまえ、頭いいし、祖父ちゃんだってすごいひとだ。だから、そうやってだれかを思いやれる余裕がある。……おれらなんかと、違う〟


 アンジェリカがみんなのためにと差し出した、なけなしの小遣いや食べ物をひったくるように奪いながら、彼はひどく傷ついた顔で怒鳴った。


〝おなじごみめに住んでるくせに、自分だけ偉そうな顔しやがって!〟


 そのあと、少年をリーダーとしたグループは姿を消した。アンジェリカはひとり、必死になってスラムを探し回ったけれど、盗みをとがめられて兵に連れていかれたという事実を突き止められただけで、彼らは二度と帰ってこなかった。


 馬車の震動に、脇腹の傷がひどく痛む。


 それが想い出の痛みなのか、いまの胸の痛みなのかわからないままに、アンジェリカは夕暮れのなかを走る馬車に揺られていった。





「ま、まあ、姫さま! そのお怪我はいったい!?」



 皇子宮に戻ると、メルが青ざめて叫ぶ。侍従長と侍女長も飛んできた。



「いますぐ、手当ての準備をいたしましょう」「そのお怪我ではお湯に入れませんわね。お着替えと体を拭く支度を整えますわ」



 侍従長と侍女長がてきぱきと手当てに取りかかる。



「大丈夫ですか、姫君! エイベル殿下も、まだお戻りでないなんて」



 皇子宮で待機していたティモシーもやってきて、不安げに尋ねる。



「ご安心を、殿下はお茶会の席にいらっしゃいますわ。わたくし、ひとり先に辞させていただきましたの。狩りをいたしましたので」


「か、狩り!? なぜ狩りなど……いや、それよりどうぞお手当てを」



 狼狽しつつも、ティモシーは懸命に気を取り直して一礼する。アンジェリカはうなずき、メルに付き添われて自室に入った。



「なんて怪我を……姫さま」



 血にれたベストとシャツを脱いで現れた傷に、メルは卒倒しそうになる。


 さほど深くはないが、牙に切り裂かれた範囲は大きい。これは痛いのも仕方ないな、とアンジェリカは苦笑気味に吐息するが、メルは半泣きだった。



「どんな理由かわかりませんけど、もう、こんな恐ろしい真似はなさらないでください。姫さまになにかあれば、メルは申し訳なさで後を追います」


「馬鹿をいわないで。死ぬような怪我じゃございませんわよ」


「お湯と着替え、お薬をお持ちしましたわ」



 侍女長もやってきた。自分で体は拭くというアンジェリカに、老練な彼女は断固として拒み、メルとともにてきぱきと手当てとせいしきを行う。温かなお湯で汚れた体を拭かれ、痛みはまだあってもアンジェリカはすっきりとした心地になった。



「こんなお時間にお戻りでしたら、ディナーはまだなのですね」



 どっと疲れが出てソファに横たわるアンジェリカに、侍女長が優しく尋ねる。



「よろしければ、かんたんにですがご用意いたします」


「けっこうですわ。侍女長さまのお手をわずらわせるなんて……」


「手などわずらっておりませんよ。姫さまがいつも旺盛に召し上がってくださるので、わたくしも作りがいがあります。傷を治すために、せめてスープだけでも」



 侍女長は労わる声でいうと、一礼して部屋を辞した。それを見送り、メルが不安もあらわにアンジェリカに願う。



「どうかベッドに横になってください。お食事はメルが運びます」


「ベッドで食事なんて、お行儀悪いのでございますわ。起きて食べますわよ」


「どうかお願いします。メルを安心させてください」



 メルの懇願に仕方なくベッドに横になる。まったく、これでは重病人のようだ。それでも馬車のなかの孤独を想うと、皇子宮のひとたちの優しさに胸が詰まった。


 戦いは独りでも、気遣ってくれるひとはいるのだ。


(……皇子にも、ちゃんとお礼をいわなくちゃ)


 きっと彼はアンジェリカを心配し、助けにきてくれたはずだ。怪我のことも気遣ってくれていた。なのにあんな不本意な結果にしてしまった……。


 獣を助けたのを間違いとは思わない。間違いというのなら、挑発に乗って狩りを引き受けた最初の選択。自分の力を過信し、過大評価したこと。


 無力が身に染みて、アンジェリカは目元を腕で覆って顔を隠す。


 もっと賢くなりたい。強くなりたい。


 自分が正しいと思う道を貫くための力が、いまはあまりに足りない。その力は、決して腕力でも暴力でもない、賢さと優しさのはずだ。


 離れ離れになった祖父を思い返す。


 スラムのあばら家の机で、常に本を読み、書きものをしていた姿。すさんだ町でも子どもたちに勉学を教える光景。彼を訪ねる多くの知識人たちと夜遅くまで様々な問題について語らい、客人たちが意見し合うのを見守る温かな横顔。


 そして、アンジェリカに向ける優しいまなざしと、思慮深い声……。


 貧しくも豊かだった生活のなにもかもが懐かしかった。


 祖父は元気だろうか。こんなとき、どんな助言をしてくれるだろうか。


 幼いときのように、打ちひしがれるアンジェリカを抱きしめてそっと背中をでてほしい。なにも心配することはないよと、慰めてほしかった。


(お祖父ちゃん……)


 だがもう、自分は二十二歳の大人だ。自身の力でこの苦境を脱していかなくてはならない。濡れた目元をこぶしでぬぐい、アンジェリカは目を閉じた。


==========

気になる続きは、明日9月29日更新!

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