第四章 張り合ったわたくしが、愚かでした(3)
「ええっと……餌場はあちらの方角、か」
そのころ、アンジェリカは木々のあいだに身をひそめていた。
事前に借りた地図を広げ、ざっと目を通すと、ジャケットの内に戻す。地図からすれば、狩場はさほど広くはなくほぼ平地で、それほど複雑ではなかった。
「まさか、狩りをするなんてね」
皇子宮での厚待遇と、先ほどの花々で飾られたあでやかな茶会の場を思い返し、アンジェリカは苦笑する。こんな薄暗い森とは雲泥の差だ。
しかし、果たして無事に狩れるだろうか。戦闘訓練は受け、武器はひととおり扱える。スラムでは何度もその腕で危機を乗り越えてきた。だが知識はあっても狩り自体は未経験。人間の思考の通じない獣と、どう戦えばいいのか。
アンジェリカは静かに下生えを踏みつけ、弓を握り締めて進む。
矢には神経毒が塗られ、当たれば動きを止めることができるが、効き目が出るまで時間がかかる。追いつめられれば、獣はきっと思いもかけない動きをするはず。
毒で弱っても、こちらの読みが通らないならばいっそう危険だ。
(狩人は、足跡や
餌場があるなら、そこにたむろしている可能性は大だ。まずはそこを目指す。
木々で視界は悪く薄暗い。いつ物陰から危険な獣が飛び出してくるか、緊張が抜けない。勢子がいれば、狩人の近くまで獣を追い立ててくれるのに。
冷たい汗がシャツの下で肌を流れ落ちる。気持ち悪さをこらえ、アンジェリカは耳をそばだて目を凝らし、気配を全身で探る。
「……っ!」
はっと足を止めた。少し開けた地面にいくつかの獣の足跡があるのを見つけたのだ。よくよく見なければくぼみとしか思えない跡だけれど。
餌場は間近のはず。だが耳を澄ましても鳴き声どころか、気配も感じられない。
頭上を仰ぐと、よく茂った梢が目に入った。はたとひらめき、アンジェリカは弓を背負って跳躍、幹に飛びつきするすると登った。
梢に身をひそめ、矢を抜いてつがえる。
不安定な足場だが、小さな泉のそばにある餌場が見下ろせた。おりしも青みを帯びた黒い毛並みの青鹿の親子が、飼い葉
アンジェリカはわずかに肩の力をゆるめる。青鹿なら逃げ足は速いが性質は穏やか。こちらが仕掛けなければ危険はない。
だがそのとき、青鹿の親子がぱっと頭を跳ね上げ、跳躍して木立のなかへ逃げていく。目をやれば、反対側の木立から獣が歩んでくるのが見えた。
鋭く長い牙に焦げ茶の剛毛、ずんぐりした体に金色の瞳──牙猪だ。
大きさは中型か。青年期手前の血気盛んな頃合いのようだ。
アンジェリカは身をこわばらせる。頭のなかで、祖父の知り合いの猟師から聞いた話や、本から得た知識を必死に手繰り寄せる。
草食だが凶暴な性質。実のなる木に体当たりして木の実を落として食べるが、あまりの突進のすさまじさに幹を倒すことがある。深い森には背丈が人間の二倍、幅は三倍以上にもなる牙猪が生息しているらしい。
その威容に様々な伝承で英雄の敵となった獣……つまりは、
アンジェリカは息を吞み、矢をつがえて茂る葉のあいだから目を凝らす。
牙猪は飼い葉桶に牙の生えた鼻づらを突っ込み、餌の残りを探っている。だが先の青鹿の親子が漁って残りはわずからしい。牙猪は
距離よし、風もない。機を逃さず、アンジェリカは矢を放った。
一本目は外れ、獲物の後方の地面に突き刺さる。幸い気付かれなかったが、悔しさに唇を嚙んですぐに二本目をつがえる。
いつ動くかもわからない的だ。弓を斜めにかまえ、視界を確保。牙猪はいまだ苛立ちを飼い葉桶にぶつけている。哀れな桶は
いまだ、とアンジェリカは矢を放つ。
見事、牙猪の尻に矢は突き立った。痛々しい獣の悲鳴が森に響き渡る。即座に二本目を撃ち放った。今度は背中に刺さるが牙猪は暴れ、いきなりアンジェリカが隠れる木を目がけて走り出した。
危険だ、と素早く察してアンジェリカは梢から飛び降りようとする。
だがすさまじい速度で牙猪は木に突進した。
「あっ!」
梢まで揺らす激しい衝撃にたまらずアンジェリカは落下しかける。とっさに枝をつかみ体勢を立て直して着地、地面に叩きつけられるのは避けた。
だが痛みに我を忘れた牙猪がすかさず突進してくる。危うく飛び退るが再び獣はアンジェリカに向き直り、しゃにむに突撃してきた。
アンジェリカはこん棒を引き抜いて握る。土煙を上げて獣が肉薄する。
すかさず体をひねって避け、通り過ぎるすさまじい風圧目がけて勢いよくこん棒を振り下ろす。毛皮で剣のダメージは通りづらい。弱らせるには打撲が最適だ。激しい一打に獣の足がわずかに揺らいだ。アンジェリカはこん棒を手に体勢を立て直す。
ふいに脇腹に、鋭く焼ける痛みを感じた。
目を落とせば、ベストが裂かれて血がにじんでいる。赤黒い色に、思わずアンジェリカは息を吞んだ。いまの通りすがりにやられたのか。かすめただけで切り傷を加えられるなら、突進をもろに受けたら間違いなく
いつ、矢の毒が効くのか。アンジェリカは流れる冷や汗を意識する。
牙猪は足を踏みしめ、三度こちらへ牙を向けた。森の梢から落ちる陽光に、鋭い切っ先が鋭く光る。人間などものともしないというように。
こちらはひとり、しかも傷を負っている。どこまでやれるか。
恐れ知らずのアンジェリカも、我知らず息を吞む──。
そのときだった。
突如、空気を震わせる甲高い音とともに矢が飛来した。
いまだ、とアンジェリカは跳躍し、こん棒を振りかぶる。
獣は口から泡を吹いて倒れかかる。だがそれでも足を踏ん張り、前脚で地をかいて向かってこようとする。アンジェリカは二打目を放とうとして──足を止めた。
「なぜ、ひるむ」
後方から冷ややかな声が飛んだ。はっと肩越しに見やれば、木立のあいだから矢筒を背負い、弓を手にしたエイベルが歩んでくる。
「殿下、なぜここに!?」
「とどめを。あと一撃でその獲物は君のものになる」
問いかけに答えず、エイベルは冷徹にいった。アンジェリカはこん棒を握り締め、唇を引き結んで獣を振り返る。
牙猪は剛毛に包まれた背中を上下させ、泡を吹きつつも金の瞳でアンジェリカを見据えている。伝承にも
「この獣は弱っていますわ。……追い打ちをかけなくても」
「弱っているのは毒のためだ。抜ければまた襲ってくる。早くとどめを」
耳を打つ冷徹な言葉に、アンジェリカはこぶしを握る。その目の前で、牙猪はついに脚を折り、どうと地響きを上げて地面に倒れた。
泡を吹いて震えているが、エイベルの言葉どおりに毒で弱っているだけで、まだ命はあった。とどめを刺すならいまだ。腰にはナイフもある。しかし──。
「……わたくしが間違っていましたわ」
弱々しくつぶやいて、アンジェリカはこん棒を腰に納める。
「食料として血肉にするために狩るならともかく、貴族の
「馬鹿な。これをやり遂げれば君の望みに近づくんじゃないのか」
エイベルが𠮟りつけるように声を上げる。
「これはただの獣だぞ、人間と同等に考えるのか!」
「この獣は痛みを感じて苦しんでるの、人間とおなじに!」
激しく振り返り、強い口調でアンジェリカはいった。
「やっぱり貴族連中はいけ好かない、自分以外の存在の痛みまで娯楽なんて。生まれたときからそんな扱いだったわたしも、この獣とおなじ」
「……なんだと」
絶句するエイベルをよそに、アンジェリカは牙猪のかたわらに膝をつくとぐっと矢を引き抜き、ハンカチを当てて止血する。
エイベルは黙って見ていた。見ているしかできなかったのかもしれない。
手当てを終えて、アンジェリカは立ち上がって背を向ける。
「貴方を自由にするならべつのやり方を考える、ごめんなさい」
「! 待て、君は怪我をしているのか!?」
らしくなく焦る声が呼び止めるが、アンジェリカは言葉少なに返す。
「大丈夫ですわ」
「大丈夫にはとても見えない。駄目だ、手当てしてくれ、どうか頼む!」
必死の声が追いすがるが、アンジェリカは振り返らない。「アンジェリカ!」と泣きそうな声が背中を打った。まるで捨てられた子どもがすがりつくようで、ふだんの冷淡さはどこにもない。それでもアンジェリカは応えずに歩いていく。
無言で歩きつつも、罪悪感に似た想いで胸がうずく。その胸の痛みと、脇腹の
唇を嚙み、森の出口へとわき目もふらずアンジェリカは歩いていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます