第二章 この結婚、ぶち壊したいんですの(4)
◆
青い海と港が間近の下町は、種々様々な匂いがした。
人混みのなかで、くん、とアンジェリカは鼻をうごめかす。
もちろん心地よいものばかりではない。下水道は完備されていても清掃や管理が不充分らしく、ときおり潮の匂いに混じって鼻をつくいやな臭いもした。
だが露店で売る揚げ菓子の甘い香りや、スパイスの効いた
今日の彼女は、汚れた男物の服と目深にかぶった帽子で美貌を隠している。皇子宮に出入りの商人から秘密裏にこの服を調達し、さらにその商人の下働きに
メルがいるから逃亡の恐れはないと、エイベルはこんな突飛な行動もゆるしたのだろう……たぶん。あの冷ややかな皇子の考えは、まだよくつかめないけれど。
「これをひとつ!」
アンジェリカは露店のひとつに歩み寄り、いい香りのする揚げ菓子を買い求めた。新聞紙に包まれて手渡される菓子を受け取って、ひとつ頰張りながら油の染みる新聞紙を斜め読みする。
『日刊マグナフォート』
当たり障りのない名前の新聞だが、記事内容はいわゆる低俗なゴシップ紙。
扱っているのは信ぴょう性の不明なニュースばかり。貴族や皇族、資産家の醜聞が中心だ。これがノルグレンならすぐに発行停止に追い込まれていただろう。だが皇国では、とりあえずお目こぼしされているらしい。民衆のガス抜きのためか、単に政府が民衆に目を向けていないだけか。
あるいはゴシップに徹して、政府の政策自体には触れていないせいか。
「……やっぱりね」
記事の署名を見てつぶやくと、アンジェリカは雑踏のなかを歩き出す。
皇国の下町は、閑静な皇子宮と違い、ひとの声と行き来にあふれている。活気ある様子に、アンジェリカはふと故郷を思い起こす。
ノルグレンのスラムは、ひとが住める場所ではなかった。
祖父には支援者がいて、そのおかげで屋根のある家にも住めて、まともな食事が
下町には、物乞いや、市場や店の残飯を
もちろん、盗みのために訪れた仲間もいた……。
アンジェリカ自身は犯罪に手を染めたことはない。何度も仲間を止めて、そのたびに
そうまでしても、彼らを止められたことなんてなかったけれど。
思い返すだけで胸が苦しくなる。貧富の差が当たり前なんて、上にいる輩の言葉だ。踏みつけにされるものがいて成り立つ〝この世の真理〟なんて、馬鹿げている。
胸痛む記憶を思い返しながら、アンジェリカは歩きつづける。
古い城下町だけあって道は入り組んでいたが、街角に刻まれる番地のプレートを頼りに、やがてとある古いレンガ壁の建物にたどりつく。
『日刊マグナフォート社』
戸口に掲げられた看板をたしかめ、アンジェリカはドアを押し開ける。
「失礼する」
内部は雑然としていた。書類や本が積まれた机に埃っぽく、嚙み
「なんだ、小僧」
いきなり入ってきたアンジェリカに、入口近くの席の若い男が腰を上げた。
「〝囲い職人〟こと、トーバイアス・ミラーはいる?」
気にせずアンジェリカは話しつづける。男は眉をひそめて答えた。
「そんな名前のやつはこの社にはいない。帰れ」
「うそだよね。いるだろ、トビー!」
アンジェリカはうずたかく本が積み上がる奥の机に呼びかける。
「どういうことだ。なんだおまえ。なぜその名を……」
本の山の向こうから熊のような濃い
「おまえ、まさか……!? 待て、待て待てまて! こっちだ」
中年記者はアンジェリカの背を押して隣の小部屋へと導くと、鍵を締めた。
「なにをしにきた、ジェリ。おまえがスラムから連れていかれて、皇国の皇子と結婚したのは聞いていたが、まさかここに訪ねてくるなんて」
「ジェリって呼び名は懐かしいよ、トビー。子どものころ以来かな」
焦ってまくしたてる髭男に、アンジェリカは嬉しそうに返す。トビーこと髭男はますます焦る顔になった。
「おまえが回らない口でジェリって自己紹介したんだろ。じゃなくって、なぜここに? 第一皇子の宮にいるんじゃないのか。というか、よく俺の居場所が」
「トビーが皇国の記者だってのはお祖父ちゃんから聞いてた。ペンネームも」
新聞紙の袋からべたべたした揚げ菓子をつまんでもぐもぐしつつ、アンジェリカは話をつづける。
「囲い職人はペンネームのひとつだよね。手がけた記事は、ほぼ政府の醜聞か政策の糾弾記事。本名を隠すのは上から目をつけられないため。政治学者の祖父を訪ねてきたのも、他国の政治情勢や形態を研究してたから、だったっけ」
「俺のことはいい。それよりおまえだ」
困り顔で、トビーは太い人差し指をつきつける。
「おまえ、いまや皇子妃だろう。スラムにいたころとおなじに、そんな平民みたいにふらふら出歩いて大丈夫なのか?」
「そこは事情があるの。今日は
アンジェリカは帽子の陰でにやっと笑う。トビーは顔をしかめた。
「どうせろくな頼みじゃない。やめろ」
「ここの仕事だって高尚なものじゃない。記事はどれも低俗で信ぴょう性の薄いゴシップばかり。政府に物申すかつての剣のごとき鋭いペンはどうなったの?」
「そういうのがウケるんだよ」
「ごまかさなくてもいいよ。そういう低俗な記事のなかに……わかるひとにだけわかる情報を隠してる」
でしょ? とアンジェリカが片目をつぶると、トビーは髭に埋もれる口をつぐみ、ややあって頭をかきながらぼやいた。
「……俺になにを要求するつもりだ」
根負けしたような問いに、アンジェリカは悪い笑みを浮かべる。
「第一皇子の結婚相手の悪い評判を流したい」
「はあ? つまり、おまえ自身の中傷をってことか? どういう意図だ」
「それに加えて、これが重要なんだけれど」
トビーの言葉をさえぎるアンジェリカの笑みは、いっそう楽しそうになる。
「わたしを、記者として雇って」
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気になる続きは、明日9月25日更新!
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