第二章 この結婚、ぶち壊したいんですの(4)




 青い海と港が間近の下町は、種々様々な匂いがした。


 人混みのなかで、くん、とアンジェリカは鼻をうごめかす。


 もちろん心地よいものばかりではない。下水道は完備されていても清掃や管理が不充分らしく、ときおり潮の匂いに混じって鼻をつくいやな臭いもした。


 だが露店で売る揚げ菓子の甘い香りや、スパイスの効いたいたにくをパンに挟んだ軽食の香りなどは、昼間近とあって空腹を刺激される。


 今日の彼女は、汚れた男物の服と目深にかぶった帽子で美貌を隠している。皇子宮に出入りの商人から秘密裏にこの服を調達し、さらにその商人の下働きにふんして荷馬車に便乗して抜け出してきた。むろん、エイベル皇子の黙認のもとに。


 メルがいるから逃亡の恐れはないと、エイベルはこんな突飛な行動もゆるしたのだろう……たぶん。あの冷ややかな皇子の考えは、まだよくつかめないけれど。





「これをひとつ!」



 アンジェリカは露店のひとつに歩み寄り、いい香りのする揚げ菓子を買い求めた。新聞紙に包まれて手渡される菓子を受け取って、ひとつ頰張りながら油の染みる新聞紙を斜め読みする。


『日刊マグナフォート』


 当たり障りのない名前の新聞だが、記事内容はいわゆる低俗なゴシップ紙。


 扱っているのは信ぴょう性の不明なニュースばかり。貴族や皇族、資産家の醜聞が中心だ。これがノルグレンならすぐに発行停止に追い込まれていただろう。だが皇国では、とりあえずお目こぼしされているらしい。民衆のガス抜きのためか、単に政府が民衆に目を向けていないだけか。


 あるいはゴシップに徹して、政府の政策自体には触れていないせいか。



「……やっぱりね」



 記事の署名を見てつぶやくと、アンジェリカは雑踏のなかを歩き出す。


 皇国の下町は、閑静な皇子宮と違い、ひとの声と行き来にあふれている。活気ある様子に、アンジェリカはふと故郷を思い起こす。


 ノルグレンのスラムは、ひとが住める場所ではなかった。


 祖父には支援者がいて、そのおかげで屋根のある家にも住めて、まともな食事がれたが、ほかの子どもたちは食うや食わず。アンジェリカは空腹をこらえ、乏しい食事を友だちと分け合ったものだ。


 下町には、物乞いや、市場や店の残飯をあさるために友だちと訪れた。


 もちろん、盗みのために訪れた仲間もいた……。


 アンジェリカ自身は犯罪に手を染めたことはない。何度も仲間を止めて、そのたびにけんになった。食事だけでなくなけなしの小遣いを渡したりもした。


 そうまでしても、彼らを止められたことなんてなかったけれど。


 思い返すだけで胸が苦しくなる。貧富の差が当たり前なんて、上にいる輩の言葉だ。踏みつけにされるものがいて成り立つ〝この世の真理〟なんて、馬鹿げている。


 胸痛む記憶を思い返しながら、アンジェリカは歩きつづける。


 古い城下町だけあって道は入り組んでいたが、街角に刻まれる番地のプレートを頼りに、やがてとある古いレンガ壁の建物にたどりつく。


『日刊マグナフォート社』


 戸口に掲げられた看板をたしかめ、アンジェリカはドアを押し開ける。



「失礼する」



 内部は雑然としていた。書類や本が積まれた机に埃っぽく、嚙み煙草たばこの鼻をつく臭いがただよっている。狭い社屋に、従業員はわずか数名。



「なんだ、小僧」



 いきなり入ってきたアンジェリカに、入口近くの席の若い男が腰を上げた。



「〝囲い職人〟こと、トーバイアス・ミラーはいる?」



 気にせずアンジェリカは話しつづける。男は眉をひそめて答えた。



「そんな名前のやつはこの社にはいない。帰れ」


「うそだよね。いるだろ、トビー!」



 アンジェリカはうずたかく本が積み上がる奥の机に呼びかける。



「どういうことだ。なんだおまえ。なぜその名を……」



 本の山の向こうから熊のような濃いひげの男が立ち上がった。アンジェリカが帽子をわずかに上げて紅い瞳を見せると、髭男は大きく目を開く。



「おまえ、まさか……!? 待て、待て待てまて! こっちだ」



 中年記者はアンジェリカの背を押して隣の小部屋へと導くと、鍵を締めた。



「なにをしにきた、ジェリ。おまえがスラムから連れていかれて、皇国の皇子と結婚したのは聞いていたが、まさかここに訪ねてくるなんて」


「ジェリって呼び名は懐かしいよ、トビー。子どものころ以来かな」



 焦ってまくしたてる髭男に、アンジェリカは嬉しそうに返す。トビーこと髭男はますます焦る顔になった。



「おまえが回らない口でジェリって自己紹介したんだろ。じゃなくって、なぜここに? 第一皇子の宮にいるんじゃないのか。というか、よく俺の居場所が」


「トビーが皇国の記者だってのはお祖父ちゃんから聞いてた。ペンネームも」



 新聞紙の袋からべたべたした揚げ菓子をつまんでもぐもぐしつつ、アンジェリカは話をつづける。



「囲い職人はペンネームのひとつだよね。手がけた記事は、ほぼ政府の醜聞か政策の糾弾記事。本名を隠すのは上から目をつけられないため。政治学者の祖父を訪ねてきたのも、他国の政治情勢や形態を研究してたから、だったっけ」


「俺のことはいい。それよりおまえだ」



 困り顔で、トビーは太い人差し指をつきつける。



「おまえ、いまや皇子妃だろう。スラムにいたころとおなじに、そんな平民みたいにふらふら出歩いて大丈夫なのか?」


「そこは事情があるの。今日はむかしみと祖父のよしみで頼みがあってきた」



 アンジェリカは帽子の陰でにやっと笑う。トビーは顔をしかめた。



「どうせろくな頼みじゃない。やめろ」


「ここの仕事だって高尚なものじゃない。記事はどれも低俗で信ぴょう性の薄いゴシップばかり。政府に物申すかつての剣のごとき鋭いペンはどうなったの?」


「そういうのがウケるんだよ」


「ごまかさなくてもいいよ。そういう低俗な記事のなかに……わかるひとにだけわかる情報を隠してる」



 でしょ? とアンジェリカが片目をつぶると、トビーは髭に埋もれる口をつぐみ、ややあって頭をかきながらぼやいた。



「……俺になにを要求するつもりだ」



 根負けしたような問いに、アンジェリカは悪い笑みを浮かべる。



「第一皇子の結婚相手の悪い評判を流したい」


「はあ? つまり、おまえ自身の中傷をってことか? どういう意図だ」


「それに加えて、これが重要なんだけれど」



 トビーの言葉をさえぎるアンジェリカの笑みは、いっそう楽しそうになる。



「わたしを、記者として雇って」


==========

気になる続きは、明日9月25日更新!

『薔薇姫と氷皇子の波乱なる結婚』は、メディアワークス文庫より9月25日発売!




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