第一章 逃げてやりますわよ、こんな結婚から(2)

「女王陛下、アンジェリカ王女殿下のご出立を確認いたしました」



 王宮の私室で侍従の報告を受け、オリガ女王はいかついあごでうなずく。



「よろしい。せんな血の混じるかまびすしい娘だったが、これで少しは役に立つ」



 オリガ──北の強国ノルグレンを治める女王。亡き前王の正室の娘であり、アンジェリカの腹違いの姉。重たげなドレスにがっしりした体を包み、威厳はあっても華やかさからはほど遠く、薔薇姫と呼ばれる妹とはまったく似ていない。


 ただひとつ、苛烈な光をたたえる紅い瞳以外は。



「ダニール」



 女王はかたわらに控える少年を振り返る。毛皮のケープを肩にかけた、美しい顔立ちで線の細い少年は、声をかけられて身を固くした。



「叔母であるあの娘を姉のように慕っていたらしいが、勘違いをするな。ノルグレン王国を継ぐのは私の息子であるおまえだ。それ以外の血はすべて私の手駒」



 岩のような厳格さでいい放つ女王に、少年はおずおずと問う。



「姉さま……いえ、アンジェリカ姫が大人しくしていると、お思いですか」


「むろんのこと。相手は皇国の〝氷皇子〟」



 オリガは薄い唇をゆがませる。まるで、岩に亀裂が入ったように。



「冷酷な母殺しだ。炎の薔薇とて凍るだろうよ」




 ──聖テラフォルマ大陸のかつての覇者、いまは衰退して狭い半島を治める一国に過ぎないマグナフォート皇国。


 そして、この十数年のあいだに台頭してきた北方の強国、ノルグレン王国。


 二国が公表した婚姻による同盟は、大陸の諸国に驚きをもたらした。


 縁組するのは、皇国の第一皇子エイベルと、ノルグレンのアンジェリカ姫。


〝氷皇子〟と呼ばれるエイベルは、立太子の式こそ経ていないものの、現状では第一皇位継承権の持ち主。


 一方、アンジェリカは庶子姫だ。亡き前王の隠し子で現女王オリガの異母妹の彼女は、スラムで生まれ育ったとのうわさがある。


 二者の血筋と育ちも、国力の差も、明らかに釣り合わない。いったいなぜノルグレンは、いまや半島の小国でしかないマグナフォートと同盟を結ぼうと考えたのか。


 むろんそこには、とある理由があった。




(……そろそろ、逃亡ポイント)


 山道で揺れる馬車のなかでアンジェリカは息を詰めて窓をうかがう。


 彼女が乗る馬車は、二頭仕立ての簡素な黒の馬車。付き従うのも向かいの席に座る侍女と御者のみ。とても王族の輿こしれとは思えない。


 しかも近年開通した大陸横断の汽車でなく、窮屈な馬車と川を下る船という長く苦しいルート。汽車なら到着まで三日の距離を、一ケ月はかける。それもこれも、この結婚に反対するノルグレンの豪族たちの目から隠れるためと、そして……。


 アンジェリカはそっと唇をむ。


(あの、忌々しい異母姉の嫌がらせ)


 世間のうわさどおり、アンジェリカはノルグレンのスラム出である。


 祖父は、亡き前王のお抱え政治経済学者。王宮の一角に娘とともに住んでいたところ、その娘に前王の手がついて……という経緯。前王妃のげきりんに触れて祖父は解雇され、身重の娘とともに王宮をたたされてスラムへ追いやられた。


 病弱だった母はアンジェリカを産んで、ほどなく亡くなった。祖父とおなじくそうめいで読書家と聞かされただけで、アンジェリカは母の顔も声も覚えていない。


 悲惨な生まれ、スラムの貧しい暮らし。


 しかし、学識高く国際的にも名が知れた祖父は、諸外国の学者と親交があった。彼の教えを乞い、学論を戦わせるためにスラムのあばら家を多くの者が訪れた。


 学者だけでなく、お忍びの王族や貴族、騎士やようへい、新聞や雑誌の記者もいた。


 彼らがもたらす、わくわくするような各国の情勢や情報。幼いころから祖父のかたわらで、アンジェリカは目を輝かせて耳を傾けてきた。


 祖父が開く青空塾で、スラムの子どもたちと並んで学んだ。祖父の友人の学者からも学問を学ぶ一方で、腕に覚えのある騎士や傭兵に稽古をつけてもらい、戦術やサバイバル術も教えられて、アンジェリカは文武両道に育った。


 衣食住にも事欠く貧しさでも、なにより代えがたい豊かな生活だった……。


 なのに──ある日、王宮から派遣された兵士の一団にスラムを取り囲まれた。


〝いやしい血だが、それでも王族の一員。王宮にて相応の教育を受けさせる〟


 祖父とアンジェリカが暮らすあばら家の前で、オリガ女王から遣わされたという兵団は、居丈高な宣告を突き付けた。


〝抵抗するならばスラムごと焼き払えと、女王陛下は仰せである!〟





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