第一章 逃げてやりますわよ、こんな結婚から(3)
(お
思い返すだけで胸が詰まり、アンジェリカは唇を嚙む。
連れていかれたノルグレンの王宮は、まさに敵地だった。
狭く冷たい石造りの部屋。
手駒として他国へ嫁がせるくせにその仕打ち。いや、手駒だから死なない程度の待遇で充分だと考えたのだろう。この輿入れだって、まるで囚人の護送だ。
(ふつうに考えれば、嫁がされるほうがはるかにマシ、なんだけど)
こっそりとアンジェリカは吐息する。
マグナフォート皇国のエイベル皇子といえば、あまりに悪名高い。
アンジェリカより三歳下の十九歳だが、その若さで冷酷さは他に比類ないという。
いわく、まだ十三歳のときに実の母をその手で殺した。血にまみれて命乞いをする母を追いかけ、無残に剣で切り殺したのだとか。
いわく、ほんのささいな粗相をした従僕たちを
さらに、きわめつけ。これまで国内の貴族たちより迎えた何人もの花嫁をひん死にして追い出した……とか。
あまりの蛮行に、皇帝から皇子宮に
厳罰に処されないのは、第一皇子という身分ゆえだろう。
とはいえ、そんな話のどれだけが尾ひれかはわからない。うわさなんて、ほんの小さな種火を面白おかしく
皇国から送られてきた皇子の肖像画を、アンジェリカは思い返す。
白銀の髪に、鋭く陰鬱な青い瞳をした青年。たしかに評判どおりの美貌だが、あの絵からは美しさより先に身震いするような冷たさが感じられた。結婚相手に送る肖像画でも取り繕えないほど、皇子の冷酷さはにじみ出ているというのか。
前門の冷酷皇子、後門の横暴女王。進路も退路も憂鬱だ。
「メル、ご気分は大丈夫でございますかしら?」
気遣う言葉をかけると、メルと呼ばれた侍女は
「申し訳ありません、姫さま。おめでたいお輿入れの道中なのに」
「無理しないでいいんですわよ。同郷のわたくしの前では気楽になさって」
大仰な言葉遣いで、アンジェリカは
メルはスラムの孤児で養護施設育ち。下級貴族に引き取られて王宮に出仕した。
おなじスラム出といっても顔見知りではないが、その出自からアンジェリカの侍女となり、いまでは唯一心をゆるせる相手になっている。
「そもそも、なにひとつおめでたくないんでございますですわ、こんな結婚」
アンジェリカはむっつりとつぶやく。
「勝手にお祖父ちゃ……お祖父さまとお母さまを王宮から追いやっておいて、使えそうだからと無理やり王宮へ連れてこられたんでございますですのよ」
「アンジェリカさま、その言葉遣いは、少々……」
苦しそうにしつつもメルがたしなめるので、アンジェリカは唇を
「わかってますですわよ、大げさでおかしいというのでございますわよね。ですけれど、仕方がないじゃございません?」
「たった三年でスラム育ちが変われるわけがございませんですわ」
などとと不満を並べる口をつぐむ。愚痴をいっている暇などない。
「メル。あとは頼みますわよ」
表情を引き締めてアンジェリカがいうと、メルは青い顔でうなずく。
「……迷惑をかけてしまいますわよね」
「いえ、わたしがお手伝いを申し出たのです」
「それでも、この案を考えたのはわたくしですわよ」
アンジェリカは謝罪のように、忠実な侍女であり友人である彼女の手をそっと握った。脳裏に、
逃亡の気持ちを打ち明けたのはメルと、甥のダニールのみ。叔母のアンジェリカを姉とも慕ってきたダニールは、再びともに暮らせると喜んでくれた。だが、虜囚にも等しいノルグレンの生活に戻るつもりなど毛頭ない。
ダニールへの罪悪感が胸をかすめるが、すぐにそれを振り捨てる。
「わたくしの逃亡は、気分が悪くて止められなかったと伝えるんですわよ。その顔色の悪さならさすがにただの言い訳とは思われないはずですわ」
といってアンジェリカはドレスの胸元に手をかける。リボンで編み上げた前はゆるめてあったのかすぐにほどけていく。
馬車の床にばさりとドレスが落ちた。その下は薄汚れた上衣とズボンという男装姿。ところどころ土がついているのを見ると、元は庭師か農民の服のようだ。
「……速度が落ちましたわね」
山道はいよいよ険しくなり、客車はがたがたと大きく揺れている。
アンジェリカは懐から毛糸の帽子を取り出すと、深くかぶって目立つ赤毛と美貌をかくす。御者席との連絡用の小窓は戸が閉められて、気付かれる心配はない。
扉の取っ手に手をかけ、小さく開く。よし、外から鍵はかけられていない。
がくん、と馬車が大きく揺れた。その拍子にいっそう速度が落ちた。
──いまだ!
アンジェリカは客車の扉を開き、身を低くして飛び降りる。
速度が落ちていたといっても走る馬車からの脱出、衝撃は避けられない。強く地面に叩きつけられるが、体を丸めてショックをやわらげた。素早く身を起こして即座に草むらに隠れ、山道を登っていく客車を見送ってから、下る方角へ走る。
夜になる前に近くの村へたどりつき、陸路でノルグレンのスラムへ向かう計画。
祖父のもとまで帰りつければ、その
上衣の胸元を押さえる。内側に縫い付けたポケットのなかには、こっそり持ち出した宝石や金貨が入っていた。路銀も充分。
急げ、急げ。
「ッ!?」
だが、はっと足を止める。
下り道の先から現れたのは、剣を下げた数名の兵士。
うそ、と振り返れば、やはり何人もの兵士が山道を下りてくる。彼らはメルを両脇に囲んでいた。大きく目をみはるアンジェリカへと兵士たちは歩み寄る。
「なんとか、間に合いましたな」
隊長らしき、
「途中の街から連絡があったのです。山中で、姫が脱走すると」
思わずアンジェリカは息を吞んでメルを凝視した。
「も、申し訳……ございません」
メルは身を縮めて頭を下げる。
「姫さまに怪しい動きがないか報告せよと。でなければ……養親を捕らえると」
ぐっとアンジェリカは体の陰でこぶしを握り締める。
オリガ女王の差し金か。どこまでも抜け目なく
「目立たぬよう護衛をつけなかったのが
悔しげに唇を嚙むアンジェリカへ、隊長が告げる。
「この山を越えればマグナフォートの領国。皇都まで護送いたします」
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