第一章 逃げてやりますわよ、こんな結婚から(4)




 皇子宮の廊下で、エイベル皇子は壁にかけられた肖像画を見上げていた。


 それは、アンジェリカを描いた絵。


 姿をそのまま映す写真機が開発されているのに、いまだ上流階級では結婚相手の肖像画を送り合う風習が残っている。



「……無駄なことを」



 冷ややかな声でエイベルはつぶやく。


 エイベル・ディ・アージェントン・マグナフォート。


 マグナフォート皇国の第一皇子、弱冠十九歳。


 陽の光にきらめく白銀の髪、氷河のようにえとしたへきがん、細身だがしなやかな筋肉を秘めた体──〝氷皇子〟のあだ名にふさわしい容姿。


 しかしこの皇子宮は、第一皇子の住まいにしてはいささか狭く、貧相だ。


 マグナフォートは、かつて大陸のほぼ八割を制した偉大なる国。皇帝の住まう皇宮の広大さやきらびやかさ、納められた数々の芸術品は数知れない。


 なのに、ここの調度品はごくわずか。部屋数も少なく、食事用の広間と皇子の私室と客室、使用人一家の居室以外は、庭の倉庫だけ。


 掃除は行き届いているが、壁や床は黄ばみ、壁の絵画も傷んでいる。華やかなアンジェリカの肖像画のみが真新しく、宮殿とも呼べない住まいを飾るのみだ。



「いつ拝見しても、お美しい方ですね!」



 皇子の一歩背後に控える金髪の青年騎士が口を開く。主の冷たさとは裏腹に、剣を提げた青年騎士はくったくのない口調だ。



「絵ならいくらでも誇張できる」



 冷淡にエイベル皇子はいうが、青年騎士は率直な態度でつづける。



「ですけど、うそは描きがたいでしょう。こんな華やかな方が殿下のご伴侶なんて喜ばしいですよ。その……いままでは、ご不幸なめぐり合わせばかりでしたから」


「楽観もはなはだしい、ティモシー。問題は中身、外見など無為だ」



 ばっさりと切り捨てられ、ティモシーと呼ばれた騎士は困り顔になった。



「せっかくのおめでたい結婚前なのに、殿下」


「あのノルグレンがただで花嫁を送り込むと思うか」


「まさか……なんらかの思惑があるはず、とおっしゃるんですか」


「ティモシー。この〝美しい〟姫はノルグレンのかんちようと同類だ。そんなやからと添うのは蛇とのどうきんに等しい。いいか、僕の指示があれば」



 エイベルの冷たいまなざしが、刃の鋭さを秘める。



「──殺せ」



 青年騎士は青ざめて身をこわばらせる。エイベルは冷淡に告げた。



「おまえができなければ、僕がやる」


「……いいえ! おれは殿下の手足です。ご命令どおりに、きっと」



 ティモシーは顔を引き締め、胸にこぶしを当てて一礼する。



「殿下、先触れがございました」



 ふたりの会話の空白に、年老いた侍従が歩み寄って頭を下げる。


 しわの寄った柔和な面差しはティモシーに似ていた。どうやら父子らしい。



「間もなく、アンジェリカ王女殿下が皇子宮前にご到着とのことでございます」



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