第一章 逃げてやりますわよ、こんな結婚から(5)

 馬車の停止に、ほっとアンジェリカは息をつく。


 ノルグレン王国をってから、約一ケ月近く。長かった。本当に長かった。途中、何度も逃亡を試みたけれど、護衛の兵士たちの警戒は一度もゆるまなかった。


 アンジェリカはこみ上げる悔しさに歯を食いしばる。


 それなら最初から、目立たないためなんていわずに護衛をつければよかったのに。いや、あの抜け目ないオリガ女王のこと。逃亡が成功したと思わせてぬか喜びさせ、こちらの心をくじけさせようとしたのかもしれない。



「やっとの到着ですわね。向こうの迎えを待つのが作法でございますの?」


「……どうして、いまだわたしをおそばに置くのです」



 客車の向かいに座るメルが、不安げなまなざしで尋ねる。顔色が悪いのは、長旅の疲れだけではなさそうだ。



貴女あなた以外の侍女は連れてきていませんですもの」



 大仰な言葉づかいでアンジェリカは答える。



「皇子が新たな侍女をつけてくださるかもしれませんけれど、同郷で信頼のおけるメルにお世話をお願いしたいと思いますわ。知らない国での新生活ですものね」


「ですが、その同郷のわたしに裏切られたのですよ!」



 声を上げるメルに、アンジェリカは苦笑した。



「さすがに二度も三度も裏切る……といういい方は好きではございませんけれど、そんなことはしないと信じていますもの」


「……アンジェリカさま」


「貴女は家族を人質に取られたようなものですわ。いうなりになる以外になかったはずですわよ。そんな貴女を責めたりなどできませんわ」



 アンジェリカはメルの手に自分の手を重ねる。やわらかく、温かく、彼女の手を包む。メルは感極まったように涙ぐんだ。アンジェリカは優しくほほ笑み返す一方で、内心ではオリガ女王への憤りがますますかき立てられる。



「身内を人質に取られる苦しみは、よく理解できましてですわよ。わたくしだってスラムを焼くぞと脅されて王宮に連れてこられたのですもの」



 それに、とこっそりアンジェリカは思う。


(これ以上、敵に囲まれたくないもの)


 いまから踏み込むのは、母殺しで残忍な〝氷皇子〟の宮殿なのだから。



「姫さま、お迎えが見えたようです」



 メルの声にアンジェリカは顔を引き締める。ついに新たな敵地に足を踏み入れるのだ。ここからどうにかして生き延びて、逃亡の道を探らなければ。


 馬車の戸が開く。外には付き従ってきた数名の護衛たちが控え、皇子宮への道の両側に分かれてアンジェリカが降りるのを待っていた。


 メルが先に降り、アンジェリカに手を差し伸べる。そんな介助など必要ないけれど、これも〝姫〟としての体裁とやらだ。


 メルの手につかまって馬車から降りれば、侍従らしい老人が頭を下げる。



「アンジェリカ殿下、お待ちしておりました。皇子殿下も、姫の到着をお待ち申し上げておられます。どうぞ、こちらへ」



 ほんとに待っていたのかな、とアンジェリカは唇を引き結ぶ。うわさが真実なら、ひん死の目に遭わされて追い出されるのかもしれないのだし。でもうわさどおり残忍な性格で花嫁をいたぶりたいなら、納得でもある。


 護衛兵たちが頭を下げて見送る。彼らはここから帰国するらしく、アンジェリカに従うのは、わずかな荷物を持つメルと中年男の護衛隊長のみ。


 心細さがつのった。故国での不遇な日々と、これから迎える冷酷な皇子との結婚生活。いったい、どれだけ違うというのだろう。だがもう、引き返せない。


 ひそかに身震いしつつ、アンジェリカは気丈に足を踏み出す。


 マグナフォート皇家の紋が掲げられた黒く高い門扉の向こうには白亜のしき。ノルグレンの砦のような王城とは違う、優雅なたたずまい。だが一方で気取った冷ややかさを感じ、負けるものかとアンジェリカは身を固くする。



「……えっ!?」



 しかし屋敷内に足を踏み入れ、アンジェリカは感嘆に目を開いた。


 落ちぶれたとはいえ、さすがにかつての大陸の覇者の建築物。高い天井に磨き抜かれた大理石の壁と床、調度品は驚くほど少ないけれど、柱や天井の凝った装飾や、壁に描かれた数々の見事な絵画には目をみはるばかり。


 ノルグレンの王宮で使われていた重くほこりっぽいタペストリーや、大量生産の粗悪な壁紙とは段違い。なにより、窓から差し込む明るい陽の光。暗く陰鬱な北国からやってきた身としては、暖炉の火よりもうれしく感じてしまう。



「あの、姫さま。そう物珍しそうになさるのは……」



 冷酷な氷皇子の住まいだからと勝手に冷え冷えとした場所を想像していたアンジェリカは、意外なおもいできょろきょろと見回してメルに注意された。



「え、そ、そうなの? 姫として不作法でありますの?」



 ろうばいしてささやき返すと、メルは恐縮そうにうなずいた。



「エイベルさまとのご会食前に、こちらでご休憩を」



 廊下の先の部屋の扉を開け、老侍従が一礼する。そこは南側の、ひときわ明るく温かな部屋だった。調度品も上品な化粧台やテーブルと椅子一式、クローゼット。


 しやのカーテンが下がる天蓋付きのベッドに、大きな窓の向こうには庭を望む小さなテラス。うそでしょ、と口を開けていると、老侍従の説明が聞こえた。



「お付きの方のお部屋はお隣。湯浴み用の浴室は反対側でございます」



 湯浴み? とアンジェリカは振り返ってしまう。


 お湯を使うことなんて、ノルグレンではひと月に一度、あるいは祭事の前程度。皇子宮に入るにあたって、前日に皇都の外れの小さな宿でやっと湯を使い、乏しい所持金からメルが買ってきた安価な香水で体臭をごまかしているくらいなのに。


 破格の待遇にぼう然としていると、老侍従が恐縮そうに頭を下げる。



「せっかくの花嫁をお迎えするというのにふさわしいお部屋をご用意できず、おもてなしも不充分で、心苦しゅうございます」



 あまりの意外な言葉に、アンジェリカは「なんですって?」とかえしてしまった。侍従は白い眉を下げ、かなしげに目を伏せる。



「ご不快はごもっともです。どうぞ、お𠮟りはこのわたくしに」


「いえあの、そうではございません。そうではなくってですのよ!」



 あらぬ誤解にあわてふためいてアンジェリカは首をぶるぶる振った。「姫さま、おぐしが乱れます」とメルに注意されるほどに。



「ご会食は夕方の六の刻でございます。ただいま、ささやかですがお茶と軽食をご用意いたしますので、どうぞ夕刻までごゆるりとお過ごしくださいませ」



 老侍従は丁寧に会釈し、下がっていった。


 ぼう然と立ち尽くすばかりのアンジェリカをあとに残して。

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