第一章 逃げてやりますわよ、こんな結婚から(6)

 ……なにかが、おかしい。


 化粧台の前でメルに髪をかされながら、アンジェリカは眉をひそめる。



「とても姫さまのお口に合うようなものではございませんが」



 といって老いた侍女が給仕してくれたのは、三段重ねの銀食器の午後茶。甘い焼き菓子にみずみずしいフルーツ、ぱりっと焼いた腸詰に塩気の効いたパイ。夕食か、もしくは祭りのごそうだといわれても、当然のように受け入れたはずだ。


(これが軽食なんて、皇国ってこんなにも裕福なわけ?)


 メルに「お夕食が入らなくなります」とたしなめられなければ、銀食器に落ちたパイくずすらも食べ尽くしていただろう。


 仕方ないじゃない、とアンジェリカは胸のうちで言い訳をする。スラムでもノルグレンの城でも、おなかいっぱい食べたことなんてないのだから。



「姫さま、これから皇子さまとお会いになるのに、そのお顔はいささか」



 姿見の前でアンジェリカの髪を整えるメルが、そっとたしなめる。



「だって変じゃな……いえ、おかしいではございませんこと!? ここは〝氷皇子〟の居城なんでございますのよ!」



 まだ狼狽が治まらず、アンジェリカはつい大きな声でいい返す。



「母殺しとうわさされる、冷酷非道な皇子のはずでございますわ。なのにこの厚待遇、逆にいっそう不穏な感じがいたしますですわよ」


「そのようなお顔も、高貴なお方にはふさわしくありません」


「ほんと、つまらないでございますわね、〝高貴〟な身分ってものは」



 メルに遠慮なく指摘され、むう、とアンジェリカは唇を尖らせる。



「でも、メルが以前みたいなはっきりした物言いをしてくれて嬉しいですわ」


「……あ、その、申し訳……」


「謝ってはいけませんですのよ。わたくし、嬉しくていったのですもの」


「まあ……でしたら、もっとわたしの忠告も聞いてくださいませ」



 ふふ、とふたりは笑い合う。赤毛で長身のアンジェリカと小柄で茶色い髪のメルだが、気の合う姉妹のような気安い空気がただよった。



「いかがですか。わたしの見立てで大丈夫でしょうか」



 ドレスをアンジェリカに着つけて、メルは離れる。


 姿見に映ったのは、華やかな赤毛を結い、どっしりとしたごうしやしゆうのドレスを身に着けたあでやかな姿。このドレスがほぼ唯一の持参品だった。



「パニエもつけていただければ、もっと見栄えがしますのに」


「窮屈なのはごめんですわよ。ただでさえコルセットが窮屈でございますのに」



 アンジェリカはつんとして、面白くなさそうに返す。



「それに外見など、どうでもよろしいのでございますわ。いえ、もちろんメルの支度に間違いはないと思っておりますけれど、でも意に染まない結婚相手との会食なんて、カーテンを巻いても充分ですわよ」



 あーあ、とアンジェリカは嘆息する。



「あの庭師の服、動きやすくてもったいなかったんでございますわ」


「泥汚れの服ですよ。しらみもついていたかもしれませんのに」


「ちゃんとベランダの雪を溶かして洗いましたわ。泥汚れはあとでつけましたの」


「周到なことを……でも、もうあんな危険なことはなさらないでください」



 といって、メルは申し訳なさそうに目を伏せる。



「裏切ったわたしが、なにをいうとお思いかもしれませんけど」


「はい、はい。繰り言はもうおしまいにいたしますですわよ」



 ぱんぱん、と手を叩いてアンジェリカはメルを制止する。



「失礼いたします。夕食の時間だと侍従が呼びにまいりました」



 ノックとともに、扉の外から護衛隊長の声が聞こえた。


 いよいよ顔合わせだ。アンジェリカは、ふう、と息をついて立ち上がる。


 かさばるスカートを両手で持ち上げ、ばさばさと蹴り飛ばして扉へ進めば、「姫さま、おやめください!」とメルがあわてて追いかけてきた。




 広間に一歩入ったとたん、アンジェリカは緊張の空気を感じ取った。


 その場にいるのは、アンジェリカのほか、侍女のメルと中年の護衛隊長。


 給仕の老侍女と老侍従。護衛らしい金髪の青年騎士。


 そして、白いクロスをかけたテーブルの対面に立つのは──。



「エイベルだ」



 名前だけの自己紹介。もう知っているだろうといわんばかりの口調からは、まったく歓迎の意志がこもっていない。それでもアンジェリカは思わず息を吞む。


 ……なんて、美しいひとなんだろう。


 きらめく白銀の髪に、氷河を思わせるれいあおい瞳。身がすくむように整った面立ちと、冬の彫像のごときすらりとした容姿。完璧なまでの、冷たい美貌。


 アンジェリカが赤毛で紅い瞳なのとは対照的だった。まるで北国に生まれたのが向こうで、こちらが南国に生まれついたようではないか。


 三つ下の十九歳とあって、いくぶん少年めいた線の細さはあるが、アンジェリカより背は高く、将来はさらに目をく美丈夫になるに違いない。


 皇国の服はベルトのたぐいがないようで、エイベルが着ている黒く長い服は、薄手のガウンのようだった。だがガウンよりもっと体の線に沿っていて、飾りも首元の銀の刺繡のみという洗練さが、より彼の美貌を引き立てている。


 比べて、アンジェリカのかさばる衣装は野暮ったい。向こうは涼しそうで動きやすそう。あれが皇国のファッションかとうらやましくなる。


 とはいえ、れたのは一瞬。アンジェリカは即座に自分を取り戻すと、まっすぐ彼を見つめて口を開いた。



「アンジェリカでございますわ」



 それだけ告げて、挑むようにエイベルを強く見据える。


 貴方あなたはこの結婚が気に入らないようだが、こちらだってまったく気に入らないのだとあからさまに伝えるように。


 姫さま、とあわてるメルの声が聞こえ、護衛隊長も息を吞む気配がした。


 向こうの老侍従や老侍女、青年騎士らも驚きを顔に浮かべる。


 アンジェリカの傲慢な態度にもかかわらず、エイベルの冷ややかな美貌は一切揺らがなかった。小さくあごを上げ、「座れ」と示しただけだった。


 この冷淡な態度。箱入りの貴族の姫なら、いくら強気な性格でもくじけてしまったはずだ。しかしアンジェリカは思わず「よし!」と体の陰でこぶしを握る。


(これ、これ。思ったとおりの冷酷皇子)


 厚待遇につのっていた不安が一気に払しょくされる。変に歓迎されて逃亡の意志が懐柔されても都合が悪い。


 それに、残忍なら話は通じないかもしれないが、侍従たちを見るにおびえた様子はない。ただ冷酷なら理知的、理性的ともいえる。交渉の余地はあるはずだ。


 とはいえ、交渉には対価が必要。手元にあるのは持参した時代遅れのドレスと自分自身のみ。逃亡に反対するメルや護衛隊長にも頼れない。


 こちらが差し出せないなら、向こうに差し出させるしかないのだが……。


(この、いかにも冷たい皇子の弱みを握るしかないってこと?)


 そんなものがあるならばの話、だけれど。


 アンジェリカは腰を下ろす。かさばるスカートがばさりと音を立てた。いくぶんほっとした様子で、老侍従と老侍女が給仕を始める。


 そこでアンジェリカは目をいた。


 かごに入った香ばしい匂いのパン、湯気の立つスープに、香草を使った魚料理。大皿の塊から切り分けられ、ソースをかけて出される肉料理……。


 ノルグレンでの食事は、固い黒パンと具のないスープのみ。昼にはそれにチーズが足され、夕食でごくまれに薄い肉がつけば万々歳。スラムでも食うや食わずだったけれど、祖父や仲間や友人たちがいたから、まだ耐えられたのに。


(これでは城の兵士以下の食事です、アンジェリカ姉さま!)


 アンジェリカの処遇を知った甥のダニールが哀れみ、母の目を盗んでよく食料を差し入れてくれた。彼がいなければ、オリガの手駒として引き取られた庶子姫に宛がわれる食事なんて、飢え死にしない程度でしかなかった。


 幸い健康体に生まれ付いたアンジェリカでも、ノルグレンの王宮での粗食と過酷な生活で、スラムにいたときより瘦せてしまったくらい。


 それがまさか、政略結婚先でこの厚待遇とは。



「陛下はいまだ病の床だ」



 配膳が終わり、美しいグラスに食前酒が注がれたあと、エイベルが口を開く。



「我らが婚姻の式は当面延期。日取りは改めて告示する」



 目の前のご馳走にぼう然としていたアンジェリカは、はっと我を取り戻す。



「さよう……でございますか。感謝いたしますわ」



 延期はありがたい。式で顔が知られては逃亡するのに不都合だ。


 エイベルがあごで皿を示す。食え、とでもいいたげな仕草だ。むっとしつつも、アンジェリカは食前酒をあおる。とたん、目を剝いた。


 果実の香りが口のなかに広がる。舌を通り過ぎ、のどへ流れる心地よい味。ほっと息を吐くとかすかに熱い。お酒は初めてだけれど、こんなにしいものとは。


 次いでスプーンを取り上げ、スープをすくう。とろりとした甘味のあるスープは、一口でも至福の味がした。パンは焼き立てでぱりぱり、肉料理は焼き加減も絶妙でスパイスの効いたソースと合ってたまらなく美味。


 もしかして皇国ではこんな祝宴みたいな食事が三食、そこへ軽食も? 気をゆるしたら、かさばるドレスがなくても動きづらい体になってしまいそうだ。


 夢中で食事を口に運んでいたとき、エイベルの声が響く。



「……貧相なもてなしでも、不満はないようだな」



 なんだって?


 思わずアンジェリカは柳眉を逆立て、向かいに座るエイベルを凝視した。皇子は初対面のときとおなじ、感情の見えない冷たいまなざしでアンジェリカを見つめている。テーブルのうえで両手を組んで。


 彼の手元にあるスープやパンは少しも減っていない。スプーンを取り上げた形跡もない。こんなに美味しい食事に手をつけないなんて、と憤りが増した。



「これを作ってくださいましたのは、どなたでございますかしら」



 スプーンを握って振りかざして尋ねると、老侍女が身を縮めて頭を下げる。



「わたくしです。やはり、姫さまのお口に合いませんでしたでしょうか……。品数も少なく、材料も思うように調達できませんでしたので」



 なん、だっ、て!?


 何回目かの驚きに、もうアンジェリカは耐えられなくなった。



「とんっでもございませんことですわよ!」



 ばん、と不作法にもスプーンを叩きつけ、腰を上げる。



「大変に美味しゅうございますですわ。貴女の腕前、貧乏舌のわたくしでもわかるくらい超一流でございましてよ。それより、皇子さまのその物言い」



 姫さま、とメルが押しとどめる声が聞こえたが、アンジェリカはかまわずに、テーブルの向かいのエイベルへ身を乗り出す。



「野蛮な田舎の北国出だからと、侮ってらっしゃるのでございますのね」


「そこまではいっていない」


「そこまで、ってことはそれなりには侮ってるんじゃございませんの!」



 ダン、と今度はこぶしをテーブルに叩きつける。



「ひ、姫さま。どうか落ち着いてくださいませ」



 さすがにメルが後ろから必死にドレスの袖を引く。


 エイベルは両肘をつき、組んだ両手のなかに口元を隠して上目遣いにアンジェリカを見つめている。あたかも珍獣を観察するような目で、ますます面白くない。



「わかりましたわ、メル。落ち着きますわよ」



 ふーっ、と毛を逆立てたヤマネコのようにアンジェリカは息を吐くと、メルを下がらせる。そのとき、ふと違和感を覚えた。


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