三.

 それからは特に大きな変化はなく日々は過ぎた。

 一緒に帰宅するようになってからもやはり付き纏い行為などは続いていた。実際、葵もつけてくる気配を感じた。

 後ろを振り返ろうとすると直ぐに隠れてしまっていた為、その時は姿を見ることは叶わなかった。

 様々な情報を提示して半年程して警察も動き始め、ようやく落ち着くだろうと安堵した葵と田邊だったが、現実はそんなに甘くは無かった。


「───なんでお前みたいなやつがあの子のそばに居るんだよ。俺がいるのに」


 一人で帰宅しよう会社をでた葵の前に、一人の男が姿を現す。

 男は何かを探しているのかきょろきょろと周囲を見渡す。


「おかしいな、彼女は今日もこの時間に終わるはずなのに……。まだ残業か。顔を見てせっかく言おうと思ったのに」


 直感的に感じた。

 この男が彼女のストーカーをしているのだと。

 今日はたまたま田邊が残業で遅れるとの事で、帰りは彼女の両親が迎えに来るらしい。

 彼女がいなくて良かったと内心で安心する。

 目の前の男は明らかに異常だ。

 田邊がいないことに諦めが着いたのか、一度溜息を着いた後に葵に視点を戻せる。


「ちょうどいいや。───あのさ、奏弥から離れてくれないかな?彼女は俺の『モノ』なんだから」

「───田邊さんは貴方の『モノ』ではないですよ。それに彼女怖がっているじゃないですか」

「怖がってる?恥ずかしがってるだけだよ。俺がこんなに愛を伝えているんだ、彼女も好きに決まってるじゃないか。今は素直になれないだけなんだよ」


 自分の考えに陶酔しているのだろうか、会社を見上げうっとりとした表情をしている男。


「せっかくだ、少し話さないかい?」

「お断りします」

「それはどちらの意味で?まぁ余りに彼女と俺の邪魔をするなら───覚悟しなよ?」


 人当たりの良い笑顔だが、葵を見る男の目は隠しきれない殺意を浮かべていた。

 一歩後退りしそうになるのを堪える。

 この男はずっとここに居座る気だろうか。

 葵のズボンのポケットに入れたスマホが振動する。

 男を見据えたままスマホを少しだけ取り出し画面を見る。

 電話だ。ディスプレイには『田邊さん』と表示されている。

 切れてくれないかと願うが、こういう時に限ってなり続けている。


「出ないのか?彼女からかな?もし彼女なら話したいんだ。いつも繋がらないから」

「───いえ、上司からです。」


 震えそうになる手を抑え普通を装う。

 ちらりと横目に男を見ながら電話を片手に少し距離を取る。


「はい、津長です」

『あ、津長君。急に電話かけてごめんね。意外と早く仕事が終わりそうで。親がいつも送って貰ってる津長君にお礼を言いたいって言ってきて』

「───はい、大丈夫ですよ。書類ですね。ただ、今帰宅中なのでまた後で送ります。いつも通り部長宛に送ればいいですよね?」

『え?』


 電話口で戸惑った声が聞こえるが、無視して続ける。


「すみません、わざわざ連絡をしていただいて。あと、一件伝えたいことがあるのでそちらはメールで送ります」


 適当なことを言って「お疲れ様でした」と電話を切る。

 背後で警備員の人が男のことを不審に思ったのか声を掛けるのが聞こえた。

 何かを男が叫ぶ声がする。

 彼女には申し訳ないとは思ったが今の状態で来たら危ない。

 スマホを手に持ったそのままの流れで田邊に一言「裏口から帰ってください」とだけ送る。


「今のうちに離れなきゃ」


 警備員が来ていなかったら少しまずかったかもしれない。

 肩掛けのカバンを担ぎ直し、スマホを入れ直す。

 小走りでそこから離れ駅に向かう。改札を抜け足を停めずにホームへと行き、電車に乗った。

 扉が閉まる音と共にゆっくりと電車が走り出し、追ってきていないことを確認しほっと胸をなでおろした。

 目を閉じるとまだ男と対面した時の緊張からか、鼓動が早い。

 彼女は大丈夫だろうか。会社にいる間は問題ないだろうが、もし出る時に会ってしまったら。

 電車に揺られながら、スマホを見ると通知が一件入っていた。

 田邊は葵とのやり取りで嫌な感じを覚え、こっそりとブラインド越しに外を覗き込み男の姿を見たらしい。仕事を終わらせたら裏口から出ると書かれていた。

 会社にはストーカーのことは迷惑がかかるからと田邊は言えずにいる。

 だが今回会社の前まで来ている為そうも言っていられなくなり、相談することにしたとも書いてある。

 そして言葉の最後に『巻き込んでごめんなさい』と一言入力されていた。


「田邊さんは何も悪くないよ……」


 電車の座席に座りながら葵は呟く。

 文字を打っては消してを繰り返し、最終的に


『田邊さん、気をつけてください。相談は何時でも乗ります』


 とだけ送る。

 背もたれに身を預け揺れに身を任せる。

 線路を走る音と振動。

 座席のシートから伝わる熱が葵を眠りに誘う。

 うとうとしていると電車のアナウンスが鳴り、徐々にスピードが落ちる。

 降りなければ。

 駅に着き、扉が開く。途端に冷えた風が車内に入り込み葵の意識がはっきりする。

 電光掲示板を見ると自分の降りる駅を表示していた。

 慌てて身体を起こして電車を降りる。

 吐く息が白い。

 天気アプリには気温が八度と表示されていた。

 周囲に人は疎らだ。ホームから階段を使って上に上がり、改札を出る。

 時刻は八時少し過ぎを指していた。

 葵は駅を出てから再度立ち止まり、電話を掛ける。


『あらあら、葵。今日は遅かったんだね、お疲れ様』


 耳元からゆったりとした祖母の声が聞こえ、葵は少しだけ口元を緩めた。

 何時もはもう少し早く帰っているのだが、今日は遅くなり連絡もしていなかった。


「ごめん、ばあちゃん。ちょっと知り合いと話してて遅くなったんだ。今、駅に着いたからこれから自転車で家に向かうよ。ご飯、先食べてて」


 あの男との出来事は言えなかった。そもそも、田邊を送っていることも話していないのだ。

 でも今日男にあって、正直話していなくて良かったと思う。

 全て終わったら話そう。

 多分、なぜ言わなかったんだと怒られそうだが。


『いいのよ、待っているわ。ねぇ?』

『ああ。気をつけて帰ってこい』

「ありがとう。なるべく早く帰るよ。外、寒いし」


 電話を切って駐輪場まで歩き始める。

 優しい祖父母に心配を掛けたくない。それに、何かあった時に話していることが原因で巻き込まれるかもしれない。

 葵の不安はそこだった。

 あの男に恐らく自分は標的にされる。

 荷物を籠に載せて自転車の鍵を差し込み、スタンドを足で上げてサドルに跨る。

 家に向かって帰路を急いでいくとだんだんと街灯も少なくなり、人気も更に無くなる。

 家の周りは特に車も余り通らない為、静寂の中に葵の自転車を漕ぐ音だけがやたらと響いている。

 普段は何とも思わないその風景も、今日は酷く落ち着かない。

 ある筈はないと分かりながらも、つけられているかもしれない恐怖が湧く。

 彼女はこれよりももっと怖い目を長い期間味わっているのだ。

 常に監視されているかもしれないと思いながら過ごす毎日は、きっと葵の想像以上に過酷だろう。


 早く彼女の恐怖ばかりの日々が終わるといいのに。


 葵のその願いは半年後叶うことになる。


「もう、送ってもらわなくて大丈夫だよ!あの人も、諦めたみたい!今までありがとうね」

「え、そんな急に……。だってあの人はそんなに簡単に……」

「ううん、本当にもう大丈夫。───今までありがとうね」


 何かあるかもしれないからと言う葵に笑って田邊に「もういいよ」と言われた。仕方なく別れたその日の夜に。

 田邊奏弥の死という最悪の形で。

 彼女を含む一家全員が何者かによって殺害され、更に家が放火された。

 それを家に来た警察から聞かされ、受け入れられず呆然としている中、津長葵は警察に逮捕された。

 引き摺られてパトカーに入れられる直前、働かない頭でなんとか葵は祖父母に笑いかける。


「きっと、話を聞くだけだから。すぐ戻ってくるから安心して、ね?」


 そこから葵の心が崩壊していくまであまり時間はかからなかった。

 ありもしない証拠を出され、犯人だと決めつけられた。否定しようと聞いて貰えなくて。

 訳が分からない。

 今どきこんなことが本当に起こるのか。まるで誰かに謀られたような。

 連日同じことを聞かれ続け、否定され続けて自分を保てる人がいるのか?

 疲れすぎて、認めてしまった。それで解放されるならと。


「どこで間違えたんだろう……」


 冷たい牢屋の中で蹲りながら呟く。

 ただ助けたかっただけなのに。

 孤独な時間が心を蝕む。

 認めてしまったが為に、自ら助かる道を閉ざしてしまった。

 裁判所に出た時の周りの蔑みの目にも何も感じない。

 信じていたものが全て崩れていく。

 虚ろな視線で裁判所を後にする時、傍聴席を見て目を開く。

 席を立ち上がり出ていく人々が居る中、泣き崩れる祖母と悔しそうに顔を歪める祖父。

 その後ろ側に佇む男。


 男は真っ直ぐに葵を見て、


「ざまあみろ」


 ニヤリと勝ち誇ったように嗤う。

 瞬きをしたら消えてしまった為、見間違えだったのかもしれない。

 だが、死んでもいい。どんな手段を使ってもあの男に同じ苦しみを与えてやろうと思うには充分だった。


「何か、言い残すことは」


 そして死ぬ直前葵は執行官に問われ、


「次は俺が壊してやる」


 あの男の人生を。

 憎しみや恨みにその身を落として、怨霊となったとしてでも。

 葵はそう思いながら人生を終えたのだった。

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