十五.

 移動して時間が経つにつれ、床や壁から赤黒い液体が溢れ出し湿度がより増していた。しかもドロドロとしているせいで歩きにくい。

「さっさと見つける」と途中から歩きにくい為黒緋に抱えられた椿姫が宣言した通り、池波はそれから暫くしない内にあっさりと見つかった。

 複雑に入り組んだ道を迷うことなく突き進み、足を止めた場所は他と変わらない壁。


「ここじゃな。彼奴はこの先にいるのじゃが……ヌメヌメしておる」


 ヌメリを帯びた壁に触りたくないのか、椿姫はまるで苦虫を噛み潰したような表情をしている。


「壊しちゃいますね」


 彼女の代わりに壁に黒緋が触れると、指先から腐敗するかのように崩れた。

 ぼんやりと照らされた空間には、巨大な灰色の繭のようなものが一つ。よく見ると半透明なそれの中は何かが渦巻いており、壁の脈打つ管はこの繭から張り巡らされている。

 椿姫が口元の笑みを深めた。

 視線の先には繭を前に座り込んでいる池波。まだこちらに気付いていないらしい。

 黒緋に床に降ろしてもらった椿姫は音もなく近付き、肩に手をのせた。


「みーつけた」


 少女の声でゆっくりと言われた言葉は、追われている身ではない葵の背筋すら凍らせる。

 本人は見つからないと思っていたのだろう、完全に不意をつかれ背後から現れた椿姫に声すらあげることが出来ないようだった。ゆっくりと首だけ振り返った池波の顔からは既に亡くなっているが、きっと生きていたら血の気が引いて真っ青になっていたかもしれない。


「ひっ……!」


 小さく悲鳴をあげ、椿姫の手を振り払った池波が身を翻して後ずさる。


「な、なんでっ……!ここがっ……ここが分かるはずなんてないのにっ!!」


 繭に背を預けながら叫んだ声は酷く震えている。


「成程、ここにも魂を閉じ込めて活動エネルギーにしていたんですね。道理でやたらと地形を変えれたりした訳だ」

「あそこにも沢山……。じゃあこれが無くなれば」

「外側は兎も角、この空間は維持出来なくなるでしょうね。流石に彼一人では保てないほどに大きく歪ませてますから」

「さてどうしましょうか……。この刀でも壊す事は出来ますが……」


 じゃあ先程から葵の目に映っていた渦巻いているものは、囚われた魂。

 納得した様子で頷いた黒緋は自分の腰に提げた刀に視線を落とす。何かを思案するように口元に手を当てて小首を傾げる。


「壊すのは楽だけど、私がやると中の魂まで切ってしまいそうだし。そうすると、外にいる暁月が怖いんですよね。基本、一部のやむを得ない場合を除き全ての魂は回収し送り届けなければいけないので」

「壊すってどうやって……?」

「この中の核を壊すんだよ。今回私がやるなら無作為に切るしかないんだ。私は核が見えないからね。椿姫は分かるんだけど、今彼女が刀に戻ると池波が逃げる可能性もあるから外せないんだよ」


 だから魂を誤って切ってしまう可能性があると黒緋は続けた。


「そこで、葵にお願いがあります。貴方に核を取り出して欲しいんです。そしたら後は私がやります。やれそうですか?」

「分かりました……。大丈夫だと思います」


 じっとりと緊張で汗ばんだ手を握りしめ、葵は頷く。

 これを壊せば助けられる。

 そっと繭に近づき見上げる。間近で見ると想像より巨大で禍々しい。

 触れてみると外殻は柔らかく力を込めても弾かれる。

 繭の内側に入るために同調しようとするが何度試してみても中々上手くいかない。


「……何しようと……?まさかっ……!」

「行かせませんよ。此方で見ていてください」


 池波がようやく葵のやろうとしている事に気づき立ち上がり駆け寄ろうとしたが、黒緋に引き離される。

 自分が今から何をすればいいかは分かる。けれど、一人ではどう頑張っても無理だ。

 自分やると言ったが、『彼』は協力してくれるだろうか。自分が否定してしまったのに、困った時だけど助けを求めてしまっているのは身勝手なのは分かってる。出来るなら自分だけでやるべきなのだろう。

 それでも───


「俺一人じゃ出来ない。助けたいんだ。この人たちを!だから───アオ、助けて。アオの力が必要なんだ」


 自己満足と言われようと、それが今の自分の素直な気持ち。

 一人だけでやろうとしても助けれないから。


「───最初からそうやって素直になればいいのに。……何泣きそうな顔してるの」


 横にアオが現れ、葵の顔を見て呆れたような表情をする。

 手伝ってくれる事が嬉しくて、瞳が潤みかけた。


「怒って手伝ってくれないかもしれないって思って……」

「いや、そもそも葵がここで死んだら俺も消えるんだから手伝うさ。それと、俺まだ怒ってるからね。あの時は仕方ないとはいえ俺の存在ごと強制退去させようとしたんだから」

「ごめん……」

「じゃあ、せっかく身体を手に入れたんだからお詫びに今度葵が好きな物でいいから食べさせてよ」

「分かった、じゃあ落ち着いたら」


 口を尖らせて要求してくるアオに、葵は頷いた。

 尚更戻らなければいけないと葵は繭に視線を戻した。

 池波は黒緋達によって抑えられているとはいえ、悠長には出来ない。


「さっきやろうとしたんだけど、弾かれて上手くいかなかったんだ。やり方間違えてた……?」

「いや、やり方は合ってる。ただ、全身を入れようとするから力が純粋に分散して上手くいってないんだよ。寧ろ中に入ったら出られないかもね、濃縮されてるから下手したらのまれる。今回は中に入ろうとしなくて大丈夫。幸い、核も手を伸ばせば届きそうな位置にあるし。……うん、これなら行けるかな」


 アオが丁度核のある場所の外殻に触れてから、葵に触る場所を指示する。

 そのすぐ横に彼も片手を置き、


「力の調整は俺がやるから。葵、片手をここに置いて、もう片方は俺の手を握って。いい?触れている手から繭に力を流して俺に繋げて循環させるイメージをして。そのまま中にある渦を絡めて一緒する感じ……うん、その調子」


 初めはぎこちなかった流れが徐々にスムーズになるにつれ繭からアオを通じて流れてくる大量の思念。恐怖、悲しみ、怨み。それに飲み込まれそうになり、顔が歪む。

 背後からは池波の必死の制止の声が聞こえてくる。

 先程までどれ程やっても出来なかったのにゆっくりと、側面に触れていた手が中に入り込む。

 氷水に手を突っ込んでいるかのように冷たいく、気を抜くと感覚がなくなりそうだ。指先には何も触れていないのに、確かに数多の存在を感じる。冷や汗が背中を伝い、息をすることを忘れかける。


「いい?葵は葵だ。他の誰でもない。だから飲まれちゃだめ。そのまま真っ直ぐ手を伸ばして

 ───今っ!」


 ただアオの言葉を頼りに先に進めると指先に何かが触れた。アオの鋭い叫びを合図に掴んで考えることなく全力で引っ張る。

 葵の手が繭から出るとほぼ同時にバシャリと音を立てて繭が液体に変わり床に弾け飛ぶ。

 空間が脈を打つことを止める。


「あっ……僕の……。せっかく集めた……僕の……」


 静寂が周囲を包む中肩で息をしながら立ち竦んでいると、葵の耳に微かに池波の声が入ってきた。

 息を整えながらそちらを見ると、瞬きを忘れたかのように目を見開き涙を流して力なく座り込む池波がいた。

 横にいる黒緋も椿姫も見えないかのように、繭があった場所に這ってきて繭だった液体をかき集めようとする。


「嘘だ……嘘だ。そうだ、全て嘘に決まってる。悪い夢なんだこれは」


 目の前のことを受け入れられないのか、ぶつぶつと呟きながら繰り返す彼の姿はまるで壊れたロボットのようだ。

 掌に液体をすくい上げては零れ落ち、地面へと溶けて消えていく。


「は……はは……。また、集めなきゃ。また作らなきゃ……。大丈夫、すぐ元通りにしてあげるから」

「残念ながらもう二度と、作ることは出来ませんよ。何故なら───」


 乾いた笑いをあげる池波の前に立ち、葵が回収した繭の核である『ソレ』を見せつける様に黒緋は目の前に落とし、


「貴方は、もう、消えるのですから。私達によって」


 持っていた刀で貫いて破壊した。

 目の前で守ろうとしていたものが蹂躙され、跡形もなく消される。

 壊された『ソレ』を呆けたまま眺める池波は、あまりも憐れだった。


「まさか核が『結婚指輪』なんて思いもしませんでした」


 真っ二つに斬られたシルバーの指輪は、形も残さず塵になる。

 核を失った空間が、激しく揺れ始めた。まるで言葉を無くした彼の代わりに悲鳴をあげるかのように。

 緩慢な動きで黒緋達を見上げる池波の瞳は虚ろだった。


「さぁ、次は───あなたの番です」


 数度瞬きをして、そして、次の瞬間彼は絶叫した。

 目の前に迫り来る脅威から、逃げるように駆け出す。


「嫌だっ!嫌だっ!消えたくないっ!死にたくないっ!!助けて、誰かっ!!」


 なりふり構わずに池波は助けを求める。

 だが、


「───そう言った彼女を貴方は殺したのでしょう?」

「がっ……!?」


 黒緋が池波の耳元でねっとりと囁くと共に、地面に叩きつけた。


「葵、手出しは無用です。見ていなさい。これはこの男に対する『罰』なのだから」


 逃げれないように池波胸を片膝で圧迫するように押さえつけた黒緋は、止めようとした葵をそのままの体勢で淡々と言う。まるで命令をする口振りだ。


「椿姫」


 一歩出した足を戻し動かなくなった葵を一瞥し、黒緋は短く呼んだ。

 真上から見下ろされた池波はただ震えることしか出来ない。


「地獄に堕ちたくない……。僕は……ただ……愛されたかっただけなのに」

「貴方は地獄には行きませんよ」


 涙を流す池波に、黒緋は微笑を浮かべる。


「本当に……?」


 思わず問い返した彼の眼は僅かに希望によって光を取り戻していた。

 縋るように腕を伸ばした池波に、頷き返す。


「ええ。堕ちません。だって貴方は椿姫に喰われるのですから」

「え……」


 さらりと言われた言葉に池波は固まる。


「良いですね、その表情。私、好きですよ?助かると思いました?残念。池波亮司、貴方が行くのは地獄なんて優しい場所じゃありません。───貴方が最も恐れていた『孤独』。終わりのない絶望存分に味わってください」


 抱いた希望すら打ち砕かれた池波の絶望。

 その表情を見て恍惚の表情を浮かべる黒緋。

 近くに来た椿姫は妖美に微笑み、


「いただきます」


 耐え切れずに目を瞑った葵に入る池波の言葉にならない絶叫。

 やがて、声は細くなり消え去る。


「ご馳走様でした」


 残ったのはぺろりと唇を舐めた後丁寧に手を合わせた椿姫と、黒緋。そして淡い光を放つ鬼灯を腕いっぱいに抱えた暁月だけだった。


「終わりましたね。葵、お疲れ様でした」


 ついさっきまでいたはずの池波も建物も消え、葵は雑木林の中に立っていた。

 黒緋に声を掛けられ、びくっと体が跳ねる。


「あ……はい……だ、大丈夫です」


 しどろもどろに答える。

 脳裏に先程の黒緋の姿が浮かぶ。絶望し、助けを求める池波を笑いながら突き放した。池波の希望を全て壊して、絶望するその瞬間を寧ろ待ち望んでいたかのような表情をしていた。


「そうですか。あ、少し離れますね」


 黒緋は葵の反応に苦笑を浮かべながらも、特にそれ以上何も言わずに離れていった。

 未だに心臓が早鐘を打っている。


「───分かったか、あいつがどういう奴か」

「あか……つきさん。俺……」


 口の中が乾き上手く言葉が出ない。

 震える身体を必死に抑えようとしていると、ため息が聞こえた。


「無理すんな。……怖かったんだろ、あいつらが」

「……その……」

「黒緋はちと鬼の中でも特殊でな。地獄に堕ちるやつ───特に嘘を平然と着いて、他人を貶めるやつを恨んでる。……怖いなら……離れてもいいが……出来れば傍にいてやって欲しい。お前といる時が一番あいつがあいつらしいから」


 即答は出来なかった。

 今までの黒緋が嘘だとは思わない。だが、それでも傍に居る事に恐怖を感じてしまったのも事実だ。

 ふと暁月の手元にある鬼灯に目が行く。

 視線に気付いた暁月が一本葵の目の前に差し出した。


「これは……?動いてる?」


 鬼灯の中で何かが動いていた。

 よく見ると全てに入っているようだ。


「あそこに閉じ込められていた魂達だ。今はこの中で少し休んでもらってる。流石に消耗が激しかったみたいだからな。───お前達が助けたんだ」


 その言葉が胸に響いた。こんなに沢山助けれたんだと、実感する。

 理由はどうであれ、池波の人に優しくしたいという気持ちは嘘ではなかった。彼がもう少し違った環境にいたのならもしかして違う未来があったのだろうか。

 形はどうであれ、池波は裁かれる存在だった。


「もう少し、近くにいてみます。でも、どうしても怖かったら……」

「そん時は俺のとこに来い。置いてやるから。……ありがとうな」

「───はい」


 黒緋も椿姫も優しかった。嫌いではないし、好きだ。もう少し、そばに居てどうしてもダメだったら暁月を頼ろう。

 複雑な気持ちのまま葵はこくっと首を縦に振った。


「すみません、戻りました。ちょっと新しく仕事が入りまして」


 がさりと草が揺れ、黒緋が姿を見せる。


「私はこのまま向かうけど、暁月は一度戻るかい?」

「おう。これを持ってかなきゃならないからな。それと今回の報告書も書かなきゃならねぇ」


 鬼灯を掲げ、暁月は答えた。


「分かったよ。あ、じゃあ火車も返しといてくれないかい?それと───葵、すみませんが今回は来てもらいます」

「葵も行くのか。じゃあ、俺は先に戻ってる。───二人とも無理はすんなよ。特に、葵。辛かったりしたら一人で抱えんな」


 それだけ言い残して暁月は消えた。


「私達も行きましょう。……貴方を怖がらせるつもりはなかったのですが……。───これが終わって、その後は貴方の好きなようにしてもらって大丈夫ですから。今回だけは、すみませんが我慢してください」


 僅かに砕けていた黒緋の言葉遣いは戻り出会った時のようで。

 縮まった距離が再び離れたようで、葵は少しだけ寂しさを感じた。

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