十二.
これは、嘘をついた男が犯した罪の記憶だ。
***
幼い頃から母に愛された記憶が無かった。
それどころか目を合わしてくれさえしない。
「痛い……!ごめんなさい……!許して……!!」
目が合ったとしたらそれは蔑みしかなくて、何か意に沿わない事があったら暴力を振るわれていた。
何度謝っても許される事は無かった気がする。
勉強で良い点を取っても褒められず、求められたのはただそこに存在しないこと。
けれど点が取れなければ怒られる。
そんな自分とは違い四歳下の弟の方が何時も可愛がられていた。
今思えば仕方ない事だったかもしれない。
だって、旦那が自分の知らない女と過去に作った子供なのだから。
知ったのは成人してからで、その時はだから愛されなかったのだと納得した。
だが幼い時には違う。
「うちはとても仲のいい家族ですよ。連れ子だからなんて関係なく同じぐらい大切に思ってます。ねぇ、そうよね?」
「───うん、そうだね母さん」
笑顔で頷けば周りの大人は羨ましそうな声をあげる。
そんなに良いなら替わってあげるのにと何度も心の中で思った。
そうやって嘘をつき続けた。家でも外でも、嘘が当たり前になる。少しでも良く見せたくて。
外では良い家族のように装い、家では冷めきった関係。
母が暴力を振るおうと、家族は助けてくれなかった。
常に孤独。それが辛くて怖くて仕方なかった。
『なんで愛してくれないの?僕は何もしてないのに。何もしてないからいけないの?』
口に出して言うことが出来ない思いが積もっていく。
息が詰まる程の生きにくさ。自分に意味を見いだせない現状に絶望する。
それが緩和されたのが人の為に何かをした時だった。
何かして感謝され時は嬉しかった。
偽りの姿でも凄いと褒められた時は幸せだった。
周りから見られる、求められる事で孤独では無くなる。それが自分にとって何よりも幸福な事だと気付いた。
いい子の自分に酔っていた。
もっと、もっと。
凄い人になれば、周りによく見せれば一人にまたならない。
子供の時には嘘が下手くそだったが、それも大人になれば上手くなった。
偽りの仮面を作ることに抵抗感は感じず、むしろそれも男にとっては自分だった。
親や家族と関わりを絶って、一人暮らしをして。
生涯を共にしたいて思う相手に会えた。
「池波さんと付き合えて、一緒に居られて幸せだな」
「僕も、君となら……」
憧れていた家族になれると信じていた。
同棲を始めて、少しした時男───池波は再び嘘をついた。
弁護士の資格試験の為に勉強しているからまだ働いていないと。だが実際はそんなことしては居なかった。家ではバレないように参考書を買って勉強している風に装った。
そして試験には合格したと言い、働いていないのに働きに出ていくような素振りをして。
そして、嘘がバレた。
たまたま時間を潰してぶらついていた所を、彼女の友人に見られたのだ。
友人はそのまま彼女へと見たことを話したらしく、帰ってきた瞬間に物が飛んできた。
とりあえずリビングで話し合うために椅子に座った池波に向けられるのは怒声だ。
「信じられないっ!ずっと嘘ついて!!必死に貯めていたお金も使ってっ!!」
「違うんだ、これは……その……」
泣き叫ぶ彼女に言い訳しようとする。
「触らないでっ!」
手を伸ばすとその手を払いのけられた。
払われた手がじんわりと熱を持ち痛む。
「何で平然とそんなこと出来るの!?大学も嘘だった!私がそこに在学してないからってバレないと思ったの!?」
「なんでって、冬華が好きだからだよ。だって冬華が難しい勉強も頑張ってやってる姿が好きだって言うから。それに確かに辞めたけど、大学は途中までは言ってたから全部が嘘な訳じゃないよ。……これでもお金のことは申し訳ないと思ってるんだよ?君は勉強とか関係なく僕のこと好きだって言ったじゃないか。そんな顔で怒らないでよ」
彼女が好きだと言ったからその姿を作ったのに怒られてしまった。
池波の反応に彼女───
血の失せた顔をしたまま座り込む板垣に池波は
「お茶を入れてくるよ」と席を立つ。
キッチンに立ちお湯を沸かしている間に紅茶の茶葉をポットに入れる。
「お金はちゃんと返すよ」
「そういうことを言いたいんじゃない……!もう無理っ!!」
ガタリと音を立てて椅子から立ち上がった板垣は部屋から出ようとした。
「何処に行くの?」
「出ていくに決まってるじゃない!!───貴方になんか出会わなければよかったっ!二度と会いたくない!!」
ドアを乱暴に閉めて板垣が部屋から出ていく。
暫く自室から物音が聞こえたが、玄関へと足音は向かっていく。
「───そう、分かった」
池波は『ある物』を手に取って静かに板垣の後を追う。
板垣はまだ玄関で靴を履いていた。
「ねぇ冬華。僕は君が好きだよ。愛してる。なのに出ていくの?僕を置いて行くの?」
「貴方と居ても幸せになれるわけないっ!」
「ありのままの俺が好きだって言ってくれたのに」
「確かに行ったけどその次元の話じゃないよっ……!」
「そっか。───なら仕方ないよね」
自分を否定されていく度に心が冷えきっていく。
行ってしまう。居なくなってしまう。
靴を履き、板垣は最低限のものだけ入ったカバンを持って立ち上がる。
孤独になる恐怖心が全身を襲った。
荒ぶる心とは裏腹に池波は何も言わずに板垣の背中を見た。
視線は動かさず手に持っていた物を靴箱の上にあったものに持ちかえる。
たまにDIYをする時に使うハンマーだ。しまい忘れていたらしい。
ずっしりと重いそれを思いっきり、板垣目掛けて振り下ろす。
一度も池波を見なかった板垣だが、気配に気づいたのか振り向こうとした。だが、間に合わず鈍い音と共に地面に倒れ伏す。
頭を抑えたまま呻く板垣に池波は、
「痛くしてごめんね?でも、暴れると困るから。大丈夫、怖いのはそのうち感じなくなるから」
流石に一度では気絶しない様だ。
床にハンマーを置き、再びキッチンから持ってきた物を手に持つ。
そこからはあまり覚えていない。
気付いたら池波の手は血塗れで、目の前には同じく血の着いた包丁と動かなくなった板垣の姿があった。頬は涙で濡れていた。
板垣に触れるとまだ温かい。
池波は動かなくなった板垣の唇に口付けた。
「あぁ、動かなくなってしまった。でも動かなくなった君も綺麗だ。寂しいよね?大丈夫、僕が直ぐに行ってあげるから。───これで君と永遠に離れることもないし、君も僕も孤独じゃなくなるね。それでも寂しかったら僕が寂しくないようにしてあげるから。君は喜んでくれるよね?」
彼女は喜んでくれるだろうか。笑ってまた話しかけてくれる姿を想像するだけで、幸福感を覚える。
居なくなるなんて考えたくなかった。なら、こうするしかなかった。だって死んでしまえば彼女が何処かに行くことも、自分を嫌うこともないのだから。
池波は板垣の遺体を担ぎ、自室へと行く。
自分の隣に彼女を横たわらせて、開いていた目を閉じさせる。
「今から行くねから、待ってて。───君の為に死ねるなんて幸せだよ」
椅子の上に立ち紐を高い場所に括りつける。
死など恐怖に感じない。
むしろ、自分を肯定してくれた唯一の存在である彼女が居ない世界に興味はないし、意味はない。
直ぐに彼女に会えると信じたまま、池波は命を自ら絶った。
最後まで池波は幸福に満ちた顔をしていた。
***
男は信じて疑わない。
自分は間違えてはいないのだと。
破滅に向かっていることなど気付きはしないのだ。
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