十.

「───い。───葵ってば!いい加減戻ってこーい!」

「……っあ!ごめんなさい!」


 名前を呼ばれてはっと我に返る。

 過去に浸りすぎていたせいでかなり驚き、咄嗟に頭を下げて謝る。


「それは大丈夫だけど。いや、うん、俺も叫ぶようなことしてごめん。しかし……まさか同じ顔の、しかも自分の本体に頭を下げられるとは思わなかった」


 目を白黒させていたアオに、葵も今の状態を把握し頭を下げた体勢のまま固まる。

 そうだ、反射で謝ったが自分が自分に謝っているという何とも不思議なことになってしまっていた。

 しばらく二人の間に気まずい空気が流れる。

 ゆるゆると頭を上げた葵が見たのは、頬をかきながら少し視線を逸らしていたアオだ。

 瞳と髪が黒いせいか少し幼く見える。


「あー……っと。とりあえず、思い出したんだ。母さんの最期のこと」


 自分の胸の辺りを掴みながら葵は首を縦に振った。

 その手に重ねるようにアオが手をのせる。


「思い出さなければ良かった?恐怖心と共に忘れていたかった?」


 今度は横に振る。

 確かに律が死んだ時、当然受け入れることなんて出来なくて。遊んでいたりしてもふと些細なことで思い出してまた悲しんで。それと共に『置いていかれた』ということに対する怒りを抱いた。


「知ってる。それに対して『俺』はそんな感情を抱く自分が酷い人間だと思った。気づきたくなかったのにそれに気づいて気まずくなって。でも、周りの反応が怖くていえなくて。自分を傷つけてた」

「そう。だけど、おばあちゃん達に勇気を出して言って、それは悪いことじゃないと教えて貰えた」


 悲しんで、休んでを繰り返しながらも暗い気持ちが積み重なり、耐えきれなくなって泣きながら打ち明けた葵。そんな葵に祖母は「良く、言ってくれたね」と頭を撫でてくれた。


「あの時からだっけ、アオがいたのって」

「それも思い出したんだ」


 誰にも打ち明けられなくて苦しんでいた時、幼い葵はそれを軽くするために自分の中に話し相手を創った。自分と同じ姿だけど違う存在として、。多分あの時はいっぱいいっぱいで、他の姿が想像出来なかったんだと思う。

 最初は何も言わない相手に一人で話していたけど、気付いたらアオも話してくれるようになって、双子の兄弟みたいに感じていた。だから自分という認識が薄くなったかもしれない。

 それはある意味心の防衛本能だったんじゃないだろうか。

 そこで首を傾げる。


「あれ、でもなんでアオが?」


 アオを創ったのはかなり子供の頃で、大きくなるにしたがって存在を忘れていた。


「それは俺が元々葵が心の中で創り出した存在で、葵が鬼になった影響で……みたいな感じじゃない?分からないけどね。ま、俺も寝てたのにまさかこんな形で起こされるなんて思わなかったし。久しぶりに起きたら起きたでなんか小さい葵───天音が増えるわ葵は平然と自分を犠牲にするわで本当にびっくりしたよ」

「それは……ごめん。でも、また会えたのは嬉しいな」

「俺としては目覚めたくなかったけどね。俺がいるっていうのは精神への負荷が大きいってことだし。今回は特に天音にはきつい場所だから出ざるを得なかったんだよ。そもそも葵は自分と同じ顔のやつがいて嫌じゃないの?しかも二人も」

「うーん……確かにびっくりしたけど、そんなには嫌じゃないかも。でも、あれか今自分は自分の心と話してるってことになるのかな?それだと俺って結構ヤバい人になる……?なんかちょっとそれは嫌かも。と、とりあえず今は目の前のことに集中……」


 葵の脳裏を複雑な感情が駆け巡る。

 だが今はそれを気にしてる場合では無い。

 誤魔化すかのように本に視線を戻す。待っていたかのように再び本がページを捲ることを再開した。

 やはり、思い出すのは怖い。

 子供時代から大人へと移っていく。

 ページが進むにつれてより鮮明に思い出す。

 小さな頃から、生前の自分は確かに困ってる人を見たら見て見ぬふりが出来なかった。

 それは変わらず大人になっても真面目に、誠実に生きようとしていた。

 人を疑う前に人を信じたくて。

 人を嫌う前に人を好きになりたくて。

 現実は上手くは行かなくて嫌なこともあったけれど周りに助けられながら生きていた。

 けれど───。

 後ろに行くにつれて真っ黒く塗りつぶされたページが暫く続いた。それでも止まることがなかったが、漸く最後の辺りに文字が書かれていた。

 見た瞬間、全身から血の気が引く感じがした。

 そこには黒字に赤い文字で、


『何もしていないのに、自分のせいで家族が苦しむのが怖い』

『家族以外誰も何も信じてくれない。死ぬことよりも……好きだった人達の視線が今はとても怖い』


 たった二つだけ書かれていた。

 そう、自分は『死』が怖くなかった。それを感じる余裕はなかった。

 だがまだ何故、自分がそこまで追い詰められていたのか思い出せない。

 確かに強い感情を抱いていた。

 けれどそれは、恐怖ではなくて。

 本が静かに閉じる。

 ちらりと中に入っていた新聞に目をやり、恐る恐る手に取った。

 一枚目にはとある女性の住む家が放火されたこと、遺体が三人分あったこと。犯人として女性の職場で働いていた同期の男が逮捕されたことが書かれていた。

 二枚目は、それから日付が経った記事。

 捕まった男の死刑判決が決まったこと、またその死刑判決までの期間が早かったとのニュースだった。

 記事に目を通しながら新聞に力が入り、ぐしゃりと新聞にシワがよる。

 葵は犯人として書かれている名前に、絶望する。


「なんで……死刑に……。何をやったっていうんだ」

「世の中ってさ、残酷だよね。金や権力で平然と見捨てる人。目の前の情報だけを信じて、都合が悪いことは保身の為に見て見ぬ振りをする人。全部がそうじゃないけど沢山ある。そうやって真面目で優しい人が貶められ、潰される。 ───それなのに、まだ助けたい?自分が傷つくかもしれないのに。絶望するかもしれないのに。別にここの人達を助けなくても、恐怖心を思い出した今の葵なら喜んで池波は取り込もうとするよ。あとはこの力を使って内側から壊せばいい。内側に入れるっていうことは、相手を根本から殺すことが出来る。俺はただ、ここから出すために思い出させただけだし」


 必死に思い出そうとするが、思い出せない。

 ただ、目の前にある新聞は実際に自分は見たのだ。一人きりの寒々しさを感じさせるような暗い部屋の中で。

 アオが畳み掛けるように問う。

 相手の奥深くに入り込むことで、相手を殺す。そんなことができるなんて考えもしなかった。


「もし助けなかった場合、どうなるの?」

「完全に消滅するだけだよ。池波共々。一つになった化物して、無かったものになる。そのやり方の方がある意味楽かもしれないよ?池波を殺せば良いだけなんだから。あ、でも葵が出来ないなら身体を借りて俺が代わりにやってあげるよ!葵は寝ていていい。目が覚めたら全て終わってるから。なんなら、ここから出たら思い出した記憶にまた蓋をしてあげることもできるよ。どうする?」


 獰猛さを含んだ笑みを浮かべたアオは平然と言い放った。

 アオがなんでここまで残酷なことをサラリと言えるのか分からない。それが、アオが自我を持って現れた事によるアオ自身の性格なのか、それとも、結果生まれたのか。

 恐怖に思考が鈍くなる。

 また忘れることが出来たなら、楽なのかもしれない。こんなに震えることも無く、今のままの自分でいられるのだから。


 瞼を閉じて暫く逡巡した後、決意を決めた葵は持っていた新聞から手を離す。

 パサリと音をたて床に落ちた新聞に目もくれず、葵はアオに近づき、


「えっ……」


 衝動に突き動かされるように腕を振り上げ、アオの頬を叩いた。

 そこまで力を込めていなかったが、突然叩かれた事に叩かれた頬を抑え口を開けて固まるアオ。


「叩いてごめん。でも、そんなことは駄目だよアオ。俺は殺す為にここに来たんじゃない、助けに来たんだ。少しでも転生できる魂を多く助けるために。俺は俺の力はそのためにあると思ってるし、自分がやるべきだと思う。確かに辛いけど目を背けることはしたくない。それに、何があったのか知りたい。知らなきゃいけない。そんな気が今はするんだ。だからアオ、協力して」

「普通、こんだけされてまだ頼ろうって思うかな……。それに逃げる選択肢を準備したのに、苦しい方を選ぶんだ。でも、気持ちは変わらないんだよね」


 大きくため息をアオがつき、降参と言いたげに両手をあげる。


「分かったよ。案内は任せて。じゃあ御相手さんも待ちきれないようだしここから出るか……。これ以上いたら、侵略されちゃうからね。もし、俺をまだ味方だと思うなら手、掴んで。それといいって言うまで目を瞑って」


 天井にヒビが入り始める。

 差し出された手を素直に握り返すと、アオが何かを呟く。

 瞬間足元を手のようなものに掴まれる。驚いて目を開けそうになったがなんとか我慢する。


「───ありがとう。葵が───くれて」


 アオが呟いた言葉は落下する音で聞こえなかった。

 そして二人は底へと引きずり込まれて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る