九.

 恐怖心がないのが続くことは安心することだと思う。

 自分の存在を揺り動かす事がないから。変わらずにいられるから。


「───けれどそれって死んでいるのと同じだと思わない?」


 目を開ける。

 どうやら葵は前回記憶を思い出したあの空間にいるらしい。

 暖かなオレンジの空間の中央に立つのはアオ。そして薄黒い箱が一つ。

 アオが周囲を見渡す。


「ここは暖かいね。嫌な事は何一つなくてただ微睡めばいい場所。逃げるには絶好の場所。けれど、それだけに歪な場所」

「何が言いたいの?」

「人間味がないってこと」


 言葉がグサリと心に突き刺さる。


「恐怖心がないから積極的になんでもなれる。自分が傷つくよりも他人が傷つく方が嫌で、だから自分が傷つくことを恐れない。でもね葵」

「腕、血が……」


 アオの腕から血が伝い、落ちる。

 鮮血が地面を濡らしていく様子に葵は焦って声を掛けた。

 痛いだろうに、平然としているアオに哀しくなり眉を寄せた。


「これをつけてるのはさ、葵なんだよ?」

「俺……が?」


 身体がよろめいた。必死に立っているが足が震える。

 見せつけるようにアオはシャツを脱ぐ。

 腕もそうだったが全身あちこちに傷ばかりある。

 思わず目を背けたくなるが、釘付けになったようにそらせなかった。


「そう、気づいてなかったでしょ?葵は葵を傷つけてるのに気づいてない。見て見ぬふりをしてるんじゃなくて、分かってない」


 傷ついている?自分が。

 己に問うが、分からずに首を振る。

 自分は今は何処も怪我をしていない。なのに血が出ている。ならばその傷はどこの傷だろう。


「分からない?俺は葵の『心』なんだよ。俺は陰。陽が体を表すなら、陰は精神───心だ。なんて難しい話はあまり得意じゃないんだけどね。それに天音はなんか小さいし体を表してる感じはしないけど。ほら、もう開きたがってるよ。こっちに来なよ」


 手招きされ、足が勝手に箱に向かう。

 自分で制御出来ないままはこの前に立った葵は意志とは関係なく、箱に手を掛け開け始めた。


「なんで!?嫌だってばっ……!」


 開けたくなくて、必死に抗うのに言うことをきかない。


「ごめんね。無理やりにでも思い出して貰わなきゃいけないから。……言ったでしょ?それは今回の鍵なんだって。───大事な『感情』なんだ」


 声にならない悲鳴が上がった。

 全力で首を振り、離れようとする。

 瞳孔が開いて、心拍数が上がる。


「嫌だよっ!思い出したくないっ!!」


 こんな感情久しぶりだ。

 自分が揺るがされる感覚。

 箱はいとも簡単に開いた。中にはまたしても一冊の本。そして二枚新聞が入っていた。

 ページが捲られる音と、葵の荒い息遣いだけが響き渡る。

 内容が視界に入ってくる度に、自然と思い出される。

 生前の怖かったことと、それに関係する記憶を。

 今改めて見ると思わず笑えてしまう昔は怖かったことや何度も失敗して、挫折しかけて、それでも立ち直ったことも。

 恐怖を感じても行動した結果嬉しいことに繋がった出来事もあった。

 時間が経つにつれて、それを意識して少しづつ落ち着いを取り戻していく。

 身体の震えはまだ止まらない。けど、同時に追想することであれだけ嫌だったのに拒絶せずに受け入れようとする気持ちも不思議と浮かぶ。

 人の気持ちとは複雑なものだと改めて実感する。

 決意しても、やはり思い出したくない気持ちが湧いてきてそれを消すように葵は深呼吸をした。

 再度内容に目を通してくと最初もそうだったが、全て入れるとキリがないためか印象が強いものだけが書かれているようだ。

 例えるなら、「嫌いなものや怖いと思うのはなんですか?」と問われた事に回答している感じに近い気がする。

 ある一ページで一度本は捲るのを止めた。


「そっか……この時だっけ」


 葵は文章をなぞる様に指を這わせてぼやく。

 身体が言うことを聞かなかったのが嘘のように動く。

 本には涙で滲んだかのようなぼやけた子供が書いた文字で一言、


『お母さんが居なくなるのが怖い』


 葵は天井を仰ぎ、子供の時の追憶を辿る。

 鮮明に思い出せるのはそれが印象強かったからか、それとも今思い出したばかりだからか。

 そう、あの時は他のどんなことよりもこれが恐怖だった。

 六歳になって少しして、母───津長律つながりつが病院に入院した。

 最初はすぐに帰って来ると言われて信じていたけど、なかなか帰って来なくて。

 子供ながら会う度に、真っ白い部屋のベッドに横になる律が痩せ細っていたのには気がついていた。今思うとかなり身体も辛かったんじゃないかと想像できる。それでも、葵に会うときはいつも明るい笑顔を浮かべていた律の姿を何故忘れていたのだろうと自責の念を抱く。

 祖母は律が入院した辺りからよく夜、葵がいない時に泣くようになった。そばに居る祖父も泣きはしなかったが表情は暗かった。

 祖母から母が病になり死ぬかもしれないと言われたのもその時ぐらいからだ。

 しばらく入院生活が続いたが律が家に帰ってきた時は葵はまた母といれると喜んだが、やはりベッドに横になっていることが多かった。時々辛そうに顔を歪め、呻く姿を見ているのが辛くて仕方なかった。

 薬を飲む回数も増え、日を追う事に動けなくなっていく母。

 ある日、ふと無性に不安に駆られて律の部屋に行った。

 小さく扉を開け中を覗き込んでいると、律が気付いて「おいで、葵」と手招きをする。

 ゆっくりと葵は律に近づき、ベッドの横に立つ。


「どうしたの?」


 問われて口を開きかけるが、言っていいものか分からず、結局口を閉じ裾を握り締めて俯いていた。

 律は何も言わず、ただ静かに葵が言うのを待つ。


「お母さんは、また元気になるんだよね……?前みたいに───」


 そこで口を再び結ぶ。

 律は肯定することも否定することもせず、ただ悲しげに微笑みを浮かべていたから。

 困らせてしまったと直感し、再び顔を床に向けた。


「───葵、顔を見せて」

「……やだ」

「なんで?」


 頭を撫でられ、涙が浮かぶのを必死に堪える。

 律が身体を起こして足を床に降ろし、すぐそばに佇む葵を抱き寄せた。

 嗅ぎなれた母の匂いがする。


「葵にそんな顔をさせているのは私だよね。ごめんね……葵」

「ちがっ、そうじゃなくてっ!」


 嗚咽が漏れる。

 そんな顔をして欲しいわけじゃないのに。

 祖父母から母の病気のことを聞いた時に、正直実感は湧かなかった。

 けれど、だんだん母の『死』が近くにあることを感じ、置いていかれるのでは無いかということに恐怖した。

 祖父母がいるにしても、父は物心着いた時からおらずその上母である律までいなくなる。学校の友達は二人ともいるのに自分にはいない。その事が葵には辛くて仕方なかった。

 しかし、それを言ったらきっと律は悲しんでしまうからあの時の葵は言うことが出来なかった。

 そして苦しむ律に何も出来ない事がまた葵を苦しめた。


「僕がお母さんのために出来ることが……なにもなくて。それがいやでっ」


 律の服をぎゅっと握り吐き出すように言う。

「そっか」っと律が背中をあやす様に叩き、


「葵は優しいね。ありがとう。───じゃあ葵、お母さんのお願い一つ聞いて欲しいな。いいかな?」

「僕に出来るならっ!」


 身を起こして叫ぶように葵は答えた。

 例え悪い子だと思ってしまった自分への誤魔化しだとしても、笑ってくれるなら、安心してくれるなら律の願いを叶えたかった。


「ねぇ、葵。葵はきっとこの先とても沢山の出来事に巡り会うと思うの。悲しいことも、怖いことも、怒れることも。沢山の大変なことが葵を襲ってくる。私は葵が他の人に優しいことも、葵が自分を責めやすいことも知ってる。頼まれたら無理ちゃうことがあることも。そのせいできっと泣いてしまうこともいっぱいある。けど、忘れないで」


 額に律の額がくっつけられ熱が伝わる。

 律は優しく言い聞かせるような口調で続ける。


「人に優しいっていうのはなんでも言うことを聞くことじゃないの。間違えている時にちゃんと間違えてるって言えることもまた優しさ。言うことは怖いだろうけど、その怖さを乗り越えれたらより葵が成長できる。いい?怖さを感じることは悪いことじゃない。それを勇気を出して乗り越えればきっといい事もあるから」

「……ちょっと難しいけど……分かった。怖いのは嫌だけど……僕、頑張る」


 目元の涙を袖で拭い、頷く。

 この時は全部の意味を理解は出来なかったけど、それでも律が言いたいことをなんとなく分かった。


「大丈夫、大人になったらきっと葵なら意味が分かると思う。それに、きっと、どうしようもないほど困った時は『あの人』が助けてくれる。今は傍に居れないけどその時はきっと傍にいてくれるから、安心して。───周りの友達や家族を大事にしてね、葵。約束」

「うん、約束する」


 小さな小指と、痩せた細く長い小指が絡み合い指切りをした。

 そして、それから半年程経った時律の容態が急変し亡くなった。


「私達の子供に産まれてくれてありがとう。葵のお母さんになれて幸せだった」


 律は最期そう幸せそうに言い、安らかな顔で眠りについた。


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