第三獄 失クシタ感情ノ正体

一.

 男は常に恐れていた。

 自分が起こした行動で、周りの人が傷つかないだろうかと。

 男は常に気にしていた。

 他人に自分がどう思われているのかと。

 迷惑をかけたくない。嫌われたくない。

 誰にも嫌われないなんて無理なのに、それでも周りの目を気にし、恐れていた。

 周囲に合わせようとし過ぎて、時に嘘をついて。

 失敗しては後悔し、自分を責めては自信を無くし。

 自分より他人を優先し、他人に依存し続けた男はある時ことに気付けずにいた。

 否、気付いていながら気づかない振りをしていたのかもしれない。

 偽りの姿が本物となり、嘘が当たり前となる。

 そんな男の末路は、男が最も恐れていたものだった。

 自分の本当の望みに気付いた時には既に遅く、後悔した時には男にとって最も恐れていた状態になっていたのだった。


 ***


 話し声が聞こえる。

 一人は黒緋の声で、もう一人は女性の声だ。


「だいぶ安定しているから、目が覚めたら後はもう大丈夫だと思うわよ」

「ありがとうございます。貴女のおかげで助かりました」

「いいのよ、貴方と私の仲ですもの。弟にも良くしてくれてるし。それにしても葵くんだっけ?───食べちゃいたい位に柔らかそうな肌。きっと食べたら美味しいでしょうね。ねぇ、黒緋。ちょっとだけでも齧っちゃダメかしら?勿論、体調の良い貴方でもいいのだけど」

「駄目ですよ。ほら、離れてください」

「あら残念。まぁ分かってはいたんですけどね」


 艶のある美しい声だ。

 拒否されることが分かっていたのか、女性はおどけたような口調だ。

 二人の距離が近い状態なのが会話と雰囲気から分かり、葵は目を開けることが出来ない。

 再び寝ることも出来ずに、仕方なく葵は必死に寝たフリをした。


「だから近いですよ、香月かづきさん。離れてください。あと───葵は寝たフリが下手すぎますよ。まぁ起きにくくさせたのは私達なんですが」

「うっ……。えっと……おはようございます。そんなに下手くそでしたか?」

「見てて思わず笑ってしまうぐらいには。起きられますか?」


 くすくすと笑い声が漏れているあたり、本当に下手くそだったらしい。

 ゆっくり身体を起こす。

 筋肉がこり硬まっている感じはあるがそれ以外は特に不調を感じていない。

 逆に気持ちが楽になって調子が良くさえ思えた。

 辺りを見てみるとそこは自室だった。


「あら、瞳もとても綺麗なのねぇ。純粋で澄んだ色。声もいい感じだし。ますます欲しくなっちゃう。ずっと気になってたの貴方のこと」


 敷布団の横に座り、葵に見を乗り出すように近づいてくる。

 突然頬に手が当てられ、驚愕に目を丸くする。

 柔らかい女性の手。

 左頬に鱗のようなものがあり、じっと顔を覗き込むその瞳の虹彩は赤い。

 緩やかに波打つような髪は明るいクリーム色で、四箇所に黒い髪があり縞模様のようになっていた。

 僅かにはだけた着物のせいで目のやり場に困り、顔を赤らめながら視線を香月と呼ばれた女性から外す。


「あらあらぁ、顔を赤くして可愛い。やっぱりちょっとだけでも食べさせてくれないかしら?それかちょこっとだけ血をくれるだけでもいいんだけど。大丈夫よ、痛くはないから……ね?」


 頬から手が離れ、ゆっくりと葵へと香月が近づいてくる。

 その瞳は葵を見つめたままだ。

 魅入られてしまったかのように動けなくなる。

 まるで蛇が捕食をするようだと思う。

 しなやかに動く身体は無駄な動作が一切ない。

 このままだと本当に食べられるのかもしれない。

 ───自分は美味しいのだろうか。いや、自分を食べたらこの人がお腹壊しそうな気がする。

 脳裏にそんなことが浮かんだ。

 ぼんやりと香月を動かずに眺めていた葵は、はっと我に返る。

 動いたせいで更に着物がはだけ、滑らかな肩が見える。


「あっ、いや、多分美味しくないので!?もっと自分よりいい人いますよ、きっと!?俺なんか食べたらお腹壊すと思います!!あ、あと着物直してください!いや、そもそも誰!?」


 慌てて布団から飛び出て這うように距離を置く。

 壁に背中を押し付けた状態で、首を横に振りながら早口で叫ぶ。

 顔が熱くてたまらない。

 一息に言い切った葵の荒い息遣いだけが響く。

 寝起きドッキリにしても度が過ぎてる気がする。

 香月は近づこうとした体勢で、目を丸くしながら葵を見ていた。

 黒緋は顔を背けながら、肩を震わせている。


「も……もうダメです。葵、面白すぎます。そもそも言う順番逆なんじゃないですか……普通」

「いや、その……気を悪くさせちゃったらすみません。目が覚めて直ぐに、綺麗な方からあ、あんなに大胆に近づかれて慌ててしまって」

「綺麗だなんて嬉しいわ。けれど、気にするところはそこなのね。なるほどねぇ、確かに変わった子で面白い」


 笑い声を抑えようとするのは黒緋の癖なのだろうか。

 着物の乱れを直し、座り直した香月は嬉しそうに笑みを浮かべた。


「ごめんなさい、弟や黒緋が気に入った子だったからつい。───私は書店、極上堂の店長詩月の姉であり、この辺りで薬師をしている香月。主に漢方や生薬の取り扱いをしているのよ」

「一週間前葵が倒れた後に診てもらっていたんですよ。彼女はなんというか……色々な意味で貪欲で。特に生薬になりそうなものだと収集したがる癖があるので気をつけてくださいね」

「わ、分かりました。というか……一週間!?そ、そんなに経っていたんですか!?───あれ?黒緋さんなんだが顔色が……」


 初仕事の後にとてつもない痛みに気を失ったのは覚えている。

 あの時思い出した記憶は確かに残っている。

 だがまさかそれ程の間意識が戻らなかったとは。

 ふと黒緋をみた葵は違和感に首を傾げる。

 二週間と少しの関わりだが、心做しか顔が青白く疲れている見えるような気がしたのだ。


「あぁ、慣れない事をして少し疲れてしまっていて。でも大丈夫なので気にしないでください」

「貴方の霊力が尽きかけていたんですもの。一週間で意識が戻ったのが寧ろ早いぐらいなの。聞いた話だと力を制限せずに使ってしまってせいね。黒緋が呼びに来た時は本当に危なかったのだから、これからちゃんと使い方を理解して、考えて使いなさいね」

「その……迷惑をかけてしまってすみません」


 心配を掛けたことに申し訳なく思う。

 肩を落としていると、ぽんっと肩を優しく叩かれた。

 顔を上げると黒緋が困ったような笑みを浮かべていた。


「迷惑だなんて思っていませんよ。そこは、『ありがとう』と言ってくれた方が嬉しいです。あの時、あの二人を助けれたのは葵の行動があったからです。私には出来ないことを葵はしたんです。大福も日向達が救われた事に安堵していましたよ。ただ、無理だけはしちゃ駄目ですよ?これからちゃんと自分の力の限度を知りなさい。助けたい人を助けれなくなります。分かりましたか?」

「はい……。その……黒緋さん、香月さんありがとうございました」


 優しく諭すように黒緋に言われ、素直に頷く。

 そして立ち上がって、ゆっくりと頭を下げ礼を言う。


「いえ。葵が目を覚ましてくれて良かった。───さて、私は少し疲れたので休んできます。香月、後は任せても大丈夫ですか?」

「えぇ。私はもう少し葵君と話してからお暇するわ。貴方は少し休んできて。あ、少し待ってね。───これ、飲めば少しは楽になると思うから良ければ飲んでちょうだい」

「ありがとうございます。有難く頂きますね」


 懐から薬包紙を幾つか取り出し、黒緋に香月が渡す。

 薬包紙を受け取った黒緋は「では」とだけ言って少し覚束無い足取りで部屋を後にした。

 心配になって暫く黒緋が出ていった入口を見ていると、香月が口を開く。

 香月に手招きされながら「こっちへいらっしゃい」と言われ、香月と向かい合うように座る。


「よく分かったわね、黒緋の体調の事」

「はい。二週間位ですけど、普段よりも顔色が悪かったですから。それと……なんだか存在が……薄いような感じで」

「そう……よく見ているのね」

「───もしかして俺のせいですか?」


 何となく、そんな感じがした。

 自分のせいで黒緋が体調を悪くしているのではないかと。


「それは違うわ。確かに、黒緋が体調を崩したのは貴方の意識がなく、危ない状態から抜け出させるため。けれど、貴方のせいでは無いの。黒緋が自ら選んで、行動した。貴方を助けたくて。じゃなければさっきも言ったけど、もし助かっていても私だけの力じゃ一週間じゃ目を覚ませれない。詳しくは今は言えないけどのよ」

「黒緋さんだから……」

「えぇそうよ。黒緋が貴方に自身の霊力を分けていたの。最も、分けすぎて自分が霊力を尽きさせる勢いだったけど……。初めて見たわ、あんなに焦った黒緋を。貴方と黒緋は良く似てるのね。誰かを助けようとすると、途端に自分のことを後回しにしてしまう所とか」


 物憂げな表情で、香月は言った。

 その後少しの間だけ体調の確認や雑談を交わし、香月は部屋を後にした。

 家の外まではと見送ろうとした葵を、香月は「目が覚めたばかりなのだから、もう一日は安静に」と断った。

 家を立ち去る姿を窓から見ていた葵の一番心に残ったのは、香月の『二人は良く似ている』という言葉だった。

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