八.

 頬に何かぷにぷにとした感触がする。

 少し気持ちいいその感覚にまた微睡みの中に入ろうとすると、次の瞬間、鋭い痛みが走る。


「ったぁ!?」


 思わず跳ね起き、頬を触るが血は出ていないようだ。


「やっと起きたか、にゃに寝てるんだお前は。せっかく俺が起こしてやろうとしたのに、また寝ようとするし」


 横にいた大福が器用にため息をつくような仕草をしている。

 先程の心地よい感覚は大福の肉球だったらしい。ということは痛みは爪か。

 周りを見ると、島津の家のリビングだ。

 外は既に夜の帳が下りていた為、昼以上に室内は暗い。

 だが、鬼になったせいか夜目が効くようになっており把握には苦労しなかった。


「あ、葵起きたんですね。隣からすごい音がして来たら倒れてたので、びっくりしました」

「黒緋さん。あの……」


 なんと言えば良いのか分からず口篭る。

 そもそもあれは本当にあった出来事なのだろうか。もしかして夢だったのではと考えていると、今度は背後から声を掛けられた。


「夢じゃないよ、葵」


 声だけで分かった。少年だ。

 佐久間もあの空間で見た佐久間ではない、ボロボロの姿のまま泣いている。


「黒緋さん、その、寝てた……時に佐久間さんと話していたんです。信じてもらえないかもしれないけど」

「信じますよ」


 想像よりあっさりと返され、呆気にとられる。

 こんな突拍子のない話だ。信じられないのが大抵ではないだろうか。


「だって葵は嘘をついていないですからね。それに、力を使った残滓が残っていますし」

「にゃんだ、お前も鬼術きじゅつ使えるのか」

「きじゅつ?」


 先程から何度か耳にしている『力』という言葉。

 口ぶり的に葵以外は知っているらしいが、葵には想像すらできない。

「大福、少し席を外して貰えませんか?」と言われ、大福は素直に出ていった。


「私もまさかこんなに早く葵が使えるようになるとは思わなかったので、びっくりしてるんですよ。鬼の術と書いて鬼術。読んで字のごとくですが、全員が使える訳ではありません。鬼術は、術士によってどのようなものになるかが変わってきます。葵の術がどのようなものかは───がよく知っているかと。私はちゃんと見てないので分かりかねてますし」


 黒緋は確かに

 佐久間や大福にも見えていなかったのに、黒緋には見えているようだ。

 少年は不意に無表情になったように見えたが、一瞬後には人懐っこい笑みを浮かべていた。


「そっか、そうだよね。貴方には見えてるんだ」

「はっきりとでは無いですが、居ることは分かりますよ。何故見えるのか、不思議ですね。やっぱり私も鬼術使いだからですかね」

「分かってるくせに」

「さぁ、どうでしょう」


 咎める表情をする少年に黒緋は飄々としている。

 不穏な空気を感じ、葵は切り替える為に少年に話しかけた。

 だが、今更ながら少年の名前を聞いていないことに気付く。


「えっと……君……はなんて名前なの?」

「名前?名前なんてないよ。せっかくだし葵が名付けてよ」


 急に言われても困る。

 自身と同じ見た目だし、同じ名前という訳にはいかないし言いにくくもある。


「せっかくなので名前を与えては?今のこの少年は不安定な状態なんですよ。名前を葵がつけることでより、安定した形になるかと」

「そう。あやふやで不安定なんだ。葵が僕を認識出来るように。僕に佐久間さんを助ける手助けをさせて葵。その為には名前が欲しいんだ」

「名前を君に与えたら、佐久間さんを助けられる?」


 まだまだ分からない事ばかりだ。

 けれど、分からないからと立ち止まっても今のこの現状は変わらない。

 ならただ一つ、佐久間さんを助けたいという思いのために進もう。

 改めて少年を見る。

 突然現れ、言葉で、行動で佐久間へと導いてくれた少年を。


「じゃあ君の名前は───天音あまねなんてどう……かな?」


 パッと頭に浮かんだ名前だった。


「あまね……天音か。嬉しいなぁ、ありがとう葵」


 名付けた瞬間、少年───天音が嬉しそうに笑う。年相応の愛らしい笑みだ。

 自分もこんなふうに笑っていたのかなと葵は思う。

 それと同時に天音との間に確かに強い繋がりを感じた気がした。


「じゃあ葵。やろうか」


 指す出された手を握り返す。

 不思議とどうすればいいか分かる。天音から力が流れてくるのが手から伝わる。

 天音の姿が薄くなり、葵に溶け込むように消える。


「このまま、佐久間さんと島津さんに触れればいい?」

「うん、僕がちゃんと君の力を調整して導くから大丈夫。安心していいよ。鬼のお兄さん……黒さんでいいかな。もし葵が起きなかったら声を掛けて、呼び戻して。───ほら、島津さんがうとうとし始めた」


 頭の中から天音の声が響く。

 佐久間と島津に聞こえてはないとは思うが、「すみません」と小さく言って肩に触れる。

 葵を起点に空色の光が二人を包む。

 先程まで目が充血し、眠たさを感じさせてなかった島津が、急に眠気に襲われたらしく頭が俯きかける。

 意識が無くなりそうになると、慌てて首を振り眠気を覚まそうとしている。だがすぐにまた船を漕ぎ始める。

「寝たくない」と必死になっている島津の姿が痛ましかった。


「いい?葵。島津さんの霊魂が見えるかな?」

「うん、なんだか所々灰色っぽいの斑になってる」


 黒緋は一歩離れた所で、葵達の成り行きを見ていた。

 集中してみた島津の霊魂は、力なく、風が吹けば消えてしまうのではないかと思うほどだった。


「力なく見えるのは生きる意欲を失っているからだよ。生命力が弱くなってるんだ。身体もだけど一番は心が、現実に耐えれなくて壊れかけてる。それだけ、彼は佐久間さんを大切に思っていたんだよ。───さぁ、その霊魂に触れさせるイメージで力を流してみて。大丈夫、優しい葵なら必ず上手くいくよ」

「わ、分かった」


 僅かに緊張しながら言われた通りにしてみる。

 感じろ。流れを。イメージしろ。二人が出会えることを。紐を結ぶように。せめて、二人がこれ以上泣かなくて済むように願いを込めて。

 意識が再び引きずられる感覚に身を委ねる。

 恐怖は感じない。むしろ、直感で上手く行けたことに嬉しさを感じる。


「───行こう佐久間さん。島津さんの夢の中へ。貴方の願いを伝えに」


 ***


 嗚呼、また怖い夢を見てしまう。寝たら駄目だ。そしたらまた、あの日を見てしまう。

 男は目をつぶることを恐れていた。

 血塗れで、横たわる彼女を。何も出来ず、叫ぶことしか出来ない自分を。

 男は目を開けることを恐れていた。

 あの日早く帰ってきてと言わなければあんなことにはならなかったかもしれない。あの日迎えに行けばまた違っていたかもしれない。

 全て過去の事で、変えれない事なのに。

 なんで日向だったんだ。なんで、自分だけ生きているのだろうか。

 答えなんてあるはずないのに、何度も何度も繰り返す。

 運転手も亡くなったと聞いた。日向もいない。

 じゃあこの気持ちはどこに持っていけばいいと言うのだろう。

 真っ暗な自分だけの世界で、現実世界と同じように何もせずに目を閉じ蹲っている。

 目を開けたらまた、あの日を観てしまうから。


「日向、逢いたいよ」


 いつも笑顔で、明るい陽だまりみたいな彼女に。

 ふと風が吹き、甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 緩慢な動きで顔を上げた男は、視界に映る光景に目を見開く。

 真っ暗な場所でも、悲鳴が飛び交う住宅地でもない。


「───だーれだ」


 すぐ後ろから女性の声と共に、温かい手に両目を隠される。


「日向……」


 声は小さく掠れた。身体が震える。

 女性───佐久間はゆっくりと手を離した。

 視界が明るくなり、純白のクチナシの花畑が瞳に映る。

 時間をかけ、後ろを振り返る。


「たまくん、久しぶり」

「ゆめ?」

「そうだね、夢かもしれない。けど、こうやって触って、話せれるよ」


 島津の頬を包む手に島津は両手を重ねる。

 細く、柔らかい手から伝わってくる熱に瞳が潤む。

 肩を震わせ、唇を噛み締める。


「───ごめんね、たまくん。たまくんに辛い思いをさせて。ずっと一緒にいようって約束したのに」


 悲しそうに笑う佐久間に、遂に島津の瞳から涙が溢れ出した。


「日向、逢いたかった」

「うん、私もだよ。あの人……というか鬼かな?に頼んで、ここに連れてきて貰ったんだ」


 夢でも良かった。また逢えたのだ。

 指し示された方を向くと、少し離れた場所に青年が立っていた。パッと見は普通だが、確かによく見てみると額に角があった。

 青年が軽く会釈をしたので、島津もつられて頭を下げた。


「ずっと心配してたんだ、たまちゃんのこと。優しいからきっと、一人で抱えて自分を責めてると思ったから。だから、来たんだ」

「なんで……」

「分かるよ、自分が好きになった人なんだもん。それに、高校からの付き合いだし」


 高校に出会って、好きになって、やがて恋をした。

 社会人になって、お互い余裕が出来て、漸く結婚出来るはずだった。


「俺はあの時、何も出来なかった。血塗れの君を前にただ、叫んでることしか出来なかった。そもそも俺が早く帰ってきてと言わなきゃ、日向を迎えに行っていれば、日向は死ななかったかもしれないのに……!俺が───」

「ストップ」


 衝動のままに叫ぶ島津を、日向が優しく手を当てて止める。

 何も言えなくなった島津に佐久間は静かに語りかける。


「たまくんは悪くないよ。誰も悪くない。だから、お願い。あまり自分を責めないで。一人で抱え込まないで。たまくんが辛いように、私もたまくんのそんな姿を見るのが辛いんだ。ねぇ、私にも辛さの半分を背負わせてくれないかな?」

「───日向はずるいよ……」


 日向に抱きしめられ、肩に頭をうずめる。

 背中を優しく撫でられ、内に留めていた思いが溢れ出す。


「あの時、自分が何も出来なかったのが辛いんだ。傍に寄ることもできず、助けることも出来なかった自分が」


 知識のない自分に出来ることなどないのは島津も分かっていた。けど、何も出来なかったのが辛くて、苦しくて。


「君が居なくなった事を理解したくなくて、周りから距離を置いた。外に出たら余計に実感して。あの日からずっとずっと、ここが痛くて。佐久間がいないなら俺もいっそいなくなりたくて。息ができないぐらい苦しいのに、でも、死ぬことも出来なくて。どうすることも……できなくて」


 胸を押さえる手は小さく震えていた。

 思いのまま言うせいで、訳が分からなくなる。

 それでも、止めることが出来なかった。

 時々相槌をしながらも、佐久間はずっと聞いてくれていた。

 長い間溜め込んでいた膿を出すように話し続け、だんだんと楽になり落ち着いてくる。


「落ち着いた?」


 頷き、ゆっくりと顔を上げる。

 いい歳して目は泣き腫らしており、正直酷い顔だと思う。


「酷い顔してる?」

「ちょっと。こんな顔初めて見た。───でも、憑き物が落ちたようないい顔してる」


 口元に笑みを浮かべて問うと、笑いながら返された。


「うん、君のおかげかな」

「それなら、良かった!さぁ、そろそろ行かなきゃ」


 手を離し、佐久間が一歩距離を置く。

 先程まで離れていた青年が近くに来て、「すみません」と申し訳なさそうに謝った。

 何故だと思ったが、佐久間の片手をとったことで納得する。

 青年と、佐久間の姿がぼんやりと薄くなり始める。

 思わず「行くな」と手を伸ばしかけたが、島津はなんとか抑えた。


「どうしても行ってしまうのかい?」

「えぇ。元々無理を言って来たんだ。たまちゃんがあまりに心配だったから。でも、もう大丈夫かな」

「やっぱり君はずるいや」

「褒められてる?───貴方がどうしても辛いときはその半分を持たせて。今みたいに思いのまま話せば、叫べば、きっと少しは辛くなくなるから。そして、忘れないで。貴方の幸せをいつも願っていることを。貴方の幸せが私の幸せなんだ。だから、私の分まで幸せになって沢山生きてね」

「頑張るよ。じゃないとまた君を心配させちゃうからね」

「本当だよ、もう」


 佐久間は頬を膨らませていたが、やがて声を出して笑った。釣られて島津も笑う。

 こんなに笑ったのは何時ぶりだろうか。


「やっぱりいい香りだな、君の好きなクチナシの花」

「覚えてくれてたんだ。ねぇ、クチナシの花言葉って知ってる?」


 首を振る。花言葉は知らなかった。


「クチナシの花言葉はね『とても幸せです』と、『幸せを運ぶ』なんだ。今の私の気持ちと一緒。───貴方に逢えてとても幸せでした。私を愛してくれて、貴方を愛させてくれてありがとう環くん。ね?笑ってよ。たまくんの笑った顔が私は一番好きなんだ」


 涙を浮かべながらも晴れやかな笑みに、再び涙があふれる。

 それでも、必死に口角を上げる。


「ありがとうたまくん。たまくんの悪い夢は私が持っていくね」


 今にも消えそうな佐久間はそれでも、とても綺麗で。


「日向を、よろしくお願いします」

「は、はい。ちゃんと!」


 青年がしっかりと頷いたのを見て、安心する。

 そして、日向に向かって一言。


「───行ってらっしゃい、日向」


 あの日、言えなかった言葉。何の変哲もない、言葉。

 目を丸くした佐久間は、最後に片手を振った。


「───行ってきます、環くん!」


 二人の姿は霞のように消えた。

 後にはクチナシの花畑に島津だけが残った。

 そよ風が、クチナシの花の香りを運んでくる。

 雲ひとつない見上げ、島津は涙を拭う。


「よしっ、帰ったらまず部屋を片付けなくちゃな」


 一つ、大きく伸びをする。

 夢から覚めたら、先ずは綺麗にしよう。それから、行くことが出来なかった佐久間の墓参りに行こう。

 まだ、完全に受け入れには時間がかかるかもしれない。


 けれど、少しずつ前に進める気が今はするのだった。

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