六.
『私』は幸せだった。
消して裕福では無かったけど、優しい両親に大事に育てられ大人へと成長した。
そして大切な彼とも出会い、将来を共にしようと約束し合った。
愛し、愛されることがこんなに幸せな事だと知れたのは、大好きな家族と彼のおかげだった。
後、少しで彼と一緒になれる。きっと一緒に幸せにな家庭を作れる。
子供が出来たらまず両親に見せるんだ。きっと喜んでくれる。
あと少しでで籍を入れ、引越しをする。今の場所とは違う、怪我をしたあの子が堂々と過ごせれる場所。
今の場所だと飼えないから飼える彼の住むアパートに住むことになったのだ。
「ねぇ、大福。そしたら一緒に住もう」
触り心地の良い感触を楽しみにながら、三毛猫を撫でる。
猫は言っていることが分かってるかのように頭を擦り寄せひと鳴きする。
怪我を手当した後からちょくちょく家の近くに現れるようになったオス猫。
大福のような色合いをしているから『大福』。初めて出会った時にピッタリの名前だと思ったのだ。
腕時計を見て慌てる。
「やばっ、じゃあ大福、仕事終わったらまた会おうね!」
仕事に遅刻してしまいそうになり、横に置いていた鞄を持って手を振りながら職場に向かう。
今日は自分の誕生日で、『彼』が祝ってくれるのだ。
「早く帰ってきてね。そっちの家で待ってるから」と今朝電話で言っていたのが嬉しくて、つい頬が緩んでしまう。
今日は早く帰らなくちゃ。誕生日の日が天気が悪いのは残念だけど、それでも大事な日だから。
楽しみなことがある時ほど、何時もよりも時間が経つのが遅く感じてしまう。
それでも、漸く仕事が終わり電話を彼にかけ、帰宅する旨を伝えて職場をでる。
「うわぁ……土砂降りだ……。さっきまで小雨だったのに」
先程まで小雨だったが出て暫くして土砂降りになっていた。
早く帰ろう。濡れるのは嫌だけど、家に帰れば待ってる人がいるのだから。
「大福は……さすが間に居ないね。まぁ風邪ひいちゃいけないし」
通り際何時もいる場所に大福がいなかった。
この土砂降りじゃ仕方ない。明日また会えるだろうし。
ここの角を曲がって歩道を渡ればあと少しで家だ。
逸る気持ちで小走りになる。
早く、早く。
家が見えて来た。
あとすこ───
突然、横から強い衝撃を受けた。訳が分からず吹き飛ばされ、すぐ近くで何かがぶつかるけたたましい音がする。
何が起きたの。あちこち痛い。暑いはずなのに酷く寒い。
息をするのが辛い。視界が掠れ上手く見えない。
遠くでサイレンの音がする。人々の悲鳴が聞こえる中、一番はっきりと聞こえた声は好きな人の悲痛な声。
視線だけ向けようとするが、それすらも上手くできない。
「日向……!!嫌だよ!日向、日向……!頼む、行かせてくれ……!離してくれよ……!!ごめん……ごめん日向」
ああ、自分はきっと死ぬんだ。
涙が零れる。
脳裏に浮かぶのは大切な人達との日々。
泣いたことも、怒ったことも、笑ったことも沢山あった。走馬灯とはこういう現象かなと思う。
幸せだった。幸せにこれからもっとなれるはずだった。
遠のき始める意識の中で、自分の死がすぐそこだと何故かはっきりと分かって。
人間とは最期まで聴覚が残ると聞いたが、今はそれが酷く辛い。
「泣かないで」なんて、無理なことは分かってる。
けど、ずっと謝り続けて自分を責めるのを聞くのは切ない。
言わなくては。
それだけが埋め尽くす。
言わなくては。彼───島津環に。例え実体を持たない存在になったとしても。これだけは言わなくては。
強い思いだけで何とかこの世に留まる。
目の前にいる彼は、日に日にやつれていって。部屋もあれだけ綺麗にだったのに、徐々に足の踏み場が無くなっていく。けれどどうすることも出来ない。届かないのだから。
ずっと謝っている。ずっと泣いている。ずっと───「あの日早く帰ってきて」と言った自分を責めている。
胸が締め付けられるような苦しみを感じる。
急がなくちゃ。時間が無い。
伸ばしかけた手を止め、ふと、動く片手のひらを見る。もう片方の腕は痛くは無いが、動かない。
先が既に消えかけてる細い手のひらを見て、『私』は違和感を覚えた。
なんでだろう、何かが違う気がする。
途端見ている手が、景色が、ノイズが入ったかのように乱れる。
さっき迄の追憶も強い気持ちも、全て自分のもののように感じていたが、違う。これは自分ではない。
だが、どうすればいいのか分からないのだ。
彼女の思念に飲み込まれ、自分の名前すら分からなくなってしまいそうだ。
このままでは戻れなくなる。それだけは理解していた。
ノイズが酷くなる。
見ているだけで気分が悪くなりそうな程に乱れたモノクロの世界。
───葵。
遠くで少年の声が聞こえた。
そうだ、自分の名前は『葵』だ。
声の出処を探していると、天井からあるものが垂れ下がっていた。
「手……だよね、どうみても」
片手が何かを探すように動いている。子供の手だ。
人によってはホラーでしかない光景だ。
「あれ、ここら辺だと思ったんだけとなー。おーい、あおいー」
少年の緊張感のない声が聞こえる。
それが怖さを半減させてはいるかもしれない。
身体を自分の意思で動かす事が出来ない。
更にノイズが酷くなる。
この身体の主の想いが強く重く、空間にに響き始める。見ている風景の端から崩れ始める。
このまま此処に居たら駄目だと流石に葵にも分かる。
入り込んでしまった『器』から出ようともがいていると、「あ、居た」と言われながらどうやってかは分からないが、腕を掴まれ上へと引っ張りあげられる。
僅かな抵抗のようなものを感じながらも、『器』から抜け出したのが分かる。
視点が替わり、上から今度は二人の様子を見下ろす形になる。
そのまま手が出ていた所に空いていた穴へと引きづり込まれる。
広い物が何一つない、空虚な灰色の場所。
「何も無い……なんだか寂しい場所」
「もう、深く潜りすぎなんだよ。とりあえず、おかえり。と言ってもまだ、彼女の空間だけどね。彼女の創った境界の内側。心の奥底、人間が誰しもあるかもしれない『自分だけの世界』に近いかな。だからここは彼女の心が反映されて創られた世界」
頬を膨らませながらも教えてくれる少年。
正直、難しい。そして、それを自分と同じ顔の子供が言う事の違和感が凄い。
本人は葵の一部だと言っていたが、仮に本当だとしても色々と疑問があるのは事実だ。
しかし、この少年が居なければあの空間から戻ることは出来なかったのは確かだ。
「さっきのあれは何だったの……?俺が佐久間さんになったみたいな感じだった……」
「あれは、彼女の───佐久間さんの霊魂の記憶。君は佐久間さんの記憶の追体験をしたんだよ。君の鬼の力を使ってね。まぁ、君が彼女の霊魂と深く繋がりすぎていたから、より感情も、感覚も共有に近い形になった。彼女の死の痛みも、苦しみも、悲しみも君も味わったんじゃない?」
「死……あれが……」
声が震える。恐怖でではない。ただ、帰っていただけなのにそうなってしまったということが哀しいのだ。
激しい痛みの後に徐々に失われていく感覚と、それでも最期まで残った聴覚によって齎される島津の悲痛な叫びが鮮明に蘇る。
身が引き裂かれそうだった思いだった。
でも、追体験したから分かる。きっと、彼女が一番辛いと思っているのは多分自分が死んだことじゃない。未練を残して現世にしがみついている本当の理由。
「佐久間さんはどこかにいるのかな」
「居るよ、ほら、あそこ。けど、此処では君が異端な存在だから、あまり長居しちゃ駄目だよ?それこそ本当に身体に戻れなくなっちゃうから」
「え、じゃあ今俺の身体ってどうなってるの?」
「多分だけど、倒れてるんじゃないかな。こう……バタンッて感じに」
現実の自分の身体が倒れた拍子に怪我してないといいなと思いながら、葵は自分の後ろを指指され振り返る。
葵達がいる場所から少し離れた位置に、ぼんやりとした表情で女性が佇んでいた。
佐久間日向だ。
服装は現実世界にいた時と変わらないが、どこも怪我をしている様子もなく、服も破れていない。
佐久間がすぐ近くにいた事に安堵しながらも、同時に人の心に土足で踏み込んだという罪悪感を抱く。
だが、ここにいても埒があかないのもまた事実だ。
「あの……」
先ずは謝らなければと思いながら近づいて声を掛ける。
振り返った佐久間は訝しげに眉根を寄せ、何も言わずに葵と少年を交互に見比べている。
快く思われないのは当たり前だろう。
「いきなりですが、ごめんなさ───」
「───人が居る!え!?なんで!?聞こえてる!?」
「うぇ!?き、聞こえてます!聞こえてますから揺すらないでください……!」
頭を下げ、謝罪しようとしたが次の瞬間、両肩を掴まれ驚愕に声が裏返る。
そのまま揺すられ悲鳴が上がる。
最初に見た時の話しかけても反応せず、消えかけていた姿からは全く想像も出来ない状態に、葵の思考は完全に停止をした。
因みに隣にいた筈の少年は葵を助ける訳でもなく、少し離れた位置で成り行きを見ていただけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます