四.
「ここだ」
大福の案内によってたどり着いたのは、先程いた場所から徒歩で20分程歩いた住宅地にある三階建ての小さなアパートの一室だった。
時間は既に日が傾きかけた夕暮れ時。地獄を出た時は朝方だったはずなのだが、どうやら、地獄と現世では時間の流れが異なるらしい。海外への渡航による時差ボケに似たものを感じる。
「だから私にとってはそんなに経ってなくても、大福にとっては久しぶりになるのでしょうね。まぁ、そもそも妖なのでそこでもまた時間の流れは違うんですが」
異形のものは人間と比べて遥かに長生きだ。
一人一人の人間でも異なるが、人の時の流れとそれ以外の時の流れはそれ以上に全て異なる。
「にしても、一ヶ月も連絡もにゃしとはどうゆうことだ。にゃんど連絡してもつにゃがらにゃいし。スマジゴ持ってる意味教えろ」
「すみませんって。少しドタバタしてたんですよ。お詫びはちゃんとしますから」
毛を逆立て威嚇する大福に、黒緋は困ったような顔で返していた。
そもそも、この姿でどうやって連絡するのだろうか。そして、低い声なのに猫の姿と口調のせいかそこまで怖く感じない。
ぼんやりと二人のやり取りを見ていた葵は、ふと疑問抱く。
「というかここからどうするんですか?人、いる感じですけど」
部屋の前に来たはいいが、どうやって佐久間日向に会うのだろうか。
カーテンが閉められているが、鬼になったせいか何となくだが人のいるのが分かる。おそらく佐久間日向の婚約者だろう。
鍵が買っているかもしれない扉をどうにかして入っても、男がいるならまず騒がれるだろう。
仮にこちらが見えていなくても、勝手に扉が開いて誰もいない状態だ。相手からしたらどちらにしても平常でいられるとは思えない。
「そりゃあ───ここから」
「はい?」
扉───ではなく、その横の壁に手を当てながらにこやかに宣言する黒緋に、思わず聞き返す。
何も無い壁だ。そこからどう入ると。壁を壊すなんてことは流石にしないだろうけど。
困惑しながら見ていると、壁に向き直った黒緋の身体が仄かな紅色の光に纏われ始める。数秒後黒緋の姿が透け始め壁の中に溶けるように入っていく。
先程から理解出来ないことばかりが続く。いや、そもそも理解出来るような事が少ないのだが。
完全に壁の向こうへ姿が消えた後に、黒緋が消えた壁に触れてみる。
だが、黒緋のように通り抜ける訳ではなく硬くひんやりとした冷たさだけが手に伝わる。
「そのままやっても通れないぞ」
「大福さん、やり方知ってるんですか」
「大福でいい。そっちのが気楽だ。黒緋が教えてにゃいのか。そりゃあ見てるだけじゃ分からにゃいにゃ。───黒緋、帰ってこい。自分で大事にゃ若鬼に教えろ」
下から見上げながらため息を器用に着いた大福は、先程黒緋が消えた壁に近づき声を上げる。
数秒後、先程壁の先へ消えたのと同じように今度は姿を現す。完全に通り抜けると身体越しに見えた壁は透明ではなくなった黒緋によって見えなくなる。
「そうですね。つい聞かれた流れで実演だけしちゃいました。とりあえず今回は簡単にやり方だけ言いますね」
「俺でも出来ますかね……?」
「鬼や妖はみんにゃ持ってるものを使う。葵にも出来るはずだし、そんにゃに緊張しにゃくて大丈夫」
「はい、慣れるまでは時間かかるかもですがやる分にはそんなに難しくないので」
大福はどうやら言葉の“な”が“にゃ”に話す時変わるみたいだ。
緊張しない訳では無いが、黒緋と大福に大丈夫と言われ少し肩の力が抜けた。
「いいですか。一部の人間にもありますが私達異形と呼ばれる者達個体差はあれど皆霊力を持っています。霊力とは生命が生きるための力でもあります。私達が人間より多くの霊力を持っているのは、より霊的な存在に近いからでしょうが。ともあれ妖なら妖力とも言われますが、霊力の強さによってその者の強さは大きく異なります。先程の壁抜けは今言った霊力を使ってやります。さて、───葵、壁に手を当て目を閉じて」
壁に触れ目を閉じる。
外の光で僅かに明るく感じるが、視界が暗くなる。
「意識を集中して。ゆっくりと呼吸をしながら自分の中の気の流れを感じてください。貴方の中にある力で全身を包み纏わせて、自分の存在を限りなく薄く、周りの景色と───空気と同化し、壁を通り抜けるようなイメージをしてください」
「イメージ……」
言われはするが難しい。
見えないものだから余計に困難に思え焦りを感じていると、肩に微かな重みと暖かい感覚が伝わる。
「焦らなくいいです。身体の力を抜いて。───ほら、自分の鼓動が分かりますか?」
問われ頷く。
トクトクと脈打つ鼓動が、胸の辺りから全身をまわっていくのを感じる。周囲の雑音が遠のき、自然に呼吸が深くゆっくりに変わる。
先程まで手に伝わっていた壁の冷たさも感じず、その壁へも自身を流れるものが広がるように錯覚を起こす。
ゆっくり、ゆっくり。重心が前へ行く。
葵の身体も黒緋と同様、光が纏う。鮮やかな青色の光。
壁にぶつかることなく、周りに何も無かったかのようにすり抜ける身体。
目を閉じたまま、流れに身を任せる。
次の瞬間───
「「あっ」」
ガンッと激しい音と共に、右手の辺りに痛みが走り意識が急激に引き戻される。
ぶつかった衝撃か、隣にあった棚の上にあった小物が頭にぶつかり小さな音を立てて下に落ちた。
「いたっ」
突然の出来後に倒れ込んでいた身体を起こし、辺りを見渡す。
そこは先程まで居た外ではなく、室内の玄関口だった。薄暗く、明かりは何一つ
どうやら壁をすり抜けれたのは良かったが、勢い余ってそのまま倒れたらしい。幸い、右手は軽く捻ったものの他に大きな怪我はなさそうだった。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。ちょっとビックリはしましたが」
「気をつけろよにゃ。普通の人間にゃら切ったり、骨が折れたりしたレベルだぞ」
後ろから心配そうに声を掛けられ振り向き答える。
怪我が軽いのは鬼であるかららしい。既に手首の痛みも無くなってきているので、治癒力は高いのだろう。
倒れた際に衣服へついた土埃を軽く払っていると、直前の廊下の先にある部屋の扉が高い音を立て開く。
「誰かいるのか」
怯えを感じさせる震えた声を出しながら男が顔を出す。
転倒した時に出た音は流石に聞こえるらしく、突然の音に驚いて出てきたらしい。
恐る恐るといった様子でふらふらとした足取りでこちらに近づいた男は、 間近で見ると酷くやつれているのが分かる。
手入れがされていないであろう乱れきった髪の毛と無精髭。頬は痩せこけ、充血した瞳は虚ろで光を宿していない。
やはりこちらが見えては居ないらしく、訝しげに玄関口を見渡していた。だが、下に落ちていたものを見た瞬間、顔色を変えて慌ててそれに駆け寄り拾い上げる。先程葵の頭に落ちてきたものだ。
葵をすり抜け男が拾い上げたそれは1枚の写真の入った写真立て。
髪を頭の上で一つに結い上げ男性の片腕に抱きつきながらピースをする女性と、恥ずかしそうに頬を赤らめながらも幸せそうに笑みを浮かべる男性。二人の指にはお揃いの指輪が写っている。
写真立てにヒビが入っていないことを確認した男は安堵の息を吐くが、直ぐに辛そうに顔を歪め顔を背けた。そしてせっかく拾い上げ無事を確認したのに、次の瞬間、唇を噛み締め写真を持ち上げ投げ捨てようとした。だが、男の腕は振り上げた形のまま止まる。
力なく腕を下ろし、涙を浮かべた男はその写真を見ないようにしながら棚の隅に伏せて置き項垂れた様子でまた元の部屋へ踵を返す。
すれ違いざま、葵は微かに聞こえた声にハッと男を───否、男の後ろにいた人物を見た。
「黒緋さん、今あの男の人の裏にいた人がもしかして……」
「そうですね、おそらく」
「でもっ、さっき見た写真と……!」
「同一人物だ。あの男は彼女の婚約者だった男にゃ。そして、彼の後ろにいたぼさぼさの髪のにゃがい彼女が───佐久間日向。今回の対象者だにゃ。いつもにゃに言ってるか分からにゃい」
そう、男の背後にはもう一人いた。
俯き虚ろな、だけど酷く哀しそうな表情で小さな声で呟いている血塗れの女性。スーツはあちこち破け、そこから見えた青白い肌についた痛々しい傷と、あらぬ方向に折れた片腕。こちらが見えているはずなのに一切振り向きもしなかった女性。
あまりにも写真と異なる二人の姿に葵は絶句すると同時に、すれ違いざまに聞こえた声が脳裏に蘇る。
───『お願い、気づいて』と確かにそう、言ったのだ。
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