第二獄 叶ワヌ夢ト叶エタイ願イ

一.

 どうして気付いてくれないの。

 女の声はしかし、誰にも届かない。

 私は近くに居るのに、声を掛けているのに。なのにどうして───と。

 何度も何度も繰り返す。

 目の前で声を殺して泣いている彼を見て、つられるように涙を流す。

 どうしてと言いながらも頭の片隅で分かってはいた。のだと。

 だが、願ってしまうのだ───気付いてと。

 せめて、せめてこれだけは伝えたいのだと。

 女は薄れる身体を必死に男に伸ばす。その手が届くことはもう無いのに。

 時間が無いのは自分が1番よく分かっている。

 神様。神様がもし居るのなら、お願いします。

 ───彼にこれだけは言わせて欲しいのです。

 毎日毎日、心の中で居るかも分からない神に願う。いや、もう神じゃなくてもいい。悪魔でも何でもいいから。

 願いながら今日も、女はその場に立ちすくむ。


 ───誰か、私の願いを叶えてください。


 呟いた声は誰にも届くことなく、今日もまた男の殺しきれない嗚咽だけが響く部屋に消えた。


 ***


「───やっぱり見慣れないなぁ」


 布団から起き、部屋に備え付けられていた鏡を見て葵は呟く。

 この世界───地獄で目が覚めてから二週間程。

 一日目は結局夕ご飯を食べ、少しだけ雑談をしてから床に着いた。

 やはり、夢では無いのかと実はほんの少しだけ寝る直前まで思っていたのだ。起きたら全てが夢だったというオチがあるんじゃないかと。結局、夢ではなく現実だったのだが。

 それから一週間程は新しい環境に馴染めるようになることに精一杯だった。

 町の事や、ここの生活様式などを覚えるだけで自分の事は後回しになっていた。

 生活に必要な衣類の調達や、未だ片付けきれていない部屋の整理などに追われていたのだ。

 特に、片付けに関しては優先度が高くすらあった。時々隣の部屋の積み上げていたであろうものが振動などによって崩壊を起こし、酷い時は夜中に崩れる音で目を覚ましたこともある。

 自分に目を向ける余裕がなかったのだ。だからこそ、ようやく少し落ち着いてきてから改めて自分を見てみても、生前の記憶が無いせいか、いまいちこれが自分だと実感ができない。

 記憶喪失には色々種類があるらしいが、こうも自分が誰か分からないような感じになるのだろうか。

 疑問に思いはしたが、「まぁ、記憶喪失にはまだまだ解明出来ていないことも多いし」と自己解決し一人頷く。

 鏡に映っているのは、寝起きで少し朧げな表情をしたあどけなさを残した顔立ちの青年だ。肩につくかつかないかの長さのダークブラウンのナチュラルマッシュの髪。額から生える一本の角。瞳は晴天の澄んだ空のような天色あまいろをしている。

 角と日本人とは思えないような瞳の色もあって、やはり自分だと思えない。

 寝起きで思考が纏まっていない中、とりあえず実感を得る為頬をつねってみる。勿論、鏡の青年も同じ動作をした。


「痛い……」


 じんわりと痛みが広がった。

 やっぱり自分なんだと再認識する。


「おはようございます葵。───朝から何してるんですか?自分をそんなに見つめて。これってなんて言うんでしたっけ?ナルシスト?」


 肩がびくりと大きく震え、一気に頭が覚醒する。

 後ろを振り返ると入口に黒緋が立っている。

 羞恥に頬が熱くなるのを感じた。


「あ、いや、えっと、角とか瞳とか見慣れなくて……!ナルシストとかではないですよ!?───っうわ!?」


 やや早口で言い訳じみたことを言う。

 黒緋に近づこうとしたが、慌てすぎてまだ片付けてない布団が下にあることを失念し、足を引っ掛け転倒した。

 転ける原因である布団のおかげで、痛みはそこまでなかったのは幸いと言うべきだろうか。


「何度か声をかけたんですが、反応が無かったもので。朝から鏡をまじまじ見ているとは思いませんでした。葵がそういう子じゃないのは見ていたらなんとなく分かりますが、面白くてつい。少しからかいすぎましたね。大丈夫ですか?」

「人をからかわないでくださいよ……」


 からかわれたことを少し不服に思いながらも、礼を言って差し出された手を掴み立ち上がる。

 この二週間で分かったことだが、黒緋は普段冷静で落ち着きのある男だ。しかし、時々今みたいにお茶目な一面を見せる。

 笑いを押し殺そうとしているのだろうが、時々殺しきれない声が聞こえる。

 余程面白かったのだろうか。肩も見ると小刻みに震えているのが分かる。


「そんなに面白かったですか?」

「気を悪くさせてしまったらすみません。ただ、あまりに興味津々きょうみしんしんな様子で鏡を眺めていたので。二週間経ったとはいえ、葵にとっては見慣れない自分の姿ですし、仕方ないのかもしれませんが。まさかあそこまで慌てるとは───」

「もう、それぐらいで大丈夫です、はい……」


 片手を出して制止する。

 自分で聞いておいてあれだが、恥ずかしすぎて直視が出来ず、思わずもう片方の手で顔を隠しながら逸らした。

 流石に一人で慌てふためき、盛大に転んだのだ。傍から見たら確かに滑稽に見えるだろう。

 穴があったら入りたいとはこういう時に使うのだろうか。

 暫くしてからなんとか深呼吸をして自分を落ち着け、再び黒緋を見た。


「それにしても、今日はどうしたんですか?」

「あぁ、そうでした。葵にこれを渡したくて」


 黒緋は自身の足元に置いていた紙袋を差し出してきた。

 中に入っていたのは一着の黒のスーツと白のシャツ、黒ネクタイ。


「仕事着です。そろそろ仕事も再開されるので。葵に合うように作られているので大丈夫だとは思いますが、一度袖を通して見てください」

「現代的だ……。和服じゃないんですね、仕事着」

「こちらの方が動き易いですし、時々現世に出張……みたいなこともありますからね。流石に和服は浮きすぎるので。現代に合わせた服装をしています。獄卒達も最近仕事着は洋服───軍服ですか。あちらが多くなっています。寧ろ未だに鬼のイメージが裸に褌とか虎皮パンツとかいう現世が如何なものかと」


 確かに鬼は天然パーマとか、裸に褌、金棒というイメージしか無かったのは事実だ。肌も赤や青の鬼しかいないと思っていた。実際はパッと見角は確かにあるが、あとは人間と変わらなかったのだが。

 頭の中に以前詩月に貰って読んだ本の内容が思い出される。

 先ず鬼には幾つか種類がいる。

 一、妖としての鬼。これは有名なのは 酒呑童子しゅてんどうじや『茨木童子いばらぎどうじだろうか。現世や隔世にいる。

 二、怨霊としての鬼。人間の嫉妬や憎しみなどにより悪鬼と化したもの。現世におり、人に災いをもたらす。 鬼女きじょが代表的じゃないだろうか。

 三、神としての鬼。山神に属す、一つ目の鬼。

 四、常に飢え、苦しむ事で罰を与えられる鬼、餓鬼がき。こちらも人がなるとされている。

 五、地獄に住む鬼。獄卒として亡者に罪を償わせる仕事がある唯一の鬼。稀に何らかのきっかけで葵のように人から地獄の鬼となる者もいるが、殆どが地獄で誕生している鬼である。生活に使うエネルギーも異なる為、現世とは異なる独自の生活様式があったりする。又、この鬼達はほぼ全て次のいずれかの色の瞳や髪をしている。赤、青、黄、白、緑、黒の六色。色によって鬼の司るものが異なるらしいが、流石に詳しくは書いてなかった。

 確かに現世に裸姿の鬼は亡者もびっくりだろうが、スーツ姿で現れても威厳も何も無い気もする。そもそも現世で言われているイメージは恐怖を抱かせるものだから威厳がないのはどうなのだろうか。


「昔は確かに和服───なんなら現世のイメージに近い姿の時もあったみたいですが。そのせいで鬼が地獄に連れていくというイメージが着きすぎて、脱精鬼だっせいき脱魂鬼だっこんき縛魄鬼ばくたくきの方々が仕事に向かうと亡者が恐怖で話が出来なくなる人もいたので。最近はスーツのおかげか恐怖心が少し薄くなり、スムーズに生命機能を停止させ、肉体と魂を切り離し腐らせることが出来ると喜んでいました。服装によるイメージアップですね」


 衝撃的な事実を聞いた。だが、確かに鬼が来ると地獄に落ちるとイメージはある。

「とりあえず来てみたら見せてください」と言い、下に降りていく黒緋。

 見送った後、寝間着である浴衣を脱ぎ仕事着に袖を通してみる。ネクタイも少し苦戦はしながらなんとか結ぶ。サイズは黒緋が言った通りちょうどよく、着心地も良い。

 和服もだいぶ着なれたし、嫌いでは無いがやはりスーツとはいえ洋服は落ち着く。

 仕事がそろそろ始まると黒緋は言っていた。

 現世での仕事とは一体どんな仕事なのだろうかと胸を躍らせながら、葵は布団を仕舞い下へと降りるため部屋を出た。

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