のけもののけもの
鍵崎佐吉
あのけもの
それはただ「獣」と呼ばれていて、災いをもたらすゆえ名を呼んではならないと伝えられていた。あの獣がいつからいるのかは定かではない。親父が子どもの頃からずっといたのだと言うから、少なくとも五十年以上前からこの村に居座っていることになる。悪さをした子どもには「獣に食われちまうよ」と言うのが常套句になっており、大人になってそれが実在するのだと知った時には目まいを感じるほどの恐怖を覚えた。
なぜそんなものが村にいるのかと言えば、昔は豊穣をもたらす気のいい山神だったあの獣が、戦があった折に人の味を覚えてしまったせいなのだそうだ。放っておけば村人を食われるし、かといって殺してしまえば祟られる。先人たちは悩んだあげくに、お社とは名ばかりの座敷牢を作ってそこに獣を放り込んでしまった。以来何年が経ったのかはわからないが、今でもお社の奥の座敷牢にはその人喰いの獣がいる、ということになっている。
こんな言い方をしているのは、俺に限らずほとんどの村人が実際にはその獣を目にしていないからである。好き好んでそんな化物に会いに行くやつなんて当然いるはずもない。だがお社の掃除に駆り出された時、暗闇の中からかすかに漂ってくる獣の匂いが、確かにそこに何かがいることを示していた。
そんな村だから何か良からぬことが起こるたびに「獣の祟りだ」と騒ぎ立てるやつがいる。確かに雨が降らぬのは大いに困るが、だからと言って獣に頼んでどうこうなるものでもあるまい。しかし今回ばかりは相手が悪かった。地主のせがれである佐助はどこか冷めた目で皆を一瞥しながら言う。
「これが祟りであるのなら、やはり人でも捧げなければならんだろう。とにもかくにも誰かが獣の様子を見てこなけりゃ始まらん」
佐助の目がぴたりと俺を見据えて止まった。すうっと背筋に冷たいものが走る。
「曲がりなりにも神に捧げるのだから、やはり若い女の方がいいだろう」
やつは俺に妹がいるのを知っていて、あえてそう言っているのだ。親父が病に倒れて以来、うちは周りの助けなしではやっていけない。それにもし佐助がその気になれば逆らえる者はいないだろう。俺にはもう選択肢はなかった。
「……俺が様子を見てくる」
「よく言ってくれた。頼んだぞ、二郎」
もし俺が獣に食われたら、その時は妹の番になってしまうのだろうか。とにかくどうにか時を稼いで、雨が降るのを待つしかない。どのみちこのままだと俺たちには未来などないのだから。
俺は震える足を引きずるようにして社の前までやってくる。もらった鍵で重い扉を開けると、暗がりの中から嗅ぎなれぬ異臭が漂ってくる。以前は気づかなかったがただの獣の匂いではなく、なにか煙のような思わず咳き込みたくなる匂いも感じられる。蝋燭に火をつけ恐る恐る奥へと進んでいくと、地下へと続く古びた石の階段が現れた。一歩ずつ、音をたてぬようにゆっくりと降りていく。獣は牢の中にいるというのだからいきなり襲い掛かられることはないだろうが、その話だってどこまで信じられたものかわからない。ただどんどんと濃くなっていく匂いが俺の心臓を逸らせる。数刻でもここにいれば、気が狂ってしまいそうだった。
「おやぁ? お客さんかい?」
不意に暗闇の中から若い男の声が聞こえた。そのまま気を失ってしまってもおかしくないような状況だったが、その声はどこか柔和で心を包み込むような優しさが感じられたので、どうにか寸前で踏みとどまることができた。
「ああ、驚かせたか? こっちだよ、こっち」
声のする方を照らしてみるとそこには大きな座敷牢があり、その中に一人の青年が寝そべっていた。獣に捧げられた者かと思ったが、牢の中には他に何もいない。青年は人当たりのいい笑みを浮かべてこちらにゆっくりと手招きをする。
「なに、怖がらなくてもいい。少し話をしよう。そのために来たんだろう?」
俺が恐る恐る近づいていくと青年も体を起こし、牢の格子に縋るような格好でこちらに目を向ける。こうして見ると歳もさほど違わないように思えるが、その伸び切った黒い髪やところどころほつれて穴が開いている着物から、おおよそただの人ではないことがうかがえる。俺は意を決して青年に呼びかけた。
「まさか、あんたが獣か?」
青年は少し驚いたような表情をして、しばらく何かを考えこんだ後、またあの柔らかい笑顔に戻った。
「獣、獣……か。まあそういうことになるだろうな。いや、別になんと呼んでくれてもかまわない。ただ俺にもかつては立派な名があったんだ。今はもう忘れてしまったが、それさえ思い出せればこんなところすぐに抜け出せるんだがね」
にわかには信じ難いが、どうやらこの青年があの獣で間違いないらしい。どんな妖術を使っているのか、それとも本当は最初から獣などいなかったのか、確かなことはわからないが、今はとにかく自分の役目を果たさなければならない。
「もうずっと村には雨が降っていない。これはあんたの祟りなのか?」
すると青年はさも可笑しそうにケタケタと笑い出す。しかしそこに不気味さはなく、気を抜いたら自分もつられて笑い出してしまいそうなほど気持ちのいい笑顔だった。
「あははは! 俺が? 祟りを? そんなことできるならもっと早くやってるよ。こんな村、一晩で滅ぼしてやる。しかし日照りとはいいざまじゃないか。せいぜい苦しんで飢えて死ねばいい。くふふ、あっはっはは!」
それは憎悪や怨念と呼ぶにはあまりにも爽やかで、この獣もそういった自身の負の感情を楽しんでいるようにさえ見えた。それは狂気ゆえなのか、それとももともとそういう存在なのか、しかしどちらにせよ村を襲っている危機は獣の祟りではないというのは本当のことのように思えた。
俺がゆっくりと後ずさりながら暗闇の中で帰り道を探っていると、青年は微笑みを浮かべて再び牢の中で寝そべった。
「ああ、久々に人と話せて楽しかった。気が向いたらまた来てくれ。もてなしなどできないが、昔話くらいはしてやろう」
そう言ったきり青年は目を閉じて黙り込んでしまう。むせ返るようだったあの獣の匂いも、いつのまにか鼻に馴染んでしまったようだった。
「なに? これは祟りではない、と?」
「ああ。獣自身がそう言った」
集まった村の者たちの間にざわつきが広まっていく。俺だって信じられないような思いだったが、体のいい嘘を思いつけなかった以上ありのままを伝えるしかない。それを聞くとさっきまで薄ら笑いすら浮かべていた佐助の表情はみるみる曇っていく。
「じゃあどうしろと言うのだ。このままでは到底冬を越せないぞ!」
「そう言われても……」
「だいたいお前、そんなやり取りだけですごすごと逃げ帰って来たのか。これは村の存亡に関わる問題なんだぞ! お前も命がけでやれ!」
随分理不尽な言いようだが言い返したところで向こうの機嫌を損ねるだけだ。俺がうつむいて黙っていると、今まで端の方でじっとしていた坂田の爺様が低い声で話し始める。
「獣とは言うがあれも昔は一端の山神だったと聞く。贄でも捧げれば雨を降らせるくらいはできるやもしれぬ」
しんと静まり返った空気の中、皆が密かに目配せをしているのがわかる。必要なこととはいえ誰だって自分が不利益を被るのは避けたいものだ。そして彼らの考えは概ね一つにまとまったようだった。
「二郎、お前が行って、獣を説得してこい。人を食わせてやるから村に雨を降らせろ、とな」
「……そんな道理が通じる相手には思えなかったが」
「できるできないではない! それとも妹を獣の餌にされたいのか?」
もはや佐助は体裁を取り繕おうともしない。そして切り捨てられたトカゲの尾にわざわざ手を差し伸べるような者もいるはずもない。いっそ俺があいつに食われてしまった方が万事丸く収まるのではないか。そう思ったら不思議と恐怖が和らぐような心地がした。
獣の匂いが立ち込める暗闇の中で、確かに何かがそこにいる気配がする。ゆっくりと明かりを向けると、そこにはこの前と変わらぬ様子で座敷牢に寝そべる青年がいた。目が合うと青年はにっこりと笑みを浮かべる。
「確かにまた来いと言ったが、本当に来たのはお前さんが初めてだよ」
「……少し話がしたい」
「ああいいとも。さて、何が聞きたい? やはり戦の話か? お前さんは本物の戦など見た事がないだろう? あの武士とかいう連中は尊大極まりなくてな、俺の寝床を荒らされて腹が立ったので幾人か——」
「そういう話じゃない」
話を遮ると青年は少し意外そうな表情を浮かべたが、眉を顰めることもなく俺の言葉を黙って待っている。こんな様子を見ていると、佐助などよりもこの獣の方がよっぽど人間らしいとさえ思えてしまう。
「お前、雨を降らせられるか?」
「なんだ、藪から棒に」
「このままだと食い物がなくなる。冬になれば皆飢え死にだ。あんたはそれでいいかもしれないが、俺は妹を守らなくちゃならん」
「……それで?」
その微笑みの裏で獣が何を考えているのかなど俺にはわからない。それでも何故だか、この得体の知れない何かに賭けてみようという気持ちになっていた。この獣は村の誰よりも不自由であるはずなのに、これほど楽しそうに笑う者を俺は知らなかった。
「俺なら食ってもかまわない。その代わり、村に雨を降らせてくれ」
また笑うだろうか、と思ったが、意外にも青年は少し不服そうな顔をした。
「嫌だ」
「……俺一人で足りないのなら——」
「違う。お前さんを食いたくはない」
なにか、胸の中の一番柔らかいところをそっと撫でられたような心地がした。なんと返せばよいのか、見当もつかなかった。
「そもそもここから出られなければ俺は元の姿に戻れない。人を食うにしたってそれからだ。これでは雨どころか露の一粒だって出せやしないさ」
「……それは、仮の姿、なんだな」
どうにかしどろもどろでそう返すと、ぱっと青年の顔に笑顔が戻った。
「そりゃそうさ。人間なんかがこんなところにいるはずないだろう。それともお前さん、俺に惚れたのか?」
「馬鹿を言うな。あんたは獣だろ」
「ああ、そうだとも。といっても馬や鹿ではないがね。昔はここの村人たちも俺の毛並みを綺麗だって褒めてくれてな、俺の抜けた毛に御利益があるってんでわざわざ山に入って集めてるやつまでいたものさ」
どうもこの獣に話をさせるとどんどん脇道にそれていって藪の中に突っ込んでしまう。それはそれで獣らしいと言えなくもないが、そんなことに感心している場合ではない。
「とにかく、今のままでは雨を降らせられないのか?」
「まあそういうことだ」
「だがここから出れば人を食うつもりだろ」
「ああ、そのつもりだが、なにかまずいか?」
「まずいって……」
「飢饉よりは犠牲も少なくて済むだろう。なんならお前さんの妹は見逃してやってもいい」
そう言われたところで俺の一存で決められるような話ではない。しかしあの佐助がこんな無茶な要求を飲むとも思えなかった。俺が黙っていると獣は何を思ったのか、屈託のない笑みを再び俺に向ける。
「なあお前さん、それはそうとしていつまで俺を獣と呼ぶつもりだ?」
「なに? どういう意味だ」
「だってそうだろう。これから御利益にあやかろうって相手を、そんなぞんざいな呼び名ですますのか? 何か小綺麗な名の一つでも用意したらどうなんだ」
そう言われてみればこいつの言うことにも一理あるように思えてくる。何かそれらしい名をつけてやれば、こいつもその気になってくるかもしれない。しかし仮にもかつて神だったものを太郎だの与作だのと呼ぶわけにもいかない。いったいどんな名が相応しいだろうか。
「……考えておく」
俺はそう言い残して座敷牢を去る。今ではこの地下の暗闇の方が心地よく感じられる時すらあるが、俺がいない間に妹に何かされないとも限らない。とにかくどうにか佐助を説き伏せて、あいつを外に出してやるしか道はないように思われた。
「今、何と言った」
「だから、もう獣を外に放つしか方法は——」
言い終える前に佐助の右手がさっと動いて俺は横っ面をしたたかに打ち付けられる。そのまま襟首をつかんで引き倒され、胸や脇腹に容赦のない蹴りが飛んでくる。自分の嗚咽だけが響く中で、皆は石像のように固まったままただ一方的な制裁を傍観している。俺と目が合うと彼らは皆一様に顔をそむけた。どうやら罪悪感はそれなりに感じているらしい。しかし彼らに対する憎しみは湧いてこなかった。もし俺があちら側にいれば、間違いなく同じことをしたと言い切れるからだ。こんな村では結局誰かが不幸をまとめて抱え込まないと立ち行かないようになっている。そうであれば今の俺にできることは、その不幸を自分一人の身ですべて飲み込んでしまうことだけだった。
「何を言い出すかと思えばこのおおたわけが! あいつを捕らえたのは俺の先祖なんだぞ!? そんなことになったら真っ先に食い殺されるに決まってる。獣の餌になるのはお前らだけで充分だ!」
そう喚きながら佐助は俺が立ち上がれなくなるまで暴れ続けた。こうなることを予想できなかったわけではない。しかし他にどうしようもなかった。どうせくたばるのならあの獣を信じてみたかった。俺にとってはそれが唯一の救いだったのだ。
「こいつを縛って牢の前に転がしておけ」
荒い息の混じった冷ややかな声が頭上から降り注ぐ。
「すぐにお前の妹も連れて行ってやる。お前の目の前であの獣に食わせてやる。せいぜい楽しみにしていろ」
俺を引っ張って来た二人は牢の前に俺を蹴り倒すと逃げるように階段を上っていった。俺自身忘れかけていたが、ここはとても常人では正気を保っていられないような場所なのだ。そうだとすれば俺はもう狂ってしまっているのか、いやかえってその方が良いかもしれない。そんなことを考えていると暗闇の中から声がした。
「これはまた酷い有様だな。何があった?」
「……別に、大したことでは、ない」
体はさっぱり動かなかったがまだちゃんと口は回るようだった。しかしこの暗闇の中では青年の表情を知ることはできなかった。
「まあ俺も人間の事情などに興味はない。しかしこのままお前さんが死んでしまうのはつまらないな」
「なぜ、そう思う?」
「ここに入れられて以来、俺の話をちゃんと聞いてくれたのはお前さんが初めてだからだよ」
「……そうか。そりゃ、残念だったな」
俺が死ぬのはこの際かまわない。ただ俺は妹のことが不憫でならなかった。しかしこうなってしまってはもはやどうすることもできない。せめて苦しまずに殺してやるよう獣に頼んでみるべきだろうか。すると初めて俺に話かけた時のような柔らかい声が暗闇の向こうから聞こえてくる。
「お前さん、どうせ死ぬのならその前に俺に名をつけてくれないか」
「……なに?」
「前に言っただろう。いい加減に獣呼ばわりされるのにも飽きた。お前さんの好きな名でいいから、俺の名を呼んでくれ」
俺はおぼろげな記憶をたどって獣の言葉を手繰り寄せる。そう、確かに獣は自分に名を寄越せと言っていた。そしてもう一つ、聞き捨てのならないことも。闇の中を漂っていた違和感が一つの糸で結びついた。
「なぜ、名前なんかに拘る」
「……うまく言えないが、お前さんには獣と呼ばれたくない。俺とお前さんだけの、特別な何かが欲しいんだ。そうすればきっと——」
俺はこらえきれずに思わず笑いを漏らしてしまう。ああ、こんな状況になっても人は笑えるものなのだ。ここに来てようやくこの獣の気持ちが少しわかったような気がした。
「どうした、お前さん? 気でも狂ったか」
「……俺は物覚えはいい方なんだ。あんたと初めて会った時、なんと言ったかも覚えている」
暗闇の中で息を吐くような音が聞こえた。あいつのことだ。例えそれが自身のことであってもどうせさも楽しそうに笑っているのだろう。
「名を手に入れられれば、あんたはここから出られる。そうなんだろ?」
「……迂闊だったな。口は災いの元とはよく言ったものだ」
「災いはあんただろうが。人喰いの化物め」
「何故に俺を拒む。俺もお前さんも同じ除け者だろう。このままでは死んでしまうぞ」
「獣なんぞと一緒にするな。どんな理由があっても俺は人殺しなどしたくない」
人の言葉を喋ろうとも結局こいつはただの獣だ。あの笑顔だって俺に取り入るためのものだったのだろう。こいつを拒んだのだって本当はただの当てつけでしかない。一瞬でもこいつを信じようとした自分が滑稽でならず、しかし同時にそれは仕方のないことのようにも思えるのだった。
「しかしな、お前さん。さっき言ったこともまるきり嘘というわけではない」
「もうよせ、うるさい」
「……生まれた世が違えば、もっと違う出会い方ができたかもしれない。人と獣が心を通わせるような、そんな世であれば……。なあ頼むよお前さん、このまま死んでしまうくらいなら、どんな名でもいい、俺に名を与えてくれ!」
もうまともに応えてやる気力もなかった。人と獣が心を通わせる世など来るわけがない。獣のその必死さに呆れと失望を感じながら俺は静かに吐き捨てた。
「世も末だな。そんなものが——」
どくん、と何かが脈打つのを確かに感じた。嗅ぎなれたはずのあの匂いが鼻の奥で燻ぶる様に濃くなっていく。暗闇の中からあいつの大笑いが聞こえた。それは純真無垢でいて悪辣非道な、人喰いの獣の鳴き声だった。
「ヨモスエ、だな。あいわかった」
はっとした時にはもう手遅れだった。青白い光が辺りを包み込み、めきめきと何かが軋む様な不気味な音が聞こえる。ほんの一瞬、金色に輝く何かを垣間見たような気がした。
気が付いた時には俺は床に大の字で転がっていた。体を縛っていた縄は何かに引きちぎられたようにばらばらになっている。座敷牢の中にはもう獣の気配はない。俺は暗闇の中を手探りでどうにか進んでいく。階段を登り切ったその時、視界に飛び込んできた光景に思わず息を飲んだ。重い鉄の扉は内側から吹き飛ばされ、社の入り口には大穴が開いていた。恐る恐る外に出てみれば夕焼けが未だ光に慣れぬ目を照らす。そして道には巨大な獣の足跡が続いている。言いようのない虚脱感に襲われながらも、俺は亡者のような足取りでその足跡の後を追った。
それは地主の屋敷の屋根の上、この村で一番高いところに悠然と座していた。その金色の大狐は佐助の死体をかじりながら目下に散らばる死屍累々を満足そうに眺めていたが、俺の姿を認めると死体を捨てて軽やかに地面に降り立った。
「お前さん、二郎というのだな。村のやつらが叫んでいたぞ」
ヨモスエなどというでたらめな名を引っさげたこの獣は、ついに積年の願いを成就させたのだった。もはや人の姿ではないのに、こいつが笑っているのがはっきりとわかった。
「安心しろ、今日は男しか食っていない。間違えてお前さんの妹まで食ってしまうといけないからな」
そう言って獣は俺の隣にその巨体を落ち着かせる。確かに血の匂いはするのにその輝く毛並みには汚れ一つ見当たらない。夕焼けの空を遠く眺めやるその姿はこの世のものとは思えぬほど美しかった。
「ほら、何を呆けている。直に来るぞ」
「来る……?」
その時、冷たい何かがさっと頬を掠めた。とっさに天を仰いでみても、頭上には雲一つ見当たらない。しかしぽつりぽつりとどこからともなく水滴は落ち、やがて村に雨が降り始めた。獣はゆっくりと体を起こして気持ちよさそうに目を細める。
「ああ、やはり外の空気は美味いなぁ」
子どものように無邪気な声でそう呟いて、獣は俺に向き直る。
「お前さんには感謝している。今後ともよろしく頼むぞ、二郎」
人喰いの化物か、気まぐれな山神か。除け者の獣はそう言い残して山の方へと走り去っていった。
のけもののけもの 鍵崎佐吉 @gizagiza
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