第14話  ふたりの太

 太の偽洋は、東大病院から都立病院に移った。そこで、心臓血管外科医として勤務することになったのである。外科の医長としてであった。東大病院の医局には二年間いた事になる。

 彼は今月の七日に鹿児島で開催される日本血液学会に出席することになった。外科部長からも強く出席を進められたので参加することにしたのだった。

 会場は鹿児島市の『ホテル南国』の別館の大会議場であった。予定では全国から二百人近くドクタ-が参加するらしい。大変、由緒と権威のある学会であった。医学、薬学は日進月歩なので、極力、学会には参加しておく事が大事だった。

 今回は、彼の研究発表等はなかった。参加して、学習するのが目的であった。

 彼は、この学会に参加するのは初めてだった。

 偽洋は、学会の開催日の二日前に、福岡に飛んだのである。事前に駅前の全日空ホテルを予約していたのである。昼過ぎにホテルにはチエックインした。彼はホテルに着いてから、部屋で暫く考え続けた。そして、悩んでいた。野中家へ行こうと思えば、歩いてでも行けるのである。どうするか迷いに迷った。

 叔母の八重子からは光明が亡くなったことは連絡があったのである。直葬なので、誰も呼んでいないし、わざわざ帰って来る必要はないと云われて、帰らなかったのである。

 しかし、今日は目と鼻の先まで来ているのである。行くべきであると云う自分と、行ったら、もしかして、太であることが露見してしまうかも知れないと言う、もう一人の自分とが葛藤していたのだった。

 そして、彼は決めたのである。行かない事に!

偽洋は野中家の菩提寺である証城寺にお参りに行った。そして、翌日には新幹線で鹿児島に向かったのである。

 鹿児島では学会が開催されるホテル南国に、病院のほうで予約を入れていて呉れたのだった。午後の二時過ぎにホテルには着いた。チエックインしてから、鹿児島市の街を見物してみょうと、ぶらっと出かけてみた。

 鹿児島は初めてであった。思っていたよりは都会だったのには少し驚いた。路面電車が走っているのも珍しかった。何でも、百年の歴史があるらしい。彼は鹿児島駅から天文館まで路面電車に乗ってみた。十分くらいで着いた。何かしら楽しい気分であった。洋も、この路面電車に乗っていたのだろうなと思ったりしたのだった。

 夕食はホテル内にある日本料理店で寿司を食べた。美味かった。早めに入浴して、くつろぎながら、明日発表する演者の名前と演題が記されている冊子を見てみた。

 発表者は全部で六人いた。なんとはなしに読んでいると、演者の中に友田太と云う長崎がん研究センターのドクタ-の名前が目にとまった。『太』か。俺の本来の名前だ。無性に懐かしく感じたのであった。

 彼が『太』の名前を封印して十年以上になる。世の中には、この名前を名乗っている人は何人も居るだろう。でも、今、改めて見て、『ふとし』と発音してみたら、涙が思わず頬を濡らした。

 友田太の発表する演題は【急性骨髄性白血病の新たな取り組みについて】と書かれていた。彼の脳裏に十一年前の池田洋が浮かんだ。今は自分が池田洋である。これからも死ぬまで洋の為にもそうでなければならなかった。

 冊子には演者の氏名と演題と略歴が記されているが、顔写真は載っていなかったのである。その略歴には、長崎大学の医学部を卒業して、今は、独立行政法人の長崎がん研究センターの血液内科の専門医となっていた。

 偽洋は、このドクタ-の発表はしっかりと聴いて帰ろうと思ったのである。

 翌日の鹿児島市は昨日に続いて快晴であった。

 学会は九時から始まった。初めに日本血液学会の会長の挨拶があり、続いてゲストのドイツのハインゲルト博士の基調講演が行われた。パネルディスカッション形式であった。彼は英語で話した。

 次に京都大学の和田教授の研究チームによる講演が行われたのである。このチームから、何度も、初代の長崎がん研究センターの友田雄介博士と友田太ドクタ-の研究について賞賛のコメントがあった。偽洋は、優秀な親子なんだなあと感心して聞いていた。

 午前中に三つの演題の発表は終った。此の後、一時間の休憩を挟んで、午後二時から四番目の発表から再開されるスケジュールであった。

 友田太の発表は午後の発表の二番目であった。

 十四時になり、午後の部の発表が開催された。午後の講演の最初は、東京大学の血管外科の野口教授であった。偽洋の恩師である。日本の血管外科の重鎮である。偽洋は真剣に聴講した。

 二番目に登壇したのが友田太ドクタ-であった。

 座長が彼を紹介した。

「次に発表頂くのは、独立行政法人長崎がん研究センターの血液内科の友田太先生でございます。先生は長崎大学を卒業後、ニ年間臨床医として、友田雄一先生のクリニックで診療と研究に携わり、長崎がん研究センターに入職されました。お聞き及びの先生方もおられると思いますが、友田太先生は自らが白血病に罹り、余命、幾何いくばくもない状態から奇跡的に回復された経験の持ち主でございます。これには、御父上の初代長崎がん研究センター長の友田雄介先生の並々ならぬ治療法の研究と、その実践が実を結んだ結果と承っております。ご本人も患者の立場で、いわばモルモットとして雄介先生の研究に協力されたのです。太先生は、現在も定期的に検査を受けておられますが、現在のところ再発の危惧はありません。現在は、助けてもらった命を懸けて、がん治療の研究と治療に邁進されておられます。それでは、友田太先生お願い致します」

 長い口上であった。これが、多分、今日のメインイベントだろうと偽洋は苦笑しながら口上を聞いていた。

 そして、演壇のサイドの控えから二人の男性が壇上の中央に並んだ。年配の方がマイクを受け取って

「本日は、私どもの研究を発表させていただく機会を与えていただきましたことに、感謝申し上げます」と切り出した。友田雄介博士であった。

「これは私共と長崎医科薬科大学の五年間に渡る治療と実践の結果をまとめた研究です。余命一年と宣告された太を治験者として、モルモット並みに彼の身体を使って実施した治療です。諸先生方のお役にたてれば幸いです」と述べて、一礼してマイクを若い男性に手渡したのである。それが、友田太ドクタ-であった。そして、雄介博士はサイドの控えに戻っていった。

 マイクを渡された友田太が話始めた。

「大変丁重なご紹介ありがとうございます。友田太です。発表させていただきます」とポインタ-を持って正面のスクリーンに向かったのだった。

 偽洋は説明を始めた演者を見て驚愕したのである。彼は会場の中ほどの席に掛けて演壇を見ていた。多分、十二、三メートルは離れているだろう。顔の細かい表情までは見えないが、演壇でスクリーンの映像について説明しているのは、紛れもない。それは洋であったのである。説明中は背中と頭しか見えないが、時々正面を向いた顔は洋であった。そう言えば声も洋に間違いなかった。相手は全く気付いていない様であった。

「生きていたのだ!」偽洋は研究内容を見たり聞いたりしているどころではなかった。

 心の中では

『どうしょう。どうすればいいのか?』と、そればかりが頭の中でクルクル回るばかりであった。

 他の聴衆はみんな真剣に、熱心に聴いていた。彼は、早く終わらないかと、そればかり考えていた。

『でも、何か変だ!』と思い出したのである。

『どうして、友田雄介先生の息子なのだ?』

『なんで親子なんだ?』

『どうして長崎大学に行ったのだ?』

 不可解な事ばかりだった。

 まさか夢を見ているんじゃないだろうなとも疑った。でも、夢ではなく、現実であった。

 講演は終わったようである。あちこちから質問の手が挙がっていた。結構議論が白熱していた。袖に控えていた雄介先生が代わって答える場面も何度かあった。

 偽洋は、もはや、学会への参加者、出席者としての認識はなかった。

 彼は、これから自分は、何をどうすればいいのか、そのことばかりを考えていたのである。

 会場にひときわ大きな拍手が起こった。友田親子が退場していった。

 十分間の休憩の案内がアナウンスされた。偽洋は、会場から出て行った。

 彼は一旦、トイレに行って、エントランスホールのソファに座った。この後の最後の講演には参加しないつもりであった。彼は思い切って、演者たちの控室に行って、友田太が池田洋であるか確認しょうと思ったのだった。でも、その勇気が出なかった。

 彼は学会会場から別館の宿泊している本館に戻った。そして、自分の部屋である303号室で落ち着くことにした。

 ベッドに身体を投げ出して、天井を睨みながら深呼吸をした。そして、今後の行動を考えた。考えながら入浴して、昨日と同じ日本料理店に入った。

 昨日と同じように寿司定食を注文した。さらに今夜は日本酒の熱燗を頼んだ。

 飲んでも酔わなかった。日本酒の追加を二度した。それでも頭は冴えていたのである。彼は酔うのを諦めて部屋に帰って寝てしまった。

 翌日は新幹線で博多まで帰って、高校の母校である福岡高等学校に立ち寄ってみた。十一年ぶりの母校は懐かしかった。テニスコートでは女生徒がダブルスの練習をしていた。それらの光景を眺めながら、ここを卒業してからの、自分の人生を振り返っていると、思わず眼がしらが熱くなってきた。彼は博多駅に戻り、地下鉄で福岡空港まで行って16:15のJALで東京へ帰った。

 東京に帰ってからも偽洋は落ち着くことは出来なかった。洋(友田太)のことが頭から離れずに、どうすべきかを毎日考えていた。洋から自分への連絡は絶対にあり得ない事であった。そうであれば、自分の方から洋にコンタクトをとるしか方法はなかった。

 東京に帰ってきてから悩みは増幅してきたのだった。彼は考えあぐねていた。そして、不可解なことに気付いたのである。

 平はどうして、太(自分)が家出したことを俺(偽洋)に言わないのだろうと不思議に思ったのである。野中太の失踪は野中家にとっては大事件である。それを平が知らないなんてあり得ない事ではないか?彼はそう思ったのである。そこで、彼は試してみたのだった。

 今の彼は洋である。養母である叔母の八重子は、彼が本物の洋と信じ切っている。

 養母の八重子に訊いてみることにしたのである。

 八重子に電話した。

「母さん。太の失踪のことは田尻家には連絡したのだよね?」と鎌をかけてみたのだった。

「ああ、洋。急に何なのよ!そのことなんだけど、連絡はしていないのよ」

「ええっ、なんで!」偽洋は訊き返した。

「いろいろあったのよ」と呟いて、八重子は、育代のお産後の三つ子についての話し合いの際の経緯について、話した内容を教えてくれたのだった。一回目の話し合いでは、実はすんなり決まらずに、野中家と田尻家はしこりが残ったまま、絶縁状態になっていたとのこと。平も、そのことは薄々知っていたらしい。平の養父母(外祖父母)である、育代の両親が亡くなってから、やっと、平も結婚後、野中家に気軽に来るようになったのである。その為、高校卒業後、平と太のコンタクトは現在のところ、まだ、なかった。それは偽洋の本人自身が知っていることであった。確かに就職してからも連絡は互いには無かった。

 一度、妙子は平から

「太は元気にしている?」と訊かれたことがあったらしい。その時は

「うん、市の交通局に入って頑張っているよ」と妙子は応えていたのである。既にその時は太は失踪していたのであったが、彼女はそのことを平に伝える事は出来なかったのである。

「そうか。あいつも市の職員になったか!」と平は喜んでいたのだった。

 三つ子の養育で、育代を中心に話し合った時に、結果的には兄弟三人を別々の家で育てる事に決まったのだが、田尻家と野中家とで意見が対立したのであった。

 育代の実家の田尻家の当主である田尻公夫(育代の父親)は、子供たちは、あくまでも全員、野中家の子供である。どんなことをしてでも、兄弟揃って、母親の元で仲良く育てるべきである。野中家で養育するのが一番自然であるし、当然である。だれもが思うことであった。

 ところが、野中家の当主の大工の光明は、三人の子供なんて、とても経済的に養育出来ないと言い出したのだった。育代の父親の田尻公夫は

「それならばうちで三人全員を引き取ります。育代を離婚させて、母子共々、田尻家の子供として養育しましょう」と光明に提案した。

 でも、光明は離婚には応じられないと跳ねつけたのである。その結果、平と洋は里子に出して、野中家には太を残すことになった。しかし、里子、里親の関係では、将来的に揉めたりしないとも限らないと云うことで、最終的には養子縁組をして、親権を持って、養育することに落ち着いたのだった。

 しかし、この時以来、田尻家と野中家は没交渉になってしまったのである。したがって、野中家から田尻家への連絡は途絶えたのである。

 生前の育代は本当に可哀相な立場であった。そして、育代が亡くなった後では、両家は互いに関与しなくなってしまった。

 偽洋は八重子の説明で納得した。それで、平も太のことをあまり知らなかったし、高校生の時以降は、コンタクトを取らなかった理由が理解できた。祖母の妙子からの田尻家への連絡も皆無であったのである。だから平は、太が交通局に就職したことも、妙子から聞くまではしらなかったのである。ましてや、太が家出したなど知る由もなかったである。

 でも、野中家と田尻家が、それほど険悪な関係になっていたことは悲しかった。

 亡くなった母の育代の胸中を思えば、あまりにも可哀相であった。

 八重子の話を聞いた偽洋は決断した。洋である友田太に連絡することである。

 それにしても、友田雄介博士の息子になっているとは信じがたい事実であった。友田教授の名前は、彼は大学の時も東大病院の医局に居る時も、何度も耳にした名前であった。稀に見る秀才であったらしい。しかも、手術の腕も際立っていたと云うことであった。迎合することが嫌いで、一度決心したら、信念を持って邁進する人であったらしい。

 彼の指導を受けた医師たちは、殆どが現在は、医学界の権威になっていた。しかも面倒見も大変良かったとの噂であった。そんな先生に洋は助けられたのである。幸運としか言いようがない。

 偽洋は、長崎がん研究センターの友田太宛に手紙を出したのである。


 『拝啓。突然の手紙で申し訳ございません。私は、先日鹿児島で開催された日本血液学会に出席した者ですが、先生親子の研究発表に大変興味を持ちました。会場での質問では、詳しくご説明を伺うには時間が長引くと思いましたので、改めて、じかにお会いしてご教示を頂きたく、非礼をも顧みずにお願いの手紙を出させていただいた次第です。もし、お時間を取って頂けるようでしたらご連絡いただけないでしょうか。こちらから、お伺いさせていただきます。

 まことに不躾なお願いですが、よろしく、ご賢察の上、ご連絡くださいませ』

                                敬具  



                    東京都立病院 心臓血管外科 池田洋

 友田太先生御許に


と書いて出したのである。


偽洋は手紙を投函して、おおきな溜息をついて、「さて、返事が来るかな?」と呟いた。

 電話で連絡しても良かったのであるが、いきなりだと、洋も驚くかも知れないと思ったのである。しかも、絶対に洋であると云う確証もなかったからである。

 それから六日後に洋から返事が来たのである。

 封筒の宛名はしっかりと池田洋様と書かれていた。裏も友田太となっていた。

 でも、中の便箋に書かれた名前は違っていた。


『太、随分と久しぶりだな!俺も一度会ってしっかりと話し合わなければならないと思っていたのだよ。でも俺の方からは、どうしても連絡する勇気が無かったのだ。しかも、野中家へ連絡する訳にもいかなかった。平に訊くこともできなかったのだよ。俺には、お前の消息が掴めなかったのだよ。本当に東大に入ったのか。交通局を辞めたのか。医者になったのかも掴めなかった。自殺に失敗して、おめおめ生きながらえているのにも一時期耐えられなかった。幸いに、友田雄介先生に助けられ、まだ、生き恥を晒している自分が時々、許せなくなる時もあるよ。でも、太が俺を見つけて呉れて、本当に救われたよ。お前を一番苦しめた俺だが、少しほっとしたよ。改めて再開した時に、これまでの経過をすべて話すよ。そして、今後も本物の池田洋として生きて行ってくれ!俺は、友田太として生きていくから。都合の良い日を連絡して呉れ。俺の方から東京に行くから。本当に済まなかった。俺を許してくれ』

                            友田太

池田洋様


 偽洋は複雑な気持ちであった。こうなったら完全に洋に成りきるしかない。今までも確かに洋として生きては来たが、本物の洋は絶対に死んでいると言う確証はなかった。その為に完全には池田洋にはなれなかったのだった。でも、本物の洋が生きていて、彼もまた、別の」人間として、別の人生を歩いているのであれば、俺こそが池田洋であると堂々と言えるのであった。やっと楽になれた。

 これで、野中太は戸籍上も実態もこの世から消去されたのだった。

 残った課題は平にどのように説明するかであった。

 

 九月になった。まだまだ東京は残暑が厳しかった。洋は太と会う日を二十八日と二十九日の二日間に設定した。土曜日、日曜日である。それを太に連絡した。

 太からは、土曜日の夕方までには着くようにするからと言ってきた。

「着いたら連絡するから」と明るい声で返事をして来た。

 二十八日の夕方の七時過ぎに太から着いたと連絡があった。

「今、本郷三丁目のビジネスホテルを予約したから」と云ってきた。そして、

「居酒屋の加賀谷で飲みながら話をしようか」と誘って来たのだった。

 これは太の作戦だったのである。これから洋と話す事は、今後のふたりの人生の生き様についての話し合いである。この様な話は静かな会議室では無理なのである。深刻さを極力削らないと、まとまらない内容である。その為にラフで気負わない環境でやる必要があったのである。

 賢い太は、その様に考えて、実行したのである。

 洋は時間通りにやって来た。お互いに十一年ぶりの再会であった。

 友田太は店の左奥のテーブルについていた。店の客は、まだ、時間が早いので、多くは無かった。

「おおう、フトシ」とヒロシは手を上げて、こっちだと云うように叫んだ。フトシもヒロシを見つけて、テーブルに向かって歩いて来た。

 学会で発表したヒロシがそこにいた。

「やあ、ヒロシ。懐かしいな」とフトシは近づきながら手を挙げた。

 フトシとヒロシは向かい合って座った。ヒロシはいきなり立ち上がって、フトシの手を握り、

「フトシ。本当に済まなかった」と深々と頭を下げた。瞼は涙で潤んでいた。

 フトシは言葉が出なかった。ふたりはビールを飲みながら、話し始めた。

 友田太は最初に宣言した。

「今日、この時間から俺は友田太、お前は池田洋となったのだ。これはふたりだけの秘密だ。そして、二人は、どちらかが先に死んでも、真実は絶対に喋らない。洋、守れるよな」と友田太は池田洋を見つめて訊ねたのだった。

「もちろん、守れるよ。守るしかないじゃん」と洋は真剣に応えたのである。

 二人の今日の目的は、これで、達せられたのだった。その後は互いに、これまでの経緯を話したのであった。

 友田太は自殺直前にウイスキ-を飲みすぎて、人事不詳になり、自殺の決行が出来なかったこと、雄介先生のお蔭で、白血病が根治出来たこと、雄介先生の養子になったこと、自分が医者になりたがっていたので、医者への道に進むことを応援して呉れた事等を、詳しく、池田洋に話したのだった。

 一方、池田洋は一番大事で、衝撃的な事実を友田太に伝えたのである。

「実は太、野中太は、本当にこの世から抹殺されたのだよ」と顔を歪めて苦しそうに呟いたのであった。

「えっ、どういう事?」友田太は訊き返した。

「失踪宣告の審判が確定して、戸籍上は死亡したことになったのだよ」

 友田太は

「そうか。でも、スッキリしたんじゃないか。今は、野中太を名乗れる者は実際に居ないのだから」と応えたのだった。

 確かにそうではあった。しかし、野中太として、十八年間生きてきた池田洋は悲しく、寂しかった。その気持ちは友田太には到底わからないだろう。


 二人には、もう一つ話し合う項目が残っていた。それは、平に対する対応である。

 洋は太に野中家と田尻家の過去の関係が険悪だったのを話したのである。この経緯については太も初耳であったらしい。対応についてふたりで考えた。そして、二人が到達した結論は、事実をそのまま話すということで、意見が一致したのである。

 洋と太のいままでの経緯も全て伝えるこ とにしたのである。

 そして、そのために三つ子三兄弟が集合して、話し合う時間を持とうということになった。

 洋は太に提案した。

「太、三人でハウステンボスに集まって話そうか?」

「いいね。そうしょう。十月十日はどうだ?」と答えた。

「何で十月十日なんだよ?」

「特に深い意味は無いよ。気候も良い時期だし、赤ん坊も(トツキトオカ)で生まれるって言うじゃないか。新しい三兄弟の誕生ってことだよ」と笑った。

「成程、いいね。それで行こう!」と応じた。

「じゃあ、俺が平には連絡するよ」洋は平への連絡を引き受けた。

 この日から二人は友田太と池田洋に生まれ変わったのでる。ふたりにとっては野中太は、もう存在しないのであった。八重子や妙子の気持ちと同様に。

 この年の五月には年号は平成から令和に変わっていた。

 三つ子兄弟が生まれて三十年目であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る