第13話  平の独立

 博多の冷泉町では大工の光明が特別養護老人ホームに入所することになった。ベッドの空きが出たと、登録していた三か所の特養の施設の一つから連絡が来たのである。

 宮若市内にある『若草庵』と云う施設であった。冷泉町からは車で二時間くらいかかる所であった。妙子と八重子は光明をこの施設に入れることにしたのである。

 光明は、この時は要介護度四に認定されていたのである。施設に掛かる費用は鹿児島の平が面倒をみて呉れることになったのである。

 平は結婚式の後、イタリアに新婚旅行に行って、その帰りに博多に寄ったのであった。嫁の律子を妙子に紹介する為であった。妙子は光明の介護の為に結婚式には出席出来なかったので、平としては妙子に律子を会わせたかったのである。

 土産を渡し、光明を見舞っていた時に、特別養護老人ホームのことが話題に上がったのだった。

 その時叔母の八重子が

「特養に入所させたいのだけど、費用がねえ・・・・・」と溜息をついたのを平が見て

「叔母さん、俺が応援するよ!」と言って呉れたのだった。そして、入所したら連絡するようにと言い置いて帰って行ったのだった。

 平は毎月十万円を送って呉れたのである。

 入所した特養の毎月の支払は七万円弱であった。平の援助で光明の介護費用は充分に賄えたのだった。お蔭で妙子も八重子も介護から解放されてほっとしたのであった。

 これで、八重子はサンエイで、妙子は帽子屋で働く時間を増やすことが出来たのだった。二人は平に感謝した。


 平は将来自分で商売をやりたいと考えていた。彼は妻の律子が調剤薬局で働いているのを見て、羨ましかったのである。

「サラリ-マンよりは商売人がいいなあ」と良く律子に愚痴っていたのだった。

 南国薬局は経営も安定していた。

「何かないかなあ」

 平は自分でも出来そうな起業を律子や律子のお父さんに相談していた。今、勤めている医療機器メ-カ-の仕事も嫌いではなかった。給与も世間並で、会社も堅実であった。しかし、彼はもっと大きく飛躍したかったのである。

 律子の父親の斎藤吾一は、平が何か商売したいと言っているのを律子から聞いて、一つの提案を平にしたのである。

「平君。薬店を開いてみたら?」と提案したのである。

「薬店ですか?」平は訊き返した。

「うん。そうだよ。薬局を増やすには、今のところ、この近くで新しくクリニックを開院する計画は無さそうだし、薬店であれば、特色を出していけばやれるかも知れないよ」と吾一は自分の考えを提案したのである。

「でも、ディスカウントを戦略にしたドラッグストアが多くて厳しいのじゃないですか?」と反論してみた。

「今後のドラッグは価格だけでは駄目なんだよ」

と親父さんは言うのであった。

「取り扱い商品を選別して、接客を重視して、お客さまの情報を集約して、お客様を固定化することが大切なのだよ」と熱く語り始めたのだった。

「私も実はやってみたかったのだよ」とも言ったのである。

「詳しい問診票(アンケ-ト)を作成して、顧客情報を手に入れ、それらのお客さんをケア-して、フォロ-していくのだよ」と平の顔を見つめていた。

「開店時は私が管理薬剤師となり、設立して、君は早めに登録販売者の資格を取って、引き継いだらいいよ。南国薬局の管理薬剤師は私から律子に変更するよ」

 親父さんは本気であった。

 平はやってみる事にしたのだった。

 店舗は鹿児島駅前の商店街の中にある貸店舗にした。そして、早速、改装に取り掛かった。

 半年後、平は館山医療機器を退職したのである。

 そして、薬店を開業した。

 店の名称は『南国薬店』とした。南国調剤薬局の姉妹店であることを、お客様に認知してもらう為であった。

 健康食品と漢方薬をメインにして、それに一般医薬品のブランド品を陳列したのである。ディスカウントは打ち出さなかった。

 平成二十九年(2017)十月十日に店は開店した。

 お客様のアンケ-トは紙とタッチパネルのタブレットに予めホーマットをを組み込んで三台用意した。店の一角に造り付けのカウンタ-を設置して椅子を三脚並べた。

 入口を入って左側にはソファを置き、六人まで座れる待合室を造った。ソファの前にはテ-ブルを設置したのである。玄関サイドには左右に飲料の自販機を二台設置した。

 買い物をしなくても気軽に入って、くつろぐ事も自由にできるようにしたのである。開店チラシ広告は二万枚、新聞に折り込んで配布した。

 既成概念を打ち砕く薬店の店舗形式であった。

 商店街を歩く人が興味を持って入って来たし、チラシ広告を持って来店するお客さんも結構いたのである。チラシ広告持参のお客さんには、ティッシュペーパーの五箱入りを粗品として配った。

 初日のアンケ-ト(お客様情報)の回収枚数は七十八枚であった。売り上げは十一万八千五百二十三円だった。

 斎藤の親父さんも平も一年間は赤字を覚悟していたのだった。親父さんは一千万円応援して呉れたのであった。

 平は、今住んでいる家屋敷を担保に八百万円の融資を銀行からうけたのである。

 スタッフとして、女性の登録販売者を二名雇用した。社員とパートであった。それに、斎藤お親父さんが管理薬剤師として、平は店長として、平日は四人体制で運営したのである。日曜、祭日は時間の許す限り律子も手伝って呉れたのだった。

 お客さんの要望は極力実現していく方針であった。薬品やサプリメントのアイテムも暫時、増やしていった。また、酒、たばこの販売の要望があったので、許可申請をした。年内には許可が下りそうであった。

 その後、売り上げは増加していったが、平均すると日商二十五万円前後を推移した。試算すると日商三十万円が南国薬店の損益分岐点であった。あと一歩の頑張りであった。

 翌年には平も登録販売者の資格を取った。彼も要指導医薬品、第一類医薬品以外は販売できるようになったのだった。このころにはアンケ-トの集積も一千枚を超えていた。これらのお客様をどれだけ固定客に組み込めるかが大事であった。

 会員組織を構築して、DM等を活用して、固定客を増やしていったのである。

 ツールとしては年賀状、暑中見舞い、DM、健康情報誌の配布やお客様相談会なども実施したのである。地域の健康フェア等にも薬剤師会、医師会とコラボして参加もしたのだった。

 このような努力が実を結んだのか、会員数は確実に増えて行った。月商も千五百万円をキープできるようになってきた。調剤薬局との連携も効果を奏して、互いに相乗効果も出てきたのだった。

 平は商売をやっていて、苦しさを経験するとともに面白さも感じたのだった。そして、努力した結果が報われた事に心から喜びを嚙み締めたのだった。


 特別養護老人ホーム若草庵に入所していた光明が死亡したのは、平成三十年(2018)であった。暮れの十二月二十日に肺炎を発症して、それが悪化してのことであった。認知症も進行していたので、人の見分けもつかないままに亡くなったそうである。

 特に苦しむ事もなかったそうである。葬儀も施設内で執り行い、直葬で荼毘に付して、野中家の菩提寺に埋葬した。

 平は光明の死亡を叔母の八重子から連絡を受けた。

「いろいろと応援有難う。もうお金は送らなくて大丈夫だから」と言われたのである。

 平は悲しく、寂しかった。ひとり亡くなり、また一人と身内の者が死んでいく。

 両親を亡くして、養父母の外祖父母がなくなり、今度は祖父である。本当に自分は肉親や血縁との縁が薄いなあと思うのであった。毎月の十万円の送金は続けることにしたのだった。それは祖母と叔母の為であった。

 斎藤家の商売は薬局も薬店も順調であった。家族も病気に罹ることもなく、皆、健康に年越しが出来そうであった。

 平成三十一年(2019)の年が明けた。

 斎藤家の皆は全員で照国神社に初詣に出かけた。今年の三月には平夫婦に子供が生まれる予定であった。女の子の予定である。今では妊娠十五週目くらいには男女の区別は判明するのであった。名前は家族全員で考えていた。

 平は家族の健康と商売の益々の発展を祈願したのだった。今年の元旦は、平たちの家で、全員集まって祝うことにしたのである。

 大晦日から律子とお母さんは正月料理の準備で大わらわであった。

 調剤薬局は休みであったが、平と親父さんは薬店で働いていたのだった。スタッフの二人の登録販売者の女性たちは二十九日から休んでもらっていたのである。どちらも主婦だったので、忙しいだろうとの思いからであった。そのため、年末の三日間は親父さんと平の二人で店を回していたのだった。

 初詣を終えて、家には正午過ぎに帰って来た。全員が十畳の座敷に集合した。庭の梅の老木には、ところどころに白い花が咲いていた。

 この頃では、庭も手入れが行き届いていた。律子と平で、気が付いたら手入れと掃除をしていたのである。親父さんがせっかく整えてくれた庭である。大切に守っていかなければと夫婦は感謝しながら手入れは怠らなかったのだった。

 無事に子供が生まれてきたら、今は水を抜いて使っていない池にも、再び水を入れて錦鯉を飼う予定であった。

 食事の準備ができたので、全員応接台についた。親父さんの吾一さんが屠蘇を平から順番に注いでいった。最後に自分の分は平に注がせて

「皆さん。明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今年は斎藤家に新しい命が誕生します。本当に目出度いことです。今年一年間も皆で力を合わせて頑張ってまいりましょう」と挨拶した。

 それからは雑煮をいただき、お節料理を食べながら楽しく談笑の時間を過ごしたのだった。

 平は幸せであった。これまでの人生の中でも最高の一時ひとときであった。

 

 光明が亡くなった野中家では妙子と八重子の母子二人の生活が始まった。

 妙子は八重子に相談したのだった。

「八重ちゃん。太はもう、帰ってはこないだろうよ。生きているか、死んでいるかもわからないし、一層、失踪宣告をしょうと思うのだけど」と。

 八重子も

「そうねえ、やっといた方がいいかもね」と応えた。

「私も年だし、いつどうなるかもわからんしねえ」と疲れた表情で妙子は呟いたのである。

「太の両親も亡くなり、今度はお父さんも亡くなったからねえ。この土地や家のこともあるしね」妙子は八重子の顔を見つめた。

 妙子と八重子は太の失踪の申し立てを行うために家庭裁判所に行ったのだった。そして、失踪宣告の審判が確定したのである。

 妙子は失踪届を市役所に提出した。これで、野中太は戸籍上、死亡者となったのである。妙子と八重子にとっては、これで太のことは一応、気持ち的には区切りがついたのだった。

 偽洋は(本来なら自分の実家)である博多の冷泉町の野中家を平の結婚式の時以来、訪れることは皆無であった。訪れられない運命であった。養母である叔母の八重子にも会いには行かなかった。互いに日々の生活が忙しかったこともあった。

 偽洋は、疎遠になることで本物の洋に成りきる努力を続けたのである。

 今、一番苦しんでいるのは友田太であった。

 彼は長崎がん研究センターで毎日、診療、手術、研究で多忙であった。でも、多忙であることに感謝していたのだった。そうでないと、死ぬことができなかった自分を責めて、今度こそ、以前の自殺の失敗よりも確実に死ぬことを遂行しそうであった。

 自殺の方法の選択肢はいくらでもあった。でも、一方では友田太ドクターは、長崎がん研究センターでは一目置かれる存在に成長していたのであった。

 大先生は大変喜んだのである。これからも、ますます成長するのが楽しくて仕方がなかったのである。

 太は七月に鹿児島で開催される予定の日本血液学会で、今までの研究を発表する演者の一人に選ばれていたのである。長崎がん研究センター長が推薦して、彼を送り出したのだった。太はそれの準備に忙殺されていたのである。

 一方では診察も手術も休む訳にはいかなかった。徹夜もしていたのである。

 学会は二日後に迫っていた。今は、とにかく、これを乗り切ることが一番の関心事であったのである。

 

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