第12話  平の結婚

 鹿児島の平は、一人で大きな広い家に住んでいた。養父母であった外祖父母の家を相続してから四年目になる。日本庭園風の庭は、殆ど手を入れていないので、現在は荒れ放題であった。

 池で飼っていた錦鯉は家を引き継いだ年の暮れに、業者に引き取って貰った。その為に今は池には何もいない。今年中には中の水も抜こうと考えている。

 養父母が存命の時は、年に一回庭師を呼んで、庭木の剪定や手入れをやってもらっていたが、平にはそんな趣味は無かった。しかも、金も掛かるので、ほったらかしていたのだった。毎日、仕事が終わってから寝る為だけに帰って来るような生活であった。

 平は少々、この大きな広い家を持て余していたのだった。買い手が居れば売ってもいいと考えていたのだった。

 でも、しかし、この家があることが役立つことになったのである。

 平成二十六年(2014)に平は結婚することになったのである。彼は二十六歳、相手の女性も二十六歳であった。

 平のの会社では調剤薬局にも分包機等の調剤機器を納入していたのである。それらの得意先の一つに南国薬局と云う調剤薬局があった。彼は鹿児島出張所に異動になってから、何度も、新しい分包機に買い替えてほしいと訪問していたのだった。一年前の二月にも旧品の分包機のメンテナンスを兼ねて訪問し、新商品のパソコンとの連動式の分包機の売り込みをしたのだった。何度も勧めたのであるが、オーナ-の薬剤師の斎藤さんは

「私はパソコンが苦手だから、そんなものは必要ない!」とその度に断わられ続けていたのだった。

 ところが、久し振りに訪問したこの日は

「田尻君。思い切って買ってみようかね」と云う返事が返ってきたのだった。

 平はびっくりした。

「本当ですか?」と思わず斎藤さんの顔を見直したのである。

「実は三月に娘が薬科大学を卒業する予定でね」と嬉しそうに話して

「国家試験に合格したら、この薬局を手伝って貰う予定なのだよ」

「そうなのですか。おめでとうございます」平は微笑みながら応じた。

 其処へ

「こんにちわ。斎藤律子です」と若い女性が調剤室から待合室に出て来て、挨拶したのだった。昼の休憩時間だったので、患者さんは誰も居なかった。

 斎藤さんは照れながら

「娘の律子だよ」と平に紹介したのである。平は、はにかみながら

「お世話になっています。館山医療機器の田尻と申します」と名刺を差し出した。

 この時が二人の初対面だったのである。

 平は、その後、新商品の分包機の納品や、旧品の下取り交渉やらと、何度か南国薬局を訪問したのである。そして、その都度、律子とも顔を合わせた。

 律子は三月に無事に薬科大学を卒業した。現在は薬剤師の国家試験を受ける為には六年間の履修が必要になっている。彼女は卒業時には二十四歳であった。

 国家試験にも合格した。今、南国薬局で父娘は一緒に働いているのであった。

 平と律子は初対面以来、互いに引き合うものがあったのか、すぐに親しくなり、交際を始めたのだった。そして、二年後に二人は結婚を決めたのである。

 相手の律子は斎藤家の一人娘であった。一方、平の田尻家には、母育代の兄が横浜に居る。平に鹿児島の不動産を譲ってくれた伯父である。田尻家の家名は、この伯父が継ぐことになる。だから、平は田尻家の家名にこだわる必要はないのである。彼は田尻家を出ても構わなかったのである。

 平は斎藤家の婿になったのである。平は三度目の苗字である斎藤になったのである。

 斎藤平さいとうたいらの誕生であった。

 野中から田尻、そして斎藤である。目まぐるしくはあった。


 結婚式の披露宴は鹿児島のみやこホテルで行われた。平側の身内の出席者は、実母育代の兄である横浜の伯父、実父の昇の妹の叔母の八重子、そして、東京からの兄弟の偽洋であった。野中家の祖母の妙子は亭主である光明(平の祖父)の介護があるので欠席したのである。大工の光明を一人にしておくことはできなかったのである。

 一方の斎藤家の親戚は多かった。でも、平は気にはしなかった。それよりも平は洋(偽洋)に会えたのが何よりも嬉しかったのである。

 結婚式当日は天気予報では、鹿児島地方は雨の予報であったが、小雨程度であった。

 横浜の伯父は

「平君おめでとう。よかったね」と心から祝ってくれた。

偽洋の本物太は叔母の八重子と一緒だった。

「平。おめでとう」二人は微笑みながら一緒に近づいて来て、握手したのだった。

「洋、お前少し瘦せたんじゃないか?」平は気遣って偽洋の顔を見つめていた。

 偽洋は一瞬ドキッとしたのである。

「最近、少し寝不足なのだよ」と呟いた。

 平は以前の洋が大分変わった様に感じたのである。でも、随分長く会ってないので、成長すれば、少しずつ変わってはいくだろうと気にしなかったのである。

「平ちゃんおめでとう」叔母の八重子は甥っ子の晴れ姿を見て、涙ぐんでいた。兄の昇が生きていたらどんなにか喜んだ事だろうと胸がつまったのだった。

 結婚式は滞りなく終わった。

 新婚旅行はイタリアとのことだった。花嫁の律子の希望であった。

 偽洋は結婚式が終わった後、鹿児島から新幹線で博多に帰って来た。八重子と一緒であった。予定では、この日は冷泉町に泊まって、翌日は飛行機で東京へ帰るつもりだった。

 彼は落ち着かなかった。八重子にいつ、正体がバレルかと気が気ではなかった。夕方、冷泉町の野中家に着いた時には発狂しそうであった。一層、この場ですべてをぶちまけてしまおうかと思った。ところが、不思議なほど、だれも自分が太であることに気が付かなかったのである。

 離れて暮らすと云う事は、こんなにも観察力が無くなるものかと驚いたのだった。しかし、反面、自分たち三つ子兄弟の外見は、それ程似ているのかと思って、怖かったのである。

 祖母の妙子が、今もそのままの状態で残している太の部屋(つまり自分の部屋)を見せて、涙しながら

「洋ちゃん。太はこの机の引き出しに遺書って書いた手紙を入れていたのよ!」と言った時には、思わず叫びそうになった。

『ばあちゃん、俺が太だよ!俺がその手紙を書いて、その引き出しに入れたのだよ』

 偽洋は心の中で叫んでいたのだった。

 結局は、誰からも正体を見破られなかった。洋の仮説は実現したのであった。しかし、喜ぶ気持ちには全くなれなかった。今後も絶対になれないだろう。

 東京に帰った偽洋は、翌日から東大病院に出勤した。いつもの生活がいつも通りに流れていった。


 新婚の平達は、彼が相続した、あの大きな広い家を住居として使用することにしたのだった。新婚のふたりだけで、こんな広い二階建ての家に住めるなんて夢のようだと律子は大喜びであった。彼女は日本風の庭も好きであった。そこで、お父さんが庭の手入れの為の庭師を入れて、元の様に綺麗な庭に修復してくれたのである。

 お父さんも庭が好きだったのである。今後は年に一度、庭師を入れて手入れをしてくれるらしい。但し、週に一回はちゃんと自分たちで手入れをするようにと釘をさされたのだった。

 南国薬局は、律子とお父さんと、事務スタッフ二人の四人体制で運営している。お母さんは経理を担当していた。一日の処方箋の応需枚数は平均八十枚くらいであった。

 科目は内科、整形外科、眼科、そして、時々、歯科と皮膚科が来ることもあった。律子が手伝うことになったので、今後、在宅訪問もやる予定である。

 平は結婚した翌年の五月に鹿児島出張所の所長に昇格した。社内的には課長待遇であった。男性社員五名と女性社員二名の総勢八名体制であった。カバ-エリアは鹿児島県と宮崎県の全域であった。取次協力店が十二か所あった。

 平には数値責任があるが、遣り甲斐も出て来たのだった。


 友田太は長崎大学の医学部を卒業して、医師国家試験にも合格して、晴れて医者になったのである。すべて大先生のお蔭であった。雄一先生も大変喜んでくれた。

 太は一年間、友田クリニックを手伝って、その後、長崎がん研究センタ-で勤務することになっていた。現在いるがんセンターのドクターの一人がドイツに留学する事になったのである。太はその後任として招聘される予定だった。

 これは、元センター長であった大先生の意向であった。大先生は現在、センター長を辞して、長崎医科薬科大学の医学部の特任教授になっていたのだった。しかし、がん研究センターには依然として現在でも影響力を持っていたのである。

 太は病気の再発もなく、体調は良好であった。しかし、三か月に一回は定期的に検査を受けていたのである。

 

 彼は生きている自分自身の存在が不思議でならなかった。そして、死ねなかった事を太(本物の)に対して本当に申し訳なく思っていたのである。ずっと悔やんでいた。やっぱり死んでしまおうと何度も考えたのだった。

 でも、死ぬ事は出来なかったのである。決して命が惜しいのではなかった。ここまで生かされたら、逆に何かをしなければと思い直したのである。それに自分を此処までにして呉れた人たちに報いることが大事だと考え直したのだった。

 彼の身代わりになった太の、その後の消息は知る由もなかった。でも、頭の中には常にあったのである。消えようがなかった。そして、いつかは池田洋が友田太となって生きていることを、池田洋となっている可能性が高い野中太に知らせる事が必要であると考えていたのである。

 これは誰にも訊けないことであった。自分自身が行動するしかなかった。

 翌年の四月に、友田太は独立行政法人の長崎がん研究センタ-に血液内科の専門医として着任したのであった。



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