第11話  大先生

 大先生の雄介医師は、今、五十八歳だった。東大病院を退職したのが」五十二歳であった。

 将来を嘱望されていた時の突然の退職であった。

 そして、その実力を期待する動きが地元長崎で起こったのであった。

 五年後に長崎に、国立がんセンタ-を創ろうと言う話が出て来ているのであった。

 そして、その初代のセンタ-長を友田雄介先生に依頼しょうという計画が、出て来たのだった。

 地元長崎の県知事、市長、長崎大学、県医師会も誘致に積極的に動いているのだった。長崎は離島も多い。そこの住民や首長も、こぞって応援していたのである。

 実現すれば、タイミングとして、雄介先生にとってはベストであろう。でも、大先生自身は全く気にも留めていなかったのである。

 看護師の浜田さんに案内されて、雄介先生は、洋の入院している二階の202号室に入った。一応、診察に来たという理由で浜田さんは洋に大先生を紹介したのだった。

 浜田さんは先生の紹介だけして、退出していった。

「やあ、えーと野中君だったかな?はじめまして」

 大先生は気さくに声を掛けた。

「はい、そうです」洋は緊張して応えた。

 大先生は形式的に聴診器を胸と背中に当てて

「体調はどうだい?」と質問した。

大分だいぶんいいです」と怖気おじけながら応えたのである。

 大先生はじっと黙って、静かに、そして、にこやかに洋の眼を見つめていた。

「何か困っていることはないかい?」と訊ねたのである。

「実は僕、お金を持ってないのです!ここの治療費や入院費が払えないのです」

 俯いて応えた。

「なるほど、そうか。それは僕が何とかしてあげるよ。安心していいよ。そのほかに困っていることはないかい?」

 大先生は同じ質問を繰り返したのだった。そして、やはり、洋の眼をじっと見つけ続けていたのであった。

 洋は、たまらなくなって泣き出した。すると、大先生は話し出した。

「君は何を訪ねても何も喋らなかったそうだね」と切り出したのである。

「昨日は、野中太のなかふとしと、名前だけは打ち明けてくれたそうだが、それも本当かどうかは誰にも解らない。第一、住所も親の名前も分からないのに、ポツンと唐突に氏名だけしか言わないのも不思議だよ」と続けた。さらに

「ここで、身分証明証や運転免許証を提示しても、信じがたいよ!自殺する人間にとって、そんなことはどうでもいいのだもの」と言われたのである。

 大先生は、院長から話を聞いているうちに、これは自殺未遂だと判断したのだった。そして、若者と聞いて、心の病を心配したのである。彼は、自殺の失敗者は、何度でも、自殺を繰り返すことを過去に経験していたのだった。それに、彼の生来のお節介の虫が加担したのである。

 洋は賢い子であった。ここで、運転免許証などを出して

「これを見てくれ!ちゃんと俺の住所も名前も書かれているだろうが、写真も俺本人の写真じゃないか。俺は間違いなく野中太なのだよ」と大先生の前に出すことができなかったのである。すべて、看破かんぱされてしまうと思ったのであった。

 洋は今迄の事をすべて、大先生に打ち明けたのだった。

 大先生は洋の話を最後まで、静かに聞いていた。そして、言った。

「まずは、君の現状の病態を検査しょう。明日、長崎医科薬科大学の附属病院に紹介して、転院させるから」といったのである。

 そして、翌日、洋は長崎医科薬科大学病院に転院したのである。即、受け入れが実現したのだった。

 その病院の血液内科の主任教授は大先生の教え子であった。

 大学病院では、洋は、あらゆる角度から、多くの検査を受けたのである。治療も徹底して実施された。すべて、治験としての研究としたのだった。これは洋と大先生との話し合いで決めた事であった。

 開発された新薬は積極的に治験として使用したのだった。洋も死んでもチャラであると覚悟を決めていた。

 将来の医学に役立つならば、本望であった。どうせ、死んでいるはずの身体である。まさに実験動物並みであったのである。

 ところが、一年半の集中治療で、何と!洋の癌は消失したのである。複合した施術、治療がシナジ-効果を発揮したのであろう。相乗効果が良い方に作用したのだった。研究チ-ムも成功事例として、発表したのである。

 この成功事例で、長崎薬科医科大学の血液内科の名声も上がったのである。

 この治療に側面から協力応援した、友田雄介先生も血液学会から注目される結果になったのである。

 元々、医学界では傑出していて、その名前はメジャ-であった医者であったのだから、周りからも

流石さすが、友田博士だ!」と、その存在が再認識されたのだった。

 洋はその後、大先生である友田雄介先生の養子になったのである。

 野中太のなかふとしから友田太ともだふとしになったのである。戸籍上の手続きは親元が不詳の孤児院から引き取ったことにしたのである。その辺の処理手続きは大先生の友人の弁護士との裁量でやってしまったのだった。行方不明者の野中太の情報とは繋がらなかったのである。

 これで、洋は友田太に、本物の太は池田洋になったのであるが、偽洋の本物の太は、そのことを、この時点では知り得なかったのである。

 友田太となった洋は、自殺失敗から三年後(2010)平成二十二年に長崎大学の医学部に入学した。

 養父の大先生も友田クリニックの院長の雄一先生も、彼に医者の道を勧めたのだった。ただ、この件には太と大先生のふたりだけの真実の訳が別にあったのではあるが・・・・・

 太もそれを望んだのであった。

 彼が、どうしても『太』の名前にこだわったのは、母の育代が、三つ子三兄弟に『太平洋たいへいよう』と名付けた名前の由来を聞かされていたからであった。養父母の大先生の家族はそれを納得していたのである。


 長崎がん研究センタ-の誘致は実現した。

 建設用地は、かねてから予定されていた大手機械メ-カ-の工場跡地であった。現在は更地で売りに出されている土地であった。竣工は予定通りに運んだ。

 開所式は(2012年)平成二十四年の十月十日に行われた。

 初代のセンタ-長には当初の計画通りに大先生の友田雄介先生が就任することになった。長崎の地にがん治療の拠点が誕生したのである。

 この時、太は長崎大学の三年生であった。彼は将来、この独立行政法人長崎がん研究センタ-で働く事が目標であった。

 大先生の家族は、奥様(太の養母)、大先生(太の養父)と雄一先生と雄一先生の奥様と子供さんが一人、の五人家族であった。そこに、太が入ったので六人家族になったのである。

 雄一先生たち親子三人は別に家を持って生活していた。したがって、大先生宅は太と大先生夫婦と太の三人であった。鹿児島の時と同じ様な家族構成となったのだった。ただ、鹿児島の時は叔母夫婦が養父母であり、現在は大先生夫婦が養父母になったのである。

 その養母であった叔母の八重子は、現在、離婚して、博多の実家で父親の介護を母親と一緒にしているのであった。その実態を本物の洋である友田太の彼は、知る術はあるが、連絡することは出来なかった。

 叔母にとっては養子の洋が東京にちゃんと居るのである。『その洋は、実は本当は太なのだよ。この俺が本物の洋なのだよ』とは絶対に言えない運命なのである。

 それを告白すれば、偽洋の、つまり、本物の太の人生は終わってしまうのである。

 全ては自分が蒔いた種である。身から出た錆であった。

 友田太はこの悩みからは一生逃れられないのである。

 でも、余命一年と宣告された自分が、現在こうして生きていることには感謝している。すべては友田雄介先生のお蔭であった。雄介先生は太のすべてを納得していたのである。そして、その秘密は太と雄介先生のふたりだけしか知らない事であった。

 大先生は家族のだれにも真実は告げていないのである。医者の範疇の守秘義務ではなく、それぞれ、全人間としての守秘義務であった。

 唐突に太を養子にすると言い出した時には、家族の者たちは唖然としたのであった。息子の雄一先生も、大先生の奥様の直美さんも、その理由を訊ねたのだった。

 すると、大先生は

「なかなか見どころのある青年だ。それが、死を宣告されるような病に罹ったのだ。そして、彼は前途を悲観して、自ら自分の命を絶つ決心をする程迄に悩み、苦しんだのだ。その彼を生かしたのは、私達だ。生かした私達には彼に対して責任がある」と言い放ったのである。

 家族にとっては理解し難い理由であったのだが、言い出したら後へは引かない大先生の性格を知っていたので、だれもそれ以上は追及しなかったのである。

「書生を一人預かったつもりでやってくれ!」とみんなには頼んだのだった。

 大先生は太(本物の洋)が医者を目指していた事を本人から聞いて知っていたのであった。家族の他の者たちは誰も知らなかった。家族の者たちは、大先生が勧めたためだろうと思っていたのだった。

 かくして、友田太は、何不自由なく大学生活を続けることができたのである。

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