第9話  平、鹿児島へ

 平の養父母は育美の両親である。つまり、平にとっては外祖父母である、その養父の田尻公夫は、平が医療機器メーカ-に就職した年に、さらに、養母の幸代は翌年に続けて亡くなった。公夫が九十二歳、幸代は九十歳であった。ふたりとも長生きであった。この時は不動産業は、もうやってなかった。

 田尻家には育代の上に兄がひとり居た。横浜の貿易商に勤めていた。育代より二歳年上なので、今年七十歳である。彼は、横浜で家を建て、家族と住んでいた。そして、現在は独立した子供たちも皆、関東圏にいたので、だれも鹿児島には帰って来る予定はなかった。兄は相続権を放棄して、鹿児島の土地家屋をすべて平に譲ったのである。

 これを機に、平は鹿児島の家に、昔同様に住むことになったのである。

 彼は、会社に事情を話して、鹿児島の出張所への異動依頼を願い出たのであった。そして受理された。


 一方、野中家は、大工の光明が脳内出血で倒れ、動けなくなってしまった。しばらくは、車いすの生活で、リハビリを続けていたが、二年前からは寝たきりになってしまったのである。しかも、認知症が発症したのだった。妙子と八重子は光明の介護に追われる生活の毎日であった。

 光明は時々

「太はまだ、学校から帰って来てないのか?今日も部活で遅いのか?」などと、妙子や八重子を怒鳴ったりした。彼は、まだ、太が高校生だと思っているのだった。そんな光明を観て、妙子は涙ぐんだ。

「もうすぐ、太はかえってきますよ!」と光明をなだめるのであった。

 妙子も最近では関節のあちこちが痛むようであった。それぞれの家庭が高齢化していっていた。

 今の野中家の生活は、八重子のサンエイでのパートと妙子の帽子屋での収入がおもであった。光明の年金は国民年金で、掛けた年数が短かったので、月に換算すると三万円くらいしかなかった。

 生活保護にはなれないし、特別養護老人ホームに入るにしても、月に五万円以上かかるので入所できなかったのである。でも、入所の空き待ちのために定期的な調査票は三か所の特養に出し続けていたのだった。

 現在、要介護度は三なので、入所費用さえ目途がたてば、入所出来るようにはしているのだった。

 一度、入所できるチャンスがあったが、費用面で断念したのである。

 

 平は成り行きで若くして家持いえもちになった。しかも、新しい勤務地の鹿児島出張所までは車で、自宅から三十分で着く距離であった。

 引き継いだ家は、土地の広さは二百坪以上あり、二階建ての家屋であった。

 部屋は各階に四部屋ずつあった。一人では持て余す広さである。

 ガレ-ジ、倉庫、日本庭園風に造られた庭もあった。庭には池もあり、錦鯉も飼っていたのだった。さすがに不動産屋の経営者の家であった。固定資産税が心配ではあった。

 相続の手続き等の処理は養父(外祖父)が懇意にしていた司法書士がすべてやってくれたのである。

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