第3話 育美死亡
時が流れて十五年が経過した。
育代は一年前に発見された子宮がんが身体のあちこちに転移して、死亡したのである。一年前の集団検診で見つかり、投薬と放射線治療を行っていたのであるが、進行が早く、各臓器に転移していたのだった。そして、良くもっても余命一年と宣告されていたのだった。結果的には医者の宣告通りになってしまったのである。
この時、残された太は十五歳になっていた。中学三年生である。勿論、三つ子全員がそうであった。育代の葬儀は博多駅近くの証城寺で執り行われた。浄土真宗西本願寺派の寺である。野中家の菩提寺である。葬儀は極々内輪で行われた。
参列者は鹿児島からは育代の両親である田尻公夫と幸代、それと、昇の妹夫婦である池田民雄と八重子が参列した。
野中家は育代の義理の両親である野中光明と妙子であった。そして、各家の三つ子たちが加わり、総勢九人であった。喪主は昇の父親である大工の野中光明が務めた。
寂しい葬式であった。
三つ子達が一堂に会するのは今回が二回目であった。三人とも、自分たちが兄弟であることは既に知っていた。小学校五年生の時に三家族で、ディズニ-ランドに一泊二日で遊びに行ったときに知らされていたのである。平と洋は、その時に実の母親の顔を初めて見たのであった。
「やあ、太。久し振り」と着いて早々、平が太に声を掛けた。
「おおっ!平。元気だったか?」と太は応じた。そこへ懐かしそうに洋が近づいて来た。
「二人とも元気そうだなあ」太と平の肩を叩いたのだった。
「ところで、ふたりは受験勉強は進んでいるのかい?」洋が訊ねた。
「そう言うお前はどうなんだ?」平が訊き返した。
「俺はそのままラサール高校に進学する予定だよ」洋は現在ラサール中学に在学中であった。そのまま進学できそうであったのである。
「太はどうするのだい?」洋が訊いて来た。
「俺は福岡高校を受験する予定だよ」
「平はどうなんだ?」太が平の顔を見つめた。
「俺は鹿児島工業高校に推薦で決まったよ」平は鹿児島第一中学校の野球部のエースであった。鹿児島工業高校は野球の強豪校である。過去に甲子園に二回出場している。いずれも初戦で敗退していた。ピッチャ-を強化するのが課題であったのである。私立高校なので、スポ-ツでの推薦枠もあったのである。
「へえ、じゃあ受験勉強しなくていいじゃん!」と洋。
「うん。ちゃんと卒業できたらな」と平は笑っていた。
「中学校を卒業出来ない奴なんていないだろうが」と洋も笑った。
葬儀は午後一時から始まり二時半に終わった。遺骨は野中家の仏壇に置かれた。後日、証城寺の納骨堂に納められることになる。夫の昇と一緒である。
ただ、今回は分骨して、田尻家と池田家も遺骨を持って帰ったのである。各家の墓にも埋葬することにしたのである。三つ子のそれぞれの母親であった証(あかし)の為にも、それは必要であった。
三つ子達はそれぞれ予定通りの高校に進学した。その後も毎年、母、育代の命日には三人は集まって証城寺に参ったのであった。
平は夏休み中の強化合宿中であったが、この日だけは野球部の監督の許可を貰って、必ず、参加したのである。平と洋は、中学生まで母の育代と暮らしていた太から、母親の事を聞きたがったのである。そして、太の話を聞くたびに、優しい母親だったのだなあと実感するのであった。
野中家は決して裕福では無かった。大工の光明も歳をとってからは、工務店からの仕事のオファーも少なくなった。仕事の無い日は、昼間から酒を飲む日も多くなりだした。帽子屋に勤めている妙子の収入が頼りであったが、それだけでは一家の経済は支えていけなかった。
昇のラーメン屋も三年前に三百万円で手放していたのだった。そのため、家賃収入もなくなってしまっていたのである。この時は、育代は、以前勤めていたひまわりドラッグでパートとして働いていた。でも、その育代も死んでしまった。
太は祖父母に気兼ねしながら、何とか高校を卒業したのであった。そして、福岡市の交通局に就職したのである。地下鉄の運転士になるためだった。
洋はラサール高校から東京大学の理三に合格した。医学部に進学する予定であった。平は鹿児島工業高校を卒業後、医療機器メーカ-に就職した。彼は在学中に甲子園球場のマウンドに立つことは出来なかった。それだけが心残りであった。
三つ子達はそれぞれの道を歩み始めたのだった。
洋は東京の文京区本郷三丁目の駅前の学生マンションに入居した。入学式も終え、大学に通い始めた。ところが、その矢先に養父母である池田夫婦が離婚すり事になったのである。もともと五、六年前頃から二人の仲は破綻しかけていたらしい。洋は鹿児島市内の居住者であったが、ラサールの中学、高校と寮に入っていたので、細かい事情は理解してはいなかった。
養父の池田民雄と洋の叔母の八重子との出会いは大手スーパ-のサンエイの香椎店であった。当時、民雄は紳士服部門のサブマネ-ジャ-であった。そこへ八重子が新入社員として、入社してきたのである。ふたりは一年半交際して結婚したのである。その後、民雄は北九州の店を二店舗転勤して、鹿児島店にマネ-ジャ-として、異動したのである。その時に洋を養子に迎えたのだった。ふたりは洋を我が子として養育して育てて来たのである。
民雄も本当に良く洋を可愛がった。洋の心の中の養父民雄の思い出は楽しい思い出しかなかった。
それは六年前のことであった。サンエイでは、毎年十月に秋の定期人事異動が発令されていた。民雄に大阪本社の紳士服のバイヤ-としての異動が発令されたのである。民雄は家族帯同で大阪に引っ越す事を八重子に提案したのだった。
ところが、八重子は民雄について大阪に行かないと言い出したのである。
「洋が学期ごとの退寮の際、鹿児島から大阪では遠すぎます。往復の費用も掛かりますんで、私は鹿児島に残ります」と反対したのである。でも、この反対意見の根拠には、あまり意味は無かったのである。
中学生ともなれば、飛行機で鹿児島から大阪までの往復は、それ程大変な事ではない。費用にしても、鹿児島のアパ-トの家賃を払ったりする方がもっとかかる筈である。確かに、ラサ-ル学園の寮は夏休み、冬休み、春休みの期間中には、一旦、寮生は寮が閉鎖されるので、自宅に帰省しなくてはならない。しかし、この学園には全国から生徒が集まって来ている。別に鹿児島でなくても大阪に自宅があっても何ら問題は無いのである。でも、洋に何事か緊急事態が起こった場合、今の鹿児島市内の家であれば、すぐに駆け付けることが出来ると八重子は言い張ったのである。
八重子は甥っ子を溺愛していたのである。自分たち夫婦に子供が出来なかったので、実の母親以上に洋に対して心配するのであった。
民雄はこころの優しい男であった。
「解った。じゃあ俺は単身で行くよ」と納得したのだった。洋は八重子にとっての生き甲斐である。彼女の云う通りにしてやろうと決断したのだった。
民雄は単身で大阪に赴任したのである。でも、一度結婚して所帯を持った男は、女房の居ない生活は不自由で辛いものであった。単身一年目に大阪で女が出来たのであった。相手の女性はサンエイの京橋店に派遣されていたK化粧品メーカ-の美容部員であった。
この情報は偶然にサンエイ鹿児島店の民雄の元同僚から八重子は知らされたのだった。商品部の会議が大阪本社であった際に、たまたま知ったとのことであった。彼は早く手を切るように忠告したそうだ。でも、民雄はニヤニヤしていただけだったらしい。
八重子は本人に電話で確認したのである。そして、民雄は白状したのであった。
性格のきつい八重子は即、離婚を告げたのだった。民雄も同意したのである。
二人の結婚生活は二十八年目にして破綻したのだった。離婚が成立した年に洋は東大生となったのである。
洋は養父母の離婚問題は、いずれ起こるであろうと思っていた。しかし、このタイミングで結論が出るとは想定していなかった。養母である叔母の八重子は
「ごめんね。どうすることも出来なかったのよ。お父さんを許せなかったのよ」と泣きながら洋に詫びたのであった。
「解った。自分の事は自分で何とかするよ!」洋はそう応えるしかなかった。
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