第11話白と黒と青の翼

 時刻は、少し前に遡る。


「……………」


 クロムは眉を寄せて、目の前に突然現れた天使を見た。親譲りのさらりとした金髪。蒼い瞳はまぶたの裏に隠れているというのに、小さな翼がぱたぱたと動いている。


「……リリィか」


 その幼い天使の名を呼んで、クロムは深い溜息をついた。


「お前は父親そっくりだな」


 その金髪や笑顔がルキウスにとても似ているとは日頃から思っていた。しかし、瞬間移動で突然現れるところまでそっくりだとは予想外である。天使の能力は生まれた時から使えるのではなく、ある程度物心がついてから少しずつ練習して使えるようになっていくはずだが、彼女は瞬間移動に天性の才覚があったようだ。


(こんなところに現れるとはな……連絡したいが、難しいか)


 同じく瞬間移動を得意とするルキウスが追ってこないところを見るに、リリィはひとりで突然消えたのだろう。保護者の側は今頃パニックになっているだろうと想像がつく。しかし残念なことに、クロムは連絡手段を持っていなかった。


(こんな状況でさえなければ、城まで抱えていけるんだが)


 クロムはぐるりと周囲を見回した。丸太を切り出して組んだような簡素な造りの一軒家。二口コンロにシンク、二人掛けの小さなテーブルと椅子、大きな暖炉。大きな窓の外には小川が流れ、太陽の光を受けてきらきらと光っている。


 クロムの家ではない。家族でも、友人でも、知り合いの家ですらなかった。ここは空き家だ。では、何故悪魔のリーダーであるクロムが、天国の小さな空き家の中にいるのか。原因は、この小屋の中にいるもう一つの翼に他ならない。

 

ーーパタパタと小さな翼を動かし、猛スピードで空き家の端から端まで飛び回る、小さな小さな青い鳥。


(できれば捕まえたいが、これは無理だな。分が悪い)


 城に書類を届けに行った帰りにたまたま見つけた青い鳥は、想像以上に素早かった。天国一フットワークが軽く瞬間移動を自在に使うルキウス。彼が捕まえられないという報告を聞いていたので、一筋縄ではいかないとは思っていたがこれは無理だ。単純なスピード勝負ではクロムの方が早いので、天国の広い空では追いやすかった。しかしこの小屋に追い込んでからは、青い翼を目で追うのが精いっぱい。頑張って追ってみたところで、体格の大きなクロムでは壁や天井に激突して終わりだ。


「んんー……」


 腕を組んでどうしたものかと考えていると、目の前でリリィが唸った。クロムの頬がひくりと動く。今目覚められても、子育てスキルが皆無な彼にはどうすることもできないのだ。


(目覚めるなよ)


 祈るようにその愛らしく整った顔を見つめる。その顔を覗き込んだ誰もが笑顔になるであろう天使の寝顔。しかしクロムの表情は渋く、視線はその閉じたまぶたにピンポイントで注がれている。頼むから、保護者が来るまで開くなと。


 しかし、ここは天国。悪魔の祈りなど通じるはずもなく、リリィの蒼い瞳はパチリと開いてクロムを捉えた。


「まま…………?」


 目を開けた先には当然母親がいると思っていたであろうリリィは、クロムの顔を見て固まった。たっぷり十数秒ほどの間、その表情は動かない。彼女は、泣くかどうか迷っているようだった。


「ふぇっ、ママ……」

「待て。大丈夫だ、落ち着け」


 クロムは慌てて両手を上げて、リリィに話しかけた。会った事はある、少しだけど話したことも。懐かれてはいないが、全く知らない仲ではないはずだ。


「クロムだ。わかるな」

「…………ママどこ?」

「今探しているところだ」

 

 厳密に言うと探してはいない、むしろ探されるのを待っている状態だが、クロムはとりあえずそう言った。リリィの目が潤む。再び開いたその口から、泣き声や叫び声が出ないことを、クロムは祈るしかなかった。


「マーマーーーー!!」


 やはり祈りは通じず、リリィは叫んだ。その声で驚いた青い鳥がバサバサッと羽音をたてる。ビクリとリリィの肩が跳ねて、叫び声が止まった。


「とり……?」

「ピィー」


 リリィの目の前で青い鳥が鳴いた。その澄んだ声に、リリィの瞳から涙が引っ込む。


「とりさん!!」

「……鳥だな」


 クロムは腕を組んだ。先ほどから彼はずっと、暖炉の前に立っている。煙突から青い鳥が逃げないように自らの身体で塞いでいるのだ。ここには完全に暖炉を塞げるような家具もない。氷の能力で塞ごうと思ったが、狭い部屋の中で万が一青い鳥まで凍らせてしまったらと思うとそれも使い辛かった。


「とりさん! みて! とりさん!」

「そうだな、鳥だ」

「ちがう、とりさん!!」

「わかった。鳥さん・・・だ」


 リリィは言いなおしたクロムを見て満足そうに頷くと、青い鳥に目を向けた。動物は基本的に死んだらその場で生まれ変わるので、死後の世界に来ることは滅多に無い。絵本などで知っていても実際に見たことはない鳥の姿に、リリィは目を輝かせていた。


(助かった……)


 クロムは今はじめて、青い鳥に感謝した。同時に少し冷静にもなった。何とかしてこの状況を誰かに伝えなければならない。


(連絡手段がないのは厄介だな。暖炉に火をつけて煙を出すのも危ないし、鳥とリリィを置き去りにするのは無しだろうな……リリィの瞬間移動も、訓練しているわけではないから使えないだろうし。いっそ鳥を残してリリィだけ城に……いや、留守の間に暖炉から逃げたら鳥探しは振り出しに戻る。それは避けたい)


 いくら考えても、いい方法は思いつかない。そのうちに、クロムの耳に澄んだ音が聞こえた。鳥の声ではない。サタンからの呼び出しだ。サタンが持っている黒いホイッスルを吹くと、どこの世界にいてもその音がクロムの耳に届くように出来ている。


「サタン様……今は無理です」


 サタンに聞こえるはずもないのに、クロムはそう言った。いつもなら何よりも優先する笛の音。しかし今はここを離れるわけにはいかないのだ。サタンには悪いが、無視するしかない。


(頼むから誰か来てくれ)


 青い鳥がパタパタと、窓際に向かって飛んでいく。リリィがその後を追いかける。


 唯一閉まらない出入り口となる暖炉の前に立ち塞がりながら、目では青い鳥を常に追い、時に泣きそうになるリリィを不器用になだめ、大きな窓から差し込む日差しがだんだんと茜色に染まるのを無情な気持ちで眺めながら、クロムは今まで生きてきた中で最も長い半日を耐えていた。


 

――――外から物音が聞こえた時には、もうすっかり日は傾いていた。窓からそっと覗くシルバーの顔が見える。しかし、向こうからこちら側はよく見えないのか、その表情は不審げだ。


(助かった。早く入り口に……)


 クロムはリリィを見た。今はパタパタと小さな翼を動かし、不器用に飛びながら鳥を追いかけている。ドアを開けた瞬間に飛んで行ったりしないだろうか。とりあえず二つの翼を押さえておくのが先かもしれない。


(どうやって捕まえるか……っ、まずい)


 青い鳥が暖炉に向かって飛んでいく。クロムは一度離れた暖炉の前へと再び戻った。鳥はパタパタと青い翼を動かしながらクロムの前で止まった。目が、合ったような気がする。


(…………)


 しばらく、クロムは鳥と見つめ合った。窓の外で、シルバーやルキウス、ミカエルの声が聞こえる。小声なのでクロムの地獄耳にも流石に全部は聞こえないが、凄く不審者扱いされている事だけはわかった。


「いい加減帰りたいだろう……俺もだ」

 

 外からの声に加え、サタンからの三度目の呼び出しの笛も聞こえてくる。クロムは鳥を見ながら呟いた。珍しく弱音が出たのは、相手が鳥だからだろうか。


「お前の居場所はここじゃないだろう」

 

 鳥に言葉が通じるわけがないといつもなら突っ込む側だが、クロムは続けた。気のせいに違いないが、何となく鳥が頷いた気がするほどに、彼は今弱っている。


 クロムがそっと手を出すと、青い鳥は大人しく腕に乗った。疲れたから休みたかったのか、それとも本当に通じ合えたのか、精神的疲労から幾分か柔らかくなった彼の雰囲気が、近寄り易く感じたのかもしれない。


「おうちかえる?」


 リリィがパタパタ飛んでくる。クロムが頷くと、リリィも彼の腕に乗ろうとした。クロムは空いた片手でリリィを抱いた。天使の子どもはとてもあたたかい。しかし、無意識に聖なるオーラを放つので、悪魔にとっては危険だ。天国に長時間いられるほど慣れているクロムでも、時々静電気が起きるようなピリッとした痛みが走る。


(早く引き渡さないとな)


 しかしクロムがそう思ったのは、リリィを抱く時間を短縮するためではない。外が騒がしくなってきたのだ。何か声を出して安心させてやろうかとも思ったが、いきなり大きな声を出したらまた鳥が逃げるかもしれない。少し迷いながらも、クロムは慎重にドアまで歩いた。実際は足音ひとつ立てないその仕草が外の不審者疑惑を加速させる事となったのだが、クロムにはそれが精一杯の配慮だった。


「帰るぞ」


 念を押すように鳥とリリィに視線を合わせ、それからクロムはドアを開けた。リリィと鳥の様子を見ながら少しずつ慎重に、しかし一刻も早く知らせたい気持ちが動きを早める。


「……クロム?」


 最初に目が合ったのは、やはりシルバーだった。見慣れた新緑の瞳を見た瞬間に、心からの安堵の息が漏れる。自分の本当の居場所は地獄なのだが、この顔を見て何故か帰ってきたと感じるのだから不思議だ。


「リリィ! クロム、ありがとう!」

「青い鳥だ……ありがとうクロム」


 すぐにルキウスとミカエルも現れる。ルキウスはすぐにリリィを抱き抱え、ミカエルは青い鳥を白い光で包み込んだ。シルバーはというと、鳥と子どもに懐かれるクロムの珍しい姿を見て、静かに肩を震わせている。


「おい。笑うな」

「だって……おかしくて……っ」

「クロム、本当にありがとう! 怪我とかない?」

「鳥を追って浮いていた。ずっと見ていたが痛い思いはしていないはずだ」

「クロムがだよ。リリィ抱っこしてたし痛かったろ?」


 自然とリリィの事を先に考えるクロムに、ルキウスは微笑んだ。この悪魔は本当に優しい。しかし、自分の事を後回しにしすぎだ。


「地獄に送るよ」

「いやいい。早く帰れ、ローズが待っているだろう」

「ままは?」


 クロムは少しかがんで、ルキウスの腕の中にいるリリィに視線を合わせた。

 

「すぐに会える。消える時はパパと一緒にな。一人では行くな」


 どこまで理解できているかはわからないが、とりあえずリリィが頷くのを確認してから背筋を伸ばす。ルキウスは申し訳なさそうにしていたが、ローズの待つ執務室へと消えていった。今日は家族水入らずで過ごすのだろう。


 鳥の魂を抜き終えたミカエルが、眉を下げてクロムの方を向いた。

 

「クロム。本当に今日は助かった。これから私も地獄に行って、サタンに事情を説明……」

「ダメよ」


 シルバーがミカエルを止める。サタンはよく天国に来るが、ミカエルが地獄に行くことはない。遥か昔に行った時は、その慈悲に溢れた聖なるオーラを見た罪人が救われると勘違いして喜び、何もせずに帰った事で暴動が起きた。とても迷惑だ。


「ミカエル様が行ったら更に迷惑かけちゃうわよ。あたしが行くからミカエル様は青い鳥の方をお願い。まだ探してる天使いるんでしょ?」

「……わかった、そうするよ。すまないねクロム」

「いえ。一人で帰れるので……」

「あんたはもうひとりにならないほうがいいわよ」


 シルバーが労うようにクロムの肩を叩く。クロムはあまり感情を表に出す方ではないが、目があった瞬間の安堵の表情はかなりものだった。きっと相当心細かったはずだ。


「じゃ、行ってくるわね」

 

「すまないね。サタンによろしく」


 ミカエルの感謝と気遣いの視線を受け、一礼してクロムは飛んだ。シルバーもすぐに後を追い、二つの翼は並んで茜色の空を飛んだ。


「来てくれて助かった……」

「お疲れ様。大変だったでしょ」

「俺には向かない仕事だ」

「ふふ。そうね」


 本当に帰るべき場所へと向かいながら、ぽつりと零される本音。受け止めてくれる人がいる事の有り難さを感じながらクロムは翼を動かし続けた。


 この時、地獄では生真面目なクロムが誰にも行き先を告げずに半日消えるという前代未聞の事件を受け大捜索が起こっており、クロムとシルバーは更に朝日が昇る頃まで、謝罪と事情の説明に飛び回る事になったのだった。



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