第12話マスターの証

 最下層奥の黒い扉に手をかざし、音もなく開いたそこへ足を踏み入れる。中ではこの部屋の主であるサタンが、時折長い前髪を掻き上げて唸るように大量の書類へ向かっていた。


「何っで全然減らねぇんだこれは?」

「さぁ? 不思議ですね」


 クロムは何食わぬ顔でサタンの机に新たな書類の束を加え、文句を言われる前に素早く隣の少し簡素な事務机に座った。ここはサタンの部屋だが、一緒に作業できるようにと少し前にクロムの専用机が用意されたのだ。サタンは自分と同じ豪華な机をと思っていたが、予算が勿体無いと当の本人に却下された。


「あー、やってらんねぇ。糖分ねぇと死ぬ」

「はいはい……そういえば、天国の料理人がサタン様に食べて欲しいと言っていたものが」


 クロムはすぐに立ち上がり、黒の部屋を出ていく。ほどなく戻ってきた彼は、一枚の皿を手にしていた。サタンの甘党は天国でも有名なので、たまに料理人から菓子をもらうことがある。


「何だこれ? 見た事ねぇな」

「カスティラというらしいですが、人間界でも味わえない新作だとか」

「またかよ。あいつ凄ぇな」


 天国の城の料理人は最近、次に人間界で流行しそうな新しい料理を先に開拓するという遊びにハマっている。おかげで最近の天国は行くたびに、味の想像もつかないような斬新な料理が並んでいるのだ。そうして数百年後に同じような料理が流行れば大当たり。流行らなければこっそり人間界に行って自分たちで流行らせたりする荒業もある。


「じゃ、いただくか」

 

 サタンは未知のものを食べるにしては慣れた仕草で、ふんわりとした黄色の食べ物にフォークを入れた。

 

「お、美味い! やっぱあいつ天才だな。これ絶対流行る」

「良かったですね」

「お前も食ってみろよ」

「要りません」

「つまんねー奴。お前趣味とかねぇの?」

「無いですが」

「じゃ試しに、食に興味持ってみろよ。そしたら一日三度は楽しいだろ」

「一日三度も楽しむ必要あります?」

「お前……マジか」

 

 真顔で首を傾げたクロムの言葉に、サタンは引いた。あっという間に皿を空にして、再び書類を手に取る。

 

「さて、そろそろやるか……署名しか書くとこねぇのにくそ時間かかんだよなぁ」

「報告書を読むのに時間をかけすぎです」

「ちゃんと読まねぇと書いた奴に失礼だろうが」

 

 そう言いながら今日も一枚一枚しっかり目を通していくサタンは、今までに署名した膨大な書類の内容を全て覚えているる。そんな事に無駄な記憶力を使っている暇があるなら一枚でも多く片付けてくれと思うクロムからの圧を綺麗に流して、サタンはようやくペンを構えた。


「あー、時間が無限にあればな」

「寿命は無限にありますが」

「嬉しく無ぇー」


 地獄がこの世にできた時から、サタンはこうやって働いている。地獄の管理は自分の役割だと思っているのでそれ自体が苦だと思った事はないが、時々果てしなく続く仕事の山が辛くなってくる事もある。隣で毎日文句を言わず長時間労働に付き合ってくれるクロムがいなかったら、とっくに挫けていたかもしれない。

 

「お前がいて良かったわ」

「何ですかいきなり」

「や。マジで昨日焦ってすげぇ実感した」


 サタンはペンを置いて、黒いホイッスルを取り出した。クロムが無視した呼び出しの笛だ。


「三回も呼んだのに来ねぇとか、只事じゃないだろ」

「無理な時は無理です」


 立場は明確にサタンの方が上だが、クロムは唯一サタンに面と向かって意見する。しかし必要があれば命令も無視するこの男の判断はいつも的確だ。現場にいる者にしかわからない優先順位もあるので、仕方なかったのだろう。


「青い鳥にリリィの保護なぁ。確かにそれじゃどうにも動きようがねぇが……」

「だから無理でしたと言っているでしょう」

「どんだけ探したと思ってんだ」

「それは……すみませんでした」


 クロムは今度は素直に謝った。サタンの表情が真剣だ。思ったよりも心配をかけてしまったようだが、たかが半日空けただけで大捜索はやりすぎでは無いだろうか。


「そんなに心配かけるとは思わず」

「馬鹿。お前が半日誰にも行き先を告げずに消えるなんて、地獄始まって以来の大事件だろぉが」


 サタンは呆れたようにクロムを見た。クロムの仕事中毒ぶりは多くの悪魔の知るところだ。生まれてこの方休みを取ったこともないほど地獄の管理に尽力している彼が消えるなんて有り得ない事だと、クロムを心配した多くの悪魔たちが大捜索を始めたのだ。これはサタンの指示ではない。これほどまでに好かれているのだと、気づいていないのは本人だけだ。


「お前って結構人気あんのな」

「人気なんか要りませんが」

「俺はお前のそういうとこだけが心配だよ……」


 やはり真顔で言い切ったクロムに、サタンは溜息をついた。そしてホイッスルをしまい、代わりに別のものを出す。


「クロム。この際だから、お前にはっきり言っておきたいことがある」


 サタンが取り出したのは、金色に輝く丸い物体だった。地獄でマスターただ一人が持つことのできる、金印と呼ばれるものである。


「……それを使うような書類はなかったはずですが」


 クロムは不可解な顔で金印を見た。金印を使う用途は二つ。リーダーを任命する時に使用する『任命権』と、地獄の法律を改正する時に使う『改正権』だ。ただし、改正権を行使するにはリーダー全員の署名がいる。サタンは説明を続けた。


「まぁいいからよく見ろ。これはこうやって正面から見て右端が任命印、左端が改正印になっててな。あとこの両端を同時に押すと、ここから印が……」

「いきなり何なんです」

 

 法律を変えるような大事件も、何千年も固定のリーダーを変えるような不祥事も起きていないはずだ。盗まれたりでもしたら大変な事になるそれを、わざわざ出して見せる意図がわからない。これ以上ないほどに眉を寄せるクロムを、サタンは真っ直ぐに見た。その表情はいつになく真面目で、金の瞳は夜の湖に光る月のように静かにクロムを捉えている。


「クロム。俺はお前になら、いつ地獄の全権を譲っても構わないと思ってる」


 その口から出た言葉に、クロムの表情が抜け落ちた。


「お前って本当に驚いた時、表情が消えるよな」

「……質の悪い冗談はお辞めください」

「冗談でわざわざこんなもん出さねぇよ」


 サタンは金印を掲げ、そして笑った。クロムはどう返すべきか少し迷って、結局無表情のまま書類に向き直った。サタンの唐突な発言はいつもの事。動揺したら負けだ。

 

「……最近、ミカエルとよく話すんだがな」


 サタンは金印を眺めながらぽつりと続けた。クロムは顔を上げないまま、相槌だけを打っていく。クロムの視線はもう金印には向かない。自分には無関係なものだと、そう思っていた。

 

「地獄にはお前が、天国にはシルバーがいるだろう」

「……まぁ。いますが」

「勿論他のリーダーもいるし、その下にも多くの天使や悪魔がいてこそ天国と地獄は大きな問題もなく役割を果たせている。でも俺たちは、お前らふたりに格別の信頼を置いてるんだ。それこそ天国や地獄を丸ごと託せるくらいにな」

「一部下に信頼を置きすぎでは?」

「お前がただの一部下だと?」

「まさか」


 クロムはペンを動かす手を止めた。正直今は上司の戯言に付き合うよりも仕事をしたい。しかし隣からの視線が途切れないのを感じ、仕方なく付け加える事にした。いつかのシルバーとの会話を思い返す。腹心の部下同士も、偶然似たような会話をしていたのだった。


「……シルともたまに話しているのですが」

「ほう、何を?」

「もしもの時は、俺達が中心となって天国や地獄を守ろうと」

「……そうか」


 サタンは感慨深げに頷いた。しかしクロムは内心で会話を勝手に脚色した事をシルバーに詫びる。正しい会話は、もしもの時は自分達が盾となってミカエルとサタンを守ろう、だ。


 しかし大した違いはない。ミカエルは天国そのもの、サタンは地獄そのもの。ミカエルとサタンを守るのと、天国地獄を守ることは、クロムやシルバーにとっては全く同じ事だった。


「早くそれしまってください。何かあったらと気になるので」

「何なら今すぐ『継承』してやろうか?」

「継承? 何ですかそれ」

マスター交代には継承の手続きってのがあんだよ。金印持てばマスターになれると思ってたか?」

「あなた以外がマスターになれると思ったこともありませんでしたが」

「誰にも譲る気は無かったが、お前になら考えてもいい。地獄が全て手に入るぞ」

「要りません」

「つまんねー奴」


 サタンは笑って、ようやく金印をしまった。永遠に等しい寿命。きっとこの先何千年も、自分が不動のマスターとして地獄を管理していくのだろう。役目を放棄するつもりは毛頭ない。しかし、有事の際に託せる者がいると思うと安心感が違う。決してひとりじゃないと思える事が、今日もサタンの心をしっかりと支えているのだった。

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