第10話


 カヅキ・メディスが医者の息子、斉藤さいとう香月かづきであった頃のことは、もう戻らない過去としてカヅキの中で息づいている。

 13年前のこと。何の力も与えられず、何の意思も示されず、別の世界よりこの世界に転がり落ちた少年がいた。

 当時15歳。


 優秀ではあった。決して一番ではないが勉学もスポーツもでき、文武両道と褒められ、将来を期待されていた少年だ。決まった道への反抗心も無くななかったが、親への尊敬の念はあり、このまま親の跡を継ぎ、父親のようになるのだろうとぼんやりと考えていた。

 そんな彼が、ある日、神と出会うことも、事故に巻き込まれることもなく、気がついたらこの世界に存在していた。


 カヅキは今でも覚えている。

 あれは、学校からの帰り道。確かに家に帰るためにいつもの道を、いつもの様に歩いていたはずだったのに、角を曲がると少し目眩がして、次の瞬間、そこはもう見知らぬ場所だった。


『…………は?』


 振り向いても、見覚えのない景色。

 混乱した。何が起これば、普通にコンクリートの道を歩いていただけで見たこともないほど深い森の中に移動できるのか。前触れも無ければ、後からのフォローも何一つなかった。


 あるのは、ただの現実だけ。


 物語の中のように、そこから何かの運命が回り始めることもなく、神からの説明も、能力も、何も与えられない。

 そして、戦闘経験どころか喧嘩すら経験のなかった彼は、そのまま歴史の闇の中に埋もれ死んでいてもおかしくはなかった。


 しかし彼は、一人の男と出会う幸運を持っていた。そして、才能はあったのだろう。

 ――――かつての世界にいても決して花開くことはなかったであろう才能が。


 それまでの知識などなんの役にも立たなかった。

 勿論この世界にはない知識が無いわけではなかったが、しかし、あることは知っていても、作り方はわからない。知っているだけでは、役には立たなかった。

 医師の息子であっても、医師の知識があるわけではない。ここには薬もなく、教師もなく、そして調べるすべもなかった。

 死に物狂いで、血を吐き血を浴び血を啜り生き延びた3年間。


 戦争が終わり、共にいた男は倒れ、どこか抜け殻のようになった彼が、男の知り合いに連れられて新しく創設された学園へと入学することになったのは何かの導きであったのか。


 何もかもを諦め、失ったと思い込んでいた彼に降って湧いた学園生活は、学ぶ技術は異なるものの楽しかった。

 例え仮初ではあれ、平和の中での同年代との付き合いは、かつて当たり前のように享受していたあの世界のことを呼び起こすのには十分だった。


 帰りたい、の気持ちがこの世界を見てみたいに変わったのは、そして教師などという、かつて医師への道を決められながらも憧れていた職業に付いているのも、その三年間があったからだと言えた。


 そこから改めて傭兵として世界を見るために各地を転々とした後、教師としてまたこの場所に戻ってきたのが二年前。

 もう思い出すことも無かった、朧気にすら思い出せなかった風景が、空気が、驚くほどに思い起こされていく。


「あれが、例のあかの子かの、他の二人も含めて面白そうじゃな……」


 カヅキがそんな感傷に浸っていると隣からの声がかかった。

 学園長、そしてもう老境と言っても過言ではない身ながら、誰よりも前のめりに試験官として出てくるガロン・セルナンデスその人だ。

 こう見えても元々学園のあるミルドニア皇国の上層部で、英雄としての国内外への名声、そして国内に対する権力も多いことから、政治から離れて学園の長に就任したという経緯がある。


 そしてカヅキの事情を知る一人だ。


「まぁ、昔爺さんに話したってやつでしょうよ。確か黒髪の子供を拾った噂が流れ始めたのは、俺が拾われたのと同じくらいだったから何も覚えてねぇ年頃かもしれないですけどね」


「ふむ、して、どうするかの?」


「気にはなるけれど、まぁ学園に入ってからも俺はいくらでも相手できるでしょうし、そっちが気になるのだけ連れて行っていいですよ? まぁ見たところ、普通にやって人数ちょうどいいくらいにはなるでしょう。もう雑音の処理も終わりましたしね」


 カヅキはそう言って肩を竦めた。

 これから生徒になる若者たちにとっては、不幸かもしれないが、でも幸運でもあるはずだ。


 世の中は平和へと向かおうとしていても、争いがなくなるわけでも力が不要になるわけでもない。

 その中で、士官学園を選ぶ、または選ばざるを得なかったうち、才能がある人間にとって、安全な場所での理不尽を知るというのは、いい経験になる。


 尤も、それが心の傷トラウマになるかどうかまでは責任は持てないが。


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